1270年
第8回十字軍とチュニスの包囲が終了。
1270年10月30日、第8回十字軍がチュニス包囲戦を終えて撤退し、遠征は事実上の終結を迎えました。
1270年、フランス王ルイ9世は第8回十字軍を率いてチュニスを攻囲しました。
しかし包囲戦は疫病の蔓延や補給難で苦戦を強いられました。
さらに8月25日にルイ9世が病没すると、指揮系統は混乱しました。
最終的に10月30日、和平協定を結び撤退が決定され、第8回十字軍は事実上終結しました。
この遠征は十字軍運動の終焉を象徴するとされています。
1270年
第8回十字軍
チュニス
1485年
イングランド王ヘンリー7世が戴冠。
1485年10月30日、戦勝王ヘンリー7世がウェストミンスター寺院で戴冠し、テューダー朝を開きました。
11月22日のボズワースの戦いでヨーク朝を破ったヘンリー7世は、王位を確立するため戴冠式を挙行しました。
1485年10月30日、ウェストミンスター寺院で行われた戴冠は長年続いた百年戦争と薔薇戦争に終止符を打ちました。
新王朝テューダー朝の誕生はイングランド王室の権威を再構築し、後のイギリス統一の基盤となりました。
戴冠者ヘンリー7世は慎重な財政政策と政略結婚を通じて国内外の敵対勢力を抑えました。
この戴冠は中世後期のイングランド政治史に大きな転換点をもたらしました。
1485年
イングランド
ヘンリー7世
慶長3年10月1日
慶長の役・泗川の戦い:島津義弘、泗川城で明・朝鮮軍を大破する。
1598年10月30日、島津義弘が泗川城を攻略し、明・朝鮮連合軍に大勝利しました。
慶長3年(1598年)10月1日から続いた泗川の戦いで、島津義弘率いる日本軍は攻勢を強めました。
10月30日、激戦の末に泗川城を陥落させ、明・朝鮮連合軍に大打撃を与えました。
これは慶長の役(文禄・慶長の役)の終盤で起きた最大規模の衝突の一つとされています。
義弘の巧みな戦術と機動力が勝利の要因と評価され、対外侵略戦争の象徴的戦闘でした。
この勝利は撤退を迫られた日本軍の戦闘意欲を一時的に高めましたが、最終的に朝鮮出兵は終結しました。
1598年
慶長
10月1日
慶長の役
泗川の戦い
島津義弘
明
朝鮮
1863年
3月30日にギリシャ国王に選出されたゲオルギオス1世がアテネに到着。
1863年10月30日、ギリシャ国王ゲオルギオス1世がアテネに到着し、新時代が始まりました。
1858年にロシア皇帝アレクサンドル2世の支持で選出されたゲオルギオス1世は、1863年3月30日に国王に選ばれました。
同年10月30日、アテネに到着し即位の準備を整えました。
彼の長期政権(1863年〜1913年)は、憲法改正や経済近代化を推進し、ギリシャ王国の安定と発展に寄与しました。
鉄道や銀行制度の整備、教育制度の拡充などが彼の治世中に進められました。
ゲオルギオス1世はヨーロッパ列強との関係強化にも努め、ギリシャの国際的地位を高めました。
1863年
3月30日
ギリシャ
ゲオルギオス1世
アテネ
1864年
第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が終結。
1864年10月30日、プロイセン・オーストリア連合がデンマークを破り、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が終結しました。
1864年、デンマークとドイツ連邦(プロイセン・オーストリア)がシュレースヴィヒとホルシュタインの帰属を巡って交戦を続けました。
プロイセン・オーストリア軍の連携攻勢により、デンマーク軍は10月30日に降伏しました。
ウィーン条約によって両地域はプロイセンとオーストリアの共同統治下に置かれました。
この戦争は普墺戦争や普仏戦争へと繋がるドイツ統一運動の一環として重要な位置を占めています。
デンマークは大国間の勢力図変動に翻弄され、国土の一部を失う結果となりました。
1864年
第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争
1890年
「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)発布。
1890年10月30日、明治政府が「教育ニ関スル勅語」を発布し、教育方針を示しました。
「教育ニ関スル勅語」は1882年に起草が始まり、1890年10月30日に正式に発布されました。
国民の道徳教育を国家の中心課題と位置づけ、忠君愛国や礼儀作法を奨励しました。
儒教的徳目を基盤としながら近代的学校制度の理念を示した文書です。
第二次世界大戦後の1948年まで教育の根本指導原理として影響を及ぼしました。
現代日本の教育史において、国家主義と近代化が交錯した重要な資料とされています。
1890年
教育ニ関スル勅語
ユリウス暦10月17日
ロシア第一革命: ロシア皇帝ニコライ2世が十月詔書に署名。
1905年10月30日、ロシア皇帝ニコライ2世が十月詔書に署名し、ロシア第一革命が一時的に沈静化しました。
1905年のロシア第一革命は、労働者や農民の蜂起、軍内部の反乱を伴う大規模な社会不安が広がりました。
同年10月30日(ユリウス暦10月17日)、ニコライ2世は十月詔書を発布して市民的自由の一部保障と立法議会(ドゥーマ)設置を約束しました。
これにより大規模なデモやストライキは一時鎮静化しましたが、改革は限定的でした。
1906年に制定された基本法によって皇帝の権限は維持され、革命の根本的解決には至りませんでした。
十月詔書はロシア帝国史における重要な転換点とされています。
1905年
10月17日
ロシア第一革命
ニコライ2世
十月詔書
1918年
第一次世界大戦: オスマン帝国が連合国に降伏。(ムドロス休戦協定)
1918年10月30日、ムドロス休戦協定が調印され、オスマン帝国は連合国に降伏しました。
第一次世界大戦末期、オスマン帝国は連合国軍に対して敗北を重ねていました。
1918年10月30日、ムドロス湾(ギリシャ領ラエストリ湾)で休戦協定が調印され、オスマン帝国は降伏しました。
協定により、帝国軍の武装解除や海軍基地の占領、重要拠点の連合国への開放が定められました。
この結果、イギリス・フランス軍はイスタンブールに進駐し、オスマン帝国の解体が進行しました。
戦後のセーヴル条約とローザンヌ条約へと繋がる歴史的な出来事です。
1918年
第一次世界大戦
オスマン帝国
連合国
ムドロス休戦協定
1922年
イタリア王国首相に指名されたムッソリーニがファシスト党員とともにローマに入城。
1922年10月30日、ムッソリーニ率いるファシスト党がローマに入城し、政権奪取を果たしました。
第一次世界大戦後のイタリアでは経済不安や社会不満が高まっていました。
1922年10月27日から始まった「ローマ進軍」において、ファシスト党は民兵を動員して首都を包囲しました。
国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は戒厳令の発布を拒否し、10月30日にムッソリーニを首相に任命しました。
この政治劇により、イタリア王国で最初のファシスト独裁政権が誕生しました。
ムッソリーニ政権は以後、反対派の弾圧と全体主義的政策を推進しました。
1922年
ムッソリーニ
1932年
熱海事件が発生。警察と共産党員の銃撃により警官2人が負傷、党員11人が検挙。非常時共産党が壊滅的打撃を受ける。
1932年10月30日、熱海事件で警察と非常時共産党員が衝突し、多数の検挙が行われました。
1932年10月30日、静岡県熱海市で特別高等警察(特高)が非常時共産党への取締りを実施しました。
警察と党員の間で銃撃戦が発生し、警官2名が負傷、党員11名が検挙されました。
この事件により非常時共産党は壊滅的な打撃を受け、小規模ながらも政治運動への警察権力の介入が際立ちました。
当時の政治状況は治安維持法下での弾圧が強化されており、表現の自由や結社の自由が制限されていました。
熱海事件は戦前日本における政治的弾圧の象徴的な出来事とされています。
1932年
熱海事件
非常時共産党
1938年
アメリカでオーソン・ウェルズが、HGウェルズの小説をもとに、火星人のニュージャージー侵攻を伝えるフェイクニュース『宇宙戦争』を放送。本物のニュースと勘違いされ、一部のリスナーが警察、新聞社、ラジオ局に電話をかける大パニックに。
1938年、オーソン・ウェルズがHGウェルズの小説を原作としたラジオドラマ『宇宙戦争』を放送しました。火星人襲来のフェイクニュースがリアルに伝えられ、リスナーがパニックに陥りました。
この放送は効果音や演出を駆使した臨場感が特徴でした。リスナーは本物のニュースと誤認し、新聞社や警察に問い合わせが殺到しました。中には避難を始める人々もいて、ニュージャージー州全体が混乱に包まれました。オーソン・ウェルズはエンターテイメントとして企画したものですが、予想外の反響を生みました。この事件はマスメディアの影響力とフェイクニュースの危険性を示す歴史的事例とされています。その後、放送倫理やラジオ局のガイドライン強化の議論が本格化しました。
1938年
オーソン・ウェルズ
HGウェルズ
宇宙戦争
1941年
駆逐艦ラフィー_(DD 459)進水。
第二次世界大戦に備えてアメリカ海軍の駆逐艦ラフィー(DD-459)が1941年10月30日に進水式を迎えました。
ラフィーはグリーブズ級駆逐艦の一隻として建造されました。進水式には多くの軍関係者が出席し、盛大に祝われました。戦後、同艦はレイテ沖海戦など数々の戦闘に参加し、その勇敢な戦功で称えられます。特に小型艦艇ながら敵艦隊に肉薄する戦闘行動は高い評価を受けました。この進水は米海軍の戦力増強を象徴する出来事として歴史に刻まれています。
1941年
駆逐艦
ラフィー_(DD-459)