1512年
ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の天井画が公開される。
ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井画を完成・公開。ルネサンス美術の最高峰とされる壮麗な宗教画。
1512年11月1日、ミケランジェロはバチカン宮殿内のシスティーナ礼拝堂で自身が4年をかけて制作した天井画を公開しました。
祭壇から入口まで約40メートルに及ぶ広大な天井には『天地創造』を中心に旧約聖書の場面が描かれ、約300以上の人物像が配置されています。
制作当時、ミケランジェロは足場の上で寝泊まりしながら苦難の中で作業を続けたと伝えられています。
この天井画は革新的な遠近法と人体表現でルネサンス芸術の頂点とされ、後世の芸術家たちに多大な影響を与えました。
今日でも世界中から訪れる人々を魅了し続けています。
1512年
ミケランジェロ
システィーナ礼拝堂
天正15年10月1日
北野天満宮で豊臣秀吉主催の茶会北野大茶湯が行われる。
豊臣秀吉が京都・北野天満宮で大規模な茶会「北野大茶湯」を開催。権力と茶文化の結合を象徴。
1587年11月1日(天正15年10月1日)、豊臣秀吉は京都の北野天満宮境内で大茶湯を主催しました。
延べ千人を超える大名や武士、文化人が招かれ、茶道を通じて秀吉の権威と寛容性を示す場となりました。
会場には豪華な茶席や見世棚が設置され、当時最先端の茶道具や装飾が披露されました。
この大茶湯は茶道の普及に大きく寄与するとともに、権力者による文化演出の先駆けとなったと評価されています。
1587年
天正
10月1日
北野天満宮
豊臣秀吉
茶会
北野大茶湯
1604年
ウィリアム・シェイクスピアの『オセロ』がロンドンにて初演。
シェイクスピアの悲劇『オセロ』がロンドンで初演。嫉妬と裏切りの物語が観客を魅了。
1604年11月1日、ウィリアム・シェイクスピアの四大悲劇の一つ『オセロ』がロンドンのホワイトホール宮廷劇場で初演されました。
物語はムーア人の将軍オセロが副官イアーゴーの奸計によって嫉妬にとらわれ、愛するデズデーモナを疑念で傷つけていく様を描いています。
巧妙な台詞と深い人間洞察に満ちた構成は、当時のイギリス演劇に革新をもたらしました。
この作品は後世も世界中で上演され続け、演劇史に不朽の名作として刻まれています。
1604年
ウィリアム・シェイクスピア
オセロ
ロンドン
1611年
ウィリアム・シェイクスピアの『テンペスト』がロンドンにて初演。
シェイクスピアの最後期の作品『テンペスト』がロンドンで初演。魔法と赦しの物語。
1611年11月1日頃(正確な日付不詳)、ウィリアム・シェイクスピアの『テンペスト』がロンドンのブラックフライアーズ劇場で初演されました。
作品は怪しげな島に流れ着いた公爵プロスペローが魔法の力を用いて復讐と赦しを演出する幻想的なストーリーです。
海の嵐や精霊アリエル、怪物キャリバンといった要素が織り交ぜられ、当時としては珍しいファンタジー色の強い演劇として注目されました。
『テンペスト』はシェイクスピアの集大成とも評され、後の文学や舞台芸術に大きな影響を与えました。
1611年
テンペスト
ユリウス暦10月22日
ロシア・ポーランド戦争: ドミトリー・ポジャルスキー率いるロシア国民軍が、ポーランド軍が占領するモスクワを解放(動乱時代)。
ドミトリー・ポジャルスキー率いる国民軍がモスクワを解放。ポーランド支配からの抵抗の象徴となる。
1612年11月1日(ユリウス暦10月22日)、ロシア動乱時代のロシア・ポーランド戦争において、ポジャルスキー将軍率いるロシア国民軍がモスクワを奪還しました。
この解放は1610年のポーランド軍進駐以来続いた占領状態を終わらせ、ロシアの国家再建へ向けた大きな転機となりました。
民衆と貴族が連携して形成した義勇軍は、民族的自覚と愛国心の象徴とされます。
この功績により、後にミハイル・ロマノフがツァーリに選出され、ロシア帝国の礎が築かれました。
1612年
ユリウス暦
10月22日
ロシア・ポーランド戦争
ドミトリー・ポジャルスキー
ロシア
ポーランド
モスクワ
動乱時代
1755年
ポルトガルでリスボン大地震が発生。津波と火災による死者10万人。
ポルトガル・リスボンで大規模な地震が発生。津波と火災が町を襲い10万人以上が死亡。
1755年11月1日、マグニチュード約8.5~9と推定されるリスボン地震が発生し、市街は壊滅的被害を受けました。
地震に続く津波と大火災が数日間にわたり街を焼き尽くし、死者は10万人以上にのぼったと伝えられています。
この災害はヨーロッパ全土に衝撃を与え、自然災害に対する啓蒙思想家の論考や都市復興計画の契機となりました。
建築家サラザールらによる計画的な再建は、近代都市設計の先駆けとも評価されています。
1755年
ポルトガル
リスボン大地震
津波
火災
1765年
イギリス議会が北米の植民地13州に対する印紙条例を可決。北米駐在のイギリス軍の費用調達のため。
英議会が北米植民地向けの印紙法を可決。課税に対する植民地側の反発を招く。
1765年11月1日、イギリス議会は北米13植民地を対象とする印紙条例を可決し、紙製品や証書に課税を行うことを決定しました。
この税収は駐留英軍の維持費捻出を目的としており、植民地側は「代表なくして課税なし」を掲げて強く反発しました。
ボストン茶会事件など反発運動が広がり、最終的にはアメリカ独立革命へとつながる重要な一歩となりました。
印紙条例は1766年に撤廃されましたが、植民地と本国の溝は深まる一方でした。
1765年
イギリス
印紙条例
1790年
エドマンド・バークが『フランス革命の省察』を出版。同書中でフランス革命が失敗に終わることを予言。
バークが『フランス革命の省察』を刊行。革命の混乱と暴力を批判し失敗を予見した名著。
1790年11月1日、イギリスの政治家エドマンド・バークは『フランス革命の省察』を出版しました。
同書でバークはフランス革命の理念を評価しつつも、急進的な変革が社会を破壊する危険性を鋭く指摘しました。
彼は混乱と暴力の末に革命が失敗に終わると予言し、保守主義思想の基礎を築くこととなります。
この論考は当時大きな議論を呼び、今日でも政治哲学や現代思想に影響を与え続けています。
1790年
エドマンド・バーク
フランス革命の省察
フランス革命
1800年
米大統領ジョン・アダムズが大統領官邸(後のホワイトハウス)に入居。
ジョン・アダムズ大統領が完成したばかりの大統領官邸へ入居。後のホワイトハウスの歴史が始まる。
1800年11月1日、アメリカ合衆国第2代大統領ジョン・アダムズはワシントンD.C.に新設された大統領官邸に初めて入居しました。
当時はまだ未完成部分も多く、漆喰の壁や簡素な内装が特徴でした。
この建物は後に“ホワイトハウス”と呼ばれるようになり、アメリカ政治の象徴となります。
アダムズの入居は新首都ワシントン移転の重要な節目とされ、以降すべての大統領が居住し続けています。
1800年
ジョン・アダムズ
ホワイトハウス
1805年
ナポレオン戦争・1805年オーストリア戦役: ナポレオン軍がオーストリアに侵攻。
ナポレオン率いるフランス軍がオーストリアに侵攻し、1805年の戦役が始まる。
1805年11月1日、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス第一帝政軍がオーストリア帝国領内へ侵攻を開始しました。
この戦役はオーストリアとの決定的な対決であり、後にイエナ・アウエルシュタットの戦いへとつながる一連の作戦の一部です。
フランス軍は巧妙な戦術と機動力を駆使し、オーストリア軍を圧倒しました。
1805年12月のアウステルリッツの戦いでは両軍の運命が決定的となり、ヨーロッパ勢力図に大きな変動をもたらしました。
1805年
ナポレオン戦争
1805年オーストリア戦役
ナポレオン
オーストリア
1873年
東京・神田川の万世橋が竣工。
東京・神田川に架かる万世橋が完成し、日本の近代インフラ整備を象徴する一歩となりました。
1873年11月1日に東京・神田川に架かる万世橋が竣工しました。この橋は中央線の鉄道橋として建設され、日本の近代インフラ整備の一翼を担いました。アーチ形の鉄橋構造で、当時の土木技術の粋を集めています。開通により東京の東西連絡が強化され、市街地の発展に寄与しました。万世橋は後に歩道橋や展示スペースとして活用され、現在も地域の歴史的遺産として親しまれています。
1873年
神田川
万世橋
1880年
官設鉄道の全列車で日本人運転士が乗務開始。
官設鉄道の全列車に日本人運転士が乗務を開始し、鉄道運行の国産化が進みました。
1880年11月1日、官設鉄道の全列車に日本人運転士が乗務を開始しました。これまで多くの区間で外国人技師が担当していた鉄道運転業務が国産化され、鉄道技術者育成の契機となりました。国内の鉄道運行管理が日本人の手に移り、運輸事業の自主性と安全性が向上しました。鉄道技術の標準化や教育制度の整備が進み、全国規模の鉄道網拡大を支えました。