1737年

サン・カルロ劇場が開場。

イタリア・ナポリにあるヨーロッパ最古級のオペラハウス、サン・カルロ劇場が正式に開場しました。
1737年11月4日、ナポリ王カルロ7世の後援を受けたサン・カルロ劇場が華々しくオープンしました。建築には当時の最新技術が取り入れられ、約3000席を擁する壮麗な内部装飾が特徴です。初演作品はトマゾ・アルビノーニ作曲のオペラで、貴族や王族が多数訪れました。その後、ヨーロッパ各地の劇場設計に影響を与え、オペラ史に残る名門劇場として知られています。現在も世界最古の現役オペラハウスとして文化遺産に指定されています。
1737年 サン・カルロ劇場
1783年

モーツァルトの『交響曲第36番〈K.425 リンツ〉』が初演。この日の演奏会のために4日間で作曲された。

モーツァルトが旅先のリンツでわずか4日間で作曲した交響曲第36番「リンツ」が初演されました。
1783年11月4日、ウィーンからリンツへ滞在中のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、現地の音楽愛好家から依頼を受けて交響曲第36番を急遽作曲。11月4日にリンツ大聖堂で初演され、大きな喝采を浴びました。本作は生き生きとした序奏と軽快なリズムが特徴で、モーツァルトの即興的作曲能力とメロディーメーカーとしての才覚が凝縮されています。以後「リンツ交響曲」として知られ、後世の交響曲作曲家にも影響を与えました。
1783年 モーツァルト 交響曲第36番
1852年

カミッロ・カヴールがサルデーニャ王国首相に就任。

イタリア統一運動の立役者、カミッロ・カヴールがサルデーニャ王国の首相に就任しました。
1852年11月4日、サルデーニャ王国(ピエモンテ)のカミッロ・カヴールが首相に任命され、国内外の政治戦略を主導しました。英仏との同盟を模索しながら産業振興やインフラ整備を推進し、イタリア統一(リソルジメント)運動の鍵を握る政治家として名を馳せました。自由主義的改革を掲げ、王権を背景にした強力な行政運営を行ったことで知られます。1861年にはイタリア王国成立の礎を築く中心人物となりました。
1852年 カミッロ・カヴール サルデーニャ王国
1869年

イギリスの総合学術誌『ネイチャー』が創刊。

英国ロンドンで世界的権威を誇る学術雑誌『ネイチャー』が創刊されました。
1869年11月4日、科学記者ジョン・マレーによって総合科学誌『ネイチャー』がロンドンで創刊されました。初期号は物理学、化学、生物学など幅広い分野を扱い、研究成果を迅速に伝える場として歓迎されました。20世紀以降、ノーベル賞級の論文が数多く掲載されるなど、学術界のハイインパクト誌として地位を確立。現在も週刊で発行され、世界中の研究者にとって重要な情報源となっています。
1869年 学術誌 ネイチャー
明治5年10月4日

フランス人の生糸技術者ポール・ブリューナ指導の下、日本初の本格的な器械製糸工場、富岡製糸場が操業開始。

群馬県の富岡製糸場が操業を開始し、日本の近代産業化を象徴する工場が誕生しました。
1872年(明治5年)10月4日、フランス人技術者ポール・ブリューナの指導により群馬県富岡で日本初の官営器械製糸場が稼働を開始。手作業中心だった製糸に最新鋭のフランス製機械を導入し、生産性と品質が飛躍的に向上しました。これは政府による殖産興業政策の一環で、日本の工業化・輸出産業発展へ大きく寄与。のちに民間へ払い下げられ、現在は世界遺産にも登録されている歴史的施設です。
1872年 10月4日 ポール・ブリューナ 富岡製糸場
1887年

大阪府から分離して奈良県を再置。

明治政府による府県再編に伴い、大阪府から奈良県が再び分離・設置されました。
1887年11月4日、明治時代の地方行政再編成に伴い、1876年に大阪府に編入されていた奈良県が再び独立して設置されました。奈良県は古代日本の都跡を抱える歴史的地域であり、再置は地元住民の自治意識や文化遺産保護の観点から歓迎されました。これにより県庁が奈良市に置かれ、以降現在に至る行政区画が確立されました。
1887年 大阪府 奈良県
1917年

柴田德次郎が、同志らと東京麻布に私塾「国士舘」を創立。現在の国士舘大学の創立記念日。

東京・麻布に私塾「国士舘」が創立され、後の国士舘大学の礎が築かれました。
1917年11月4日、教育者の柴田德次郎らが東京麻布に私塾「国士舘」を設立しました。国士舘は当初武士道精神に基づく人格教育と実践的学問を重視し、人材育成を目指しました。戦後の学制改革を経て専門学校・短期大学・大学へと発展し、現在は多様な学部を擁する総合大学として国内外で知られています。創立記念日は今も学生・教職員による記念行事が行われています。
1917年 柴田德次郎 国士舘大学
1918年

第一次世界大戦: イタリア戦線の停戦協定が発効し、イタリアがオーストリア・ハンガリー帝国に勝利。

第一次大戦のイタリア戦線での停戦協定が発効し、イタリアが勝利を収めました。
1918年11月4日、第一次世界大戦のイタリア戦線における停戦協定が発効し、イタリア軍はオーストリア・ハンガリー帝国に対する勝利を確定させました。ヴィットリオ・ヴェネトの戦いで連合国側が圧倒的優勢を示し、帝国軍は大規模な撤退を余儀なくされました。この停戦により中央同盟国側の崩壊が進み、数日後の11月11日には西部戦線でも休戦が成立し、戦争終結へとつながりました。
1918年 第一次世界大戦 イタリア戦線 イタリア オーストリア・ハンガリー帝国
1919年

ギリシャ国王アレクサンドロス1世が平民の娘アスパシア・マノスと結婚し、パリへ駆け落ち。

ギリシャ国王アレクサンドロス1世が庶民出身のアスパシア・マノスと結婚し、パリに駆け落ちしました。
1919年11月4日、ギリシャの若き国王アレクサンドロス1世が貴族階級の反対を押し切り、平民の娘アスパシア・マノスと秘密裏に結婚。2人は当初アテネを離れ、パリへ駆け落ちしました。このスキャンダルはギリシャ王室内外で大きな物議を醸し、政治的不安定要因ともなりました。アレクサンドロスは1920年に不慮の事故で夭折し、アスパシアは後にギリシャに戻ることなく生涯を終えました。
1919年 ギリシャ アレクサンドロス1世 アスパシア・マノス
1921年

原敬暗殺事件: 原敬首相が東京駅で刺殺される。

日本初の政党内閣を率いた原敬首相が東京駅で暗殺され、国内に衝撃を与えました。
1921年11月4日、当時の日本首相・原敬が東京駅で右翼青年に刺殺されるという衝撃的なテロ事件が発生しました。原は立憲政友会を基盤とする初の本格的政党内閣を率い、財政再建や立憲政治の確立に尽力していました。暗殺は「天皇機関説」問題の余波ともいわれ、事件後は治安対策強化と政党政治への警戒感が高まりました。原の死は大正デモクラシーの象徴的終焉とも評されます。
1921年 原敬暗殺事件
1921年

ナチスの突撃隊 (SA) が発足。

1921年にドイツでナチス党の準軍事組織、突撃隊(SA)が発足した。
1921年11月4日、ドイツのミュンヘンでナチス党は準軍事組織“突撃隊”(SA)を正式に設立しました。 指導者にはエルンスト・レームが就任し、党集会の警備や幹部の護衛を担当しました。 黒い制服の“ブラウンシャツ隊”として知られ、政敵への暴力行使で党勢拡大へ貢献しました。 1930年代に親衛隊(SS)の台頭で勢力を失い始めましたが、独裁体制の土台を築く重要な役割を果たしました。 1934年の“長いナイフの夜”では多くのSA幹部が粛清され、その歴史的評価は賛否が分かれています。
ナチス 突撃隊
1922年

ハワード・カーターがツタンカーメン王の墓の入口を発見。

エジプトの考古学者ハワード・カーターがツタンカーメン王墓の入口を初めて発見した。
1922年11月4日、イギリスの考古学者ハワード・カーターはエジプト王家の谷にあるツタンカーメン王の墓の入口を初めて発見しました。 当時、資金提供者は第5代カーナーボン伯爵で、両者は長年の捜索の末に貴重な古代エジプト文明の遺産を世に示しました。 墓内部はほぼ完全な状態で、多数の副葬品や黄金のマスクなどが残されており、考古学史上最大級の成果とされます。 発掘調査は1923年から本格化し、広大な壁画や彫像、宝飾品の数々が公開され、博物館展示に大きな影響を与えました。 この発見は「ツタンカーメンの呪い」伝説を生み、世界中の注目を集めるきっかけとなりました。
1922年 ハワード・カーター ツタンカーメン