676年
ドヌスがローマ教皇に即位。
676年4月2日、シチリア出身のドヌスが第68代ローマ教皇に即位しました。
ドヌス(Pope Donus)は、676年4月2日に教皇に選出され、第68代ローマ教皇となりました。
出身はシチリアで、前任のアデオダートゥス2世の後を継ぎました。
在位中、ドヌスは教会法の整備と聖職者の任免手続きを強化し、教皇権の安定化を図りました。
また、東方教会との交流を促進し、教会間の調整に努めました。
約2年の在位後、678年に崩御し、中世初期のローマ教会史にわずかながらも足跡を残しました。
676年
ドヌス
ローマ教皇
1795年
フランス革命: 総裁政府が発足。
1795年、フランス革命期に総裁政府が発足しました。
フランス革命後の不安定な政治状況を収拾するため、1795年11月2日に総裁政府が発足しました。
総裁政府(ディレクトワール)は議会(立法評議会と立法院)と五人の総裁から成り、行政権を分担しました。
この制度は急進的なジャコバン派の独裁統治からの脱却を図り、中道的な統治を目指したものです。
しかし、内部の対立や財政難、政治的混乱が続き、1799年のブリュメールのクーデターでナポレオンにより崩壊しました。
約4年間の短い期間でしたが、革命の転換点として重要な役割を果たしました。
1795年
フランス革命
総裁政府
明治3年10月9日
岩崎弥太郎が土佐開成社を開設(三菱財閥の起源)。
1870年、岩崎弥太郎が三菱財閥の前身となる土佐開成社を設立しました。
土佐藩出身の実業家・岩崎弥太郎は1870年11月2日(明治3年10月9日)、高知県で土佐開成社を設立しました。
土佐開成社は藩の特権を活用した船舶・運送業務を中心に事業を展開し、岩崎は廃藩置県後の混乱期を乗り切って資本を蓄積しました。
その後、事業は株式会社三菱社へ改組され、さらに三菱商会、三菱財閥へと発展しました。
海運業を基盤に鉱業、金融、保険など多角化を進め、日本の近代化と産業発展を牽引しました。
現在の三菱グループの礎となる重要な一歩です。
1870年
明治
10月9日
岩崎弥太郎
三菱財閥
1874年
読売新聞創刊。
1874年、読売新聞が大阪で創刊されました。
読売新聞は1874年11月2日に大阪で創刊された大衆紙です。
当初は政治・経済・社会の幅広いニュースを報道し、一般市民への情報提供を拡充しました。
新聞の普及と識字率向上に伴い、大衆新聞文化の発達に寄与しました。
後に東京支社を開設し、全国紙としての地位を確立。
戦後には国内最大級の発行部数を誇る新聞社に成長しました。
1874年
読売新聞
1884年
安房事件発生。
1884年
安房事件
1889年
ダコタ準州が州に昇格し、ノースダコタ州とサウスダコタ州としてアメリカ合衆国39番目と40番目の州となる。
1889年、ダコタ準州がノースダコタ州とサウスダコタ州として合衆国39番目と40番目の州に昇格しました。
アメリカ合衆国中西部のダコタ準州は人口増加と鉄道整備を背景に、1889年11月2日にノースダコタ州(第39州)とサウスダコタ州(第40州)として昇格しました。
当時のハリソン大統領が批准文書に署名し、両州はほぼ同時に連邦に加盟。
州都は北がビスマーク、南がピアに定められ、農業と鉱業を中心に発展しました。
自治権と連邦からの支援が強化され、西部開拓時代の重要な節目となりました。
1889年
ダコタ準州
ノースダコタ州
サウスダコタ州
アメリカ合衆国
1917年
石井・ランシング協定成立。
1917年、日本とアメリカが石井・ランシング協定を締結しました。
第一次世界大戦下の1917年11月2日、駐米日本大使・石井菊吉とアメリカ国務長官・ロバート・ランシングが協定に署名しました。
この協定はアメリカが日本の中国における特殊権益を事実上承認し、門戸開放と機会均等を尊重する内容でした。
山東半島や満州における相互利益の調整を図り、欧州戦線での日米協力を強化する狙いがありました。
後のパリ講和会議や東アジア情勢に影響を与え、二国間関係の基盤となりました。
1917年
石井・ランシング協定
1917年
イギリスのバルフォア外相が「ユダヤ人シオニスト諸組織に対する好意の宣言」(バルフォア宣言)を発表。パレスチナ内にユダヤ人の民族的郷土の建設を援助すると約束。
1917年、バルフォア外相がパレスチナにユダヤ人の民族的郷土建設を支持するバルフォア宣言を発表しました。
バルフォア宣言は第一次世界大戦中の1917年11月2日、イギリス外相アーサー・バルフォアがユダヤ人シオニスト組織に宛てた書簡で表明されました。
イギリス政府はパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設することを好意的に支持すると約束。
オスマン帝国支配下の地域におけるユダヤ人国家設立への期待を高め、中東情勢に大きな影響を与えました。
同時にアラブ住民の権利保護を盛り込んだ点でも議論を呼び、国際政治の重要な転換点となりました。
イギリス
シオニスト
バルフォア宣言
1920年
アメリカ・ウェスティングハウス・エレクトリックが同社フランク・コンラッド技師の設計による設備で世界初の商業ラジオ放送局KDKAを現地時間午後6時に開局。
1920年、世界初の商業ラジオ放送局KDKAがアメリカ・ピッツバーグで開局しました。
KDKAは1920年11月2日午後6時(EST)にペンシルベニア州ピッツバーグで開局した世界初の商業ラジオ局です。
ウェスティングハウス・エレクトリックの技師フランク・コンラッドが設計した送信設備を用い、大統領選挙の開票速報を最初の番組として放送しました。
これによりラジオが娯楽やニュース提供のメディアとして普及し、商業放送の基礎を築きました。
KDKAの成功は他社の参入を促し、世界各地でラジオ局設立のきっかけとなりました。
メディア史における重要な一歩です。
1920年
アメリカ
ウェスティングハウス・エレクトリック
フランク・コンラッド
放送局
1930年
エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世が戴冠。
1930年、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世がアディスアベバで戴冠しました。
ハイレ・セラシエ1世(本名テファリ・マコネン)は1930年11月2日、アディスアベバでエチオピア皇帝(ネグス・ナガスト)として戴冠しました。
彼は摂政として政務を担った後、前皇帝ヨハネス5世の死去に伴い帝位を継承。
戴冠式には各国の代表が参列し、エチオピアの国際的地位を示す場となりました。
在位中は教育制度やインフラ整備、国際連盟加盟を推進し、近代化を進めました。
イタリア侵攻による亡命や復位を経て、アフリカ独立運動の象徴的存在となりました。
1930年
エチオピア皇帝
ハイレ・セラシエ1世
戴冠
1936年
ベニート・ムッソリーニが「ベルリン・ローマ枢軸」という言葉を初めて使う。
ムッソリーニがイタリアとドイツの枢軸同盟を示す言葉を初めて用いた。
1936年11月2日、ムッソリーニがベルリンとローマの枢軸関係を公に示す言葉として「ベルリン・ローマ枢軸」を初めて使った。
この言葉はイタリアとドイツの政治的・軍事的同盟を象徴し、後の枢軸国の形成を予兆するものだった。
枢軸という概念は第二次世界大戦の枢軸国(イタリア・ドイツ・日本)を指す重要な用語となる。
ムッソリーニは当時、親独的な姿勢を強めるナチス・ドイツとの協調路線を鮮明にした。
この表現は後に枢軸国間の交渉やプロパガンダにも多用されるようになった。
1936年
ベニート・ムッソリーニ
ベルリン・ローマ枢軸
1936年
カナダ放送協会設立。
カナダ政府が公共放送局CBCを設立し、英語・仏語両言語の番組を開始した。
1936年11月2日、カナダ政府が国営放送局「カナダ放送協会(CBC)」を設立。
CBCは英語・仏語の両方で番組を制作し、国内のニュースや文化番組を提供する役割を担った。
設立当初から広範な地域にサービスを提供し、カナダの統一的アイデンティティ形成に寄与した。
後にテレビ放送や国際放送へと事業を拡大し、現在も公共放送として重要な存在となっている。
カナダの多様な文化を反映する番組制作方針が、国際的な公共放送モデルにも影響を与えた。
カナダ放送協会