天正15年10月1日

北野天満宮で豊臣秀吉主催の茶会北野大茶湯が行われる。

豊臣秀吉が京都・北野天満宮で大規模な茶会「北野大茶湯」を開催。権力と茶文化の結合を象徴。
1587年11月1日(天正15年10月1日)、豊臣秀吉は京都の北野天満宮境内で大茶湯を主催しました。 延べ千人を超える大名や武士、文化人が招かれ、茶道を通じて秀吉の権威と寛容性を示す場となりました。 会場には豪華な茶席や見世棚が設置され、当時最先端の茶道具や装飾が披露されました。 この大茶湯は茶道の普及に大きく寄与するとともに、権力者による文化演出の先駆けとなったと評価されています。
1587年 天正 10月1日 北野天満宮 豊臣秀吉 茶会 北野大茶湯
1890年

石川倉次の日本語の6点式点字が正式に採用される(点字の日)。

石川倉次の日本語6点式点字が正式採用され、「点字の日」と定められました。
1890年11月1日に石川倉次が提案した日本語6点式点字が正式に採用され、同日が「点字の日」と定められました。これにより視覚障害者の文字表記と情報アクセスの基盤が整備されました。日本語の音節構造に合わせた点字体系は、盲教育の発展を促進しました。採用後は教科書や文献への点字化が進み、視覚障害者の学習機会が格段に拡大しました。
1890年 石川倉次 点字 点字の日
1892年

黒岩涙香が『萬朝報』を創刊。

黒岩涙香が大衆紙『萬朝報』を創刊し、新たなジャーナリズムの潮流を生み出しました。
1892年11月1日、黒岩涙香が大衆紙『萬朝報』を創刊しました。新興メディアとしてセンセーショナルな記事を多く掲載し、広い読者層を獲得しました。手頃な紙面価格と独自の編集方針で、新聞文化の多様化に貢献しました。
1892年 黒岩涙香 萬朝報
1894年

『ビルボード』誌の前身、『ビルボード・アドバタイジング』が創刊。

広告業界向け雑誌として『ビルボード・アドバタイジング』が創刊されました。
1894年11月1日、アメリカで広告業界向け雑誌『ビルボード・アドバタイジング』が創刊されました。後に音楽業界の動向を伝える『ビルボード』誌へと発展し、チャートランキングを世界に知らしめました。創刊当初はシンシナティで週刊として発行され、娯楽とビジネス情報の橋渡し役を担いました。
ビルボード
1920年

明治神宮創建。鎮座祭に群衆が殺到し、死傷者38人が生じる事故も発生。

明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮が鎮座し、多くの参拝者が詰めかけました。
1920年11月1日、東京・代々木の地に明治神宮が創建され、鎮座祭が執り行われました。 祭典には多数の一般参拝者が押し寄せ、混雑のために死傷者38人を出す痛ましい事故が発生しました。 明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后を祀る神社として建立され、国民の崇敬を集める場所となりました。 境内は広大な杜となり、都会のオアシスとしても親しまれています。 以後、大祭や文化イベントが開催され、多くの人々の心の拠り所となりました。
1920年 明治神宮
1928年

ラジオ体操が放送開始。

NHKラジオで全国向けのラジオ体操放送が始まりました。
1928年11月1日、東京中央放送局(現NHK)でラジオ体操の全国放送がスタートしました。 これは国民の健康増進を目的としたプログラムで、朝の放送時間に合わせて家族全員が同時に体操を行う習慣が広まりました。 放送開始当初は数分間の簡単なストレッチと体操で構成されており、戦後には講師の解説付きでさらに普及しました。 学校や企業、地域コミュニティでもラジオ体操が日課となり、世代を超えた健康運動として定着しました。 現在も夏休み期間の公園などで多くの人がラジオ体操に参加し、社会的な文化行事となっています。
ラジオ体操
1943年

節米を目的に全国主要駅の駅弁が一斉に芋弁当に切り替わる。

節米政策の一環で全国主要駅の駅弁が一斉に芋弁当に変更された。
1943年11月1日、日本政府は節米を目的として全国主要駅で駅弁の主食を芋に切り替える措置を実施した。 従来のご飯弁当がさつまいもや里芋を主材料とした『芋弁当』に統一された。 戦時下の米不足を補うための政策であり、駅利用者には大きな衝撃を与えた。 内容はシンプルながらも栄養補給の工夫がなされ、漬物や保存食が添えられることもあった。 芋弁当は戦後もしばらく継続されたが、終戦後の食糧事情改善とともに次第に姿を消した。
駅弁
1945年

朝鮮労働党の機関紙『労働新聞』が創刊。

朝鮮労働党の公式機関紙として『労働新聞』が創刊されました。以後、北朝鮮の代表的な報道媒体となりました。
第二次世界大戦終結直後の混乱期に、朝鮮労働党は自党の宣伝と情報発信を目的に機関紙『労働新聞』を創刊しました。創刊号は主に党の方針や国内外のニュースを掲載し、社会主義体制の確立を東北アジアに向けて訴えました。以後、新聞は政府や党の公式見解を伝える重要な手段となり、北朝鮮国内では唯一の全国紙として位置づけられました。その発行部数や内容は機密扱いとされつつも、国内外の報道で取り上げられる存在へと成長しました。現代においても『労働新聞』は朝鮮労働党の最高機関紙として発行が続けられ、政治情報の主要源となっています。
1945年 朝鮮労働党 労働新聞
1945年

日比谷公園にて餓死対策国民大会が開催。

日比谷公園で餓死対策を訴える国民大会が開かれました。
終戦直後の食糧難が深刻化する中、東京・日比谷公園で餓死を防ぐための国民大会が開催されました。この大会には市民や政治家、支援団体が集まり、食糧支援の拡充や政府への要望を行いました。講演や演説を通じて、戦災による飢餓問題の深刻さが広く共有され、救援体制の強化が訴えられました。大会の結果を受け、政府は食糧配給の改善や農村支援策を進める契機となりました。市民運動としても大きな意義を持ち、戦後の社会復興に影響を与えたイベントです。
日比谷公園 餓死
1958年

静岡放送テレビジョン本放送を開始。

1958年11月1日、静岡放送テレビジョンが本放送を開始し、静岡県内でテレビ放送が始まりました。
静岡放送テレビジョン(現・静岡放送)は地域密着型のテレビ局として設立されました。文化や情報、娯楽番組を提供し、県内の視聴者に新しいメディア体験をもたらしました。初回放送ではニュースや教育番組が中心に編成され、地域社会への情報発信を担いました。テレビ放送開始は静岡県のマスメディア環境を一変させ、広告市場やスポンサーシップにも影響を与えました。以降、地元文化の発信拠点としての役割を果たし続けています。
静岡放送
1959年

国民年金法施行。

1959年11月1日、国民年金法が施行され、日本の公的年金制度の基盤が整備されました。
国民年金法は戦後の社会保障制度整備の一環として制定されました。自営業者や無職者などすべての国民を対象に老齢年金や障害年金を支給する仕組みを導入しました。保険料は被用者年金制度とは別に徴収され、国と地方自治体が運営を担いました。施行後、年金制度の普及と加入者の増加が進み、国民の老後生活の安心につながりました。制度はその後の改正を経て、現在の厚生年金制度とともに日本の社会保障の中核を成しています。
1959年 国民年金法
1959年

琉球(アメリカ施政下の沖縄)初のテレビ局・沖縄テレビ放送 (OTV) 開局。

1959年11月1日、米国施政下の沖縄で初のテレビ局「沖縄テレビ放送 (OTV)」が開局しました。
沖縄テレビ放送(OTV)はアメリカ施政下の琉球で設立された最初のテレビ局です。ローカルニュースや娯楽番組を放送し、当時の沖縄住民にとって貴重な情報源となりました。開局は沖縄のメディアインフラ整備の第一歩とされ、その後のテレビ文化の発展に貢献しました。OTVは地域密着型の報道姿勢を取り、住民参加型番組なども制作しました。日本復帰後は日本の放送ネットワークにも参加し、現在に至るまで地域放送の中核として活動しています。
琉球 アメリカ施政下の沖縄 沖縄テレビ放送