69年
ローマ内戦: 第2次ベドリアクムの戦い。
帝政ローマ期の内戦の一幕、第2次ベドリアクムの戦いが行われた。
帝政ローマの後継者を巡る内乱の中で、オトやヴィテリウスなどの勢力が激突した。
この戦いは、69年にベドリアクム(現在のベドリッヒ)近郊で行われ、帝位を巡る争いの焦点となった。
オト軍とヴィテリウス軍の両軍は徹底抗戦を繰り広げ、結果はヴィテリウス軍の勝利となった。
内戦はその後も続き、最終的にはウェスパシアヌスが帝位を獲得し、ユリウス=クラウディウス朝に代わるフラウィウス朝を開いた。
この出来事は、ローマ帝国の権力構造に大きな変動をもたらした。
69年
ローマ内戦
第2次ベドリアクムの戦い
1648年
三十年戦争の講和条約・ヴェストファーレン条約調印。
三十年戦争を終結させたヴェストファーレン条約が西ファリア地方で調印された。
ヨーロッパを戦火に巻き込んだ三十年戦争の正式な終結条約。
神聖ローマ帝国の各領邦やスウェーデン、フランス、スペインなどが参加。
西ファリア(ヴェストファーレン)地方で交渉が行われ、三重の条約として調印された。
主権国家の概念が認められ、主権平等の原則が確立された。
これにより宗教戦争として始まった紛争は約30年にわたる波乱の末に幕を下ろした。
現在の国際法体制の礎となった画期的な条約である。
1648年
三十年戦争
ヴェストファーレン条約
1790年
三色旗がフランス海軍旗として制定。後に国旗となる。
フランス海軍の公式旗として三色旗が採用され、後に国民旗へと発展した。
フランス海軍の公式旗として赤・白・青の縦三色旗が正式に制定された。
この配色は1789年の革命で用いられた市民の色彩を踏襲している。
三色旗は革命のスローガン「自由・平等・博愛」の象徴とも言われる。
1794年には正式にフランス共和国の国旗として採用され、以後不動の地位を築いた。
現在では世界中の国旗デザインに影響を与えた象徴的なデザインとなっている。
1790年
三色旗
国旗
1795年
3度目のポーランド分割により、ポーランド・リトアニア共和国が完全に領土を失う。
第三次ポーランド分割により、ポーランド・リトアニア共和国が地図上から消滅した。
プロイセン、ロシア、オーストリアの3大国による第三次ポーランド分割。
1795年の分割によってポーランド・リトアニア共和国は国家として消滅した。
多数の貴族や市民が国外へ亡命し、文化や言語の抑圧が強まった。
この消滅状態は第一次世界大戦後の1918年まで続き、再興を阻む要因ともなった。
東欧の勢力図を根底から塗り替えた歴史的事件である。
1795年
3度目のポーランド分割
ポーランド・リトアニア共和国
1812年
ロシア戦役: マロヤロスラベツの戦い。
ナポレオンのロシア遠征中、マロヤロスラベツの戦いが勃発した。
ナポレオン率いるフランス軍とロシア軍がマロヤロスラベツ(小ヤロスラヴェツ)で激突した。
激しい市街戦となり、両軍に大きな損害を与えた。
この戦いでフランス軍の補給線が脅かされ、前進にブレーキがかかった。
ロシア側は戦略的撤退を行いながら消耗戦に持ち込む戦術を採用した。
結果的にナポレオン軍の崩壊への序章となり、ロシア遠征の失敗を加速させた。
1812年
マロヤロスラベツの戦い
英語版
1813年
ロシア帝国とガージャール朝がゴレスターン条約を締結。
ロシア帝国とガージャール朝ペルシャがゴレスターン条約を締結した。
ロシア・ペルシャ戦争(1804–1813年)の終結を告げる条約。
ロシアはコーカサス地域の領有を正式に認められた。
ペルシャ側は領土の一部を失い、賠償金や貿易権の保証を受けた。
この条約によりロシアの南下政策が一段と進展し、地域の勢力均衡が変動した。
中東およびコーカサス史における重要な転換点となった。
1813年
ロシア帝国
ガージャール朝
ゴレスターン条約
1844年
フランス・清国間で黄埔条約締結。
フランスと清朝の間で黄埔条約が締結され、布教権や貿易権が拡大した。
フランスと清朝が北京で黄埔(ファンブー)条約を締結した。
条約によりフランスはキリスト教の布教自由を獲得した。
また広東近郊の黄埔港における租借権が認められ、貿易拠点を確保した。
これはイギリスに次ぐ列強の対清不平等条約の一つとなった。
中国の主権侵害として国内外で問題視され、後の反乱に影響を与えた。
1844年
1857年
現存する中では世界最古のサッカークラブ・シェフィールドFCが設立。
現存最古のサッカークラブ、シェフィールドFCが設立された。
イングランド・シェフィールドで地元青年らがシェフィールドFCを創設した。
当時は各地で異なるフットボールルールが存在していたが、同クラブが独自規則を整備。
1867年には「シェフィールド・ルール」を制定し、サッカーの統一規則に影響を与えた。
クラブは今日まで活動を続け、世界のサッカー発展に大きく寄与している。
歴史的にも学術的にも貴重なスポーツ文化遺産とされている。
1857年
シェフィールドFC
1876年
神風連の乱。
旧熊本藩士らによる神風連の乱が熊本で発生し、政府軍に鎮圧された。
明治維新後の急激な近代化政策に不満を抱いた旧熊本藩士らが蜂起した。
神風連は武器庫を襲撃し、市街地で銃撃戦を展開した。
政府軍は速やかに反乱を鎮圧し、多数の参加者が処罰された。
この事件は封建体制と近代国家の衝突を象徴し、地方武士層の苦悩を示した。
近代日本の地域社会変革における重要な一幕とされる。
1876年
神風連の乱
1886年
ノルマントン号事件。
ノルマントン号沈没事故が発生し、日本に西洋人優遇条約への批判を巻き起こした。
イギリス客船ノルマントン号が和歌山沖で沈没し、多くの日本人が犠牲となった。
乗組員が無事だったことから不平等条約下での扱いに国民の憤りが高まった。
国内では遺族補償や裁判権の問題が議論され、不平等条約改正運動の契機となった。
この事件は近代日本の法整備への意識を喚起し、国民国家形成の過程に影響を与えた。
報道や出版を通じて世論を動かし、政治改革を促す大きな転機となった。
1886年
ノルマントン号事件
1890年
伊藤博文が初代貴族院議長に就任。
日本の初代内閣総理大臣として知られる伊藤博文が、当時新設された議会制度の一部である貴族院の初代議長に就任しました。
明治憲法のもと、1890年10月24日に貴族院が設置され、伊藤博文はその初代議長に選ばれました。貴族院は貴族や皇族、政府任命の議員で構成される上院として、衆議院とともに立法に関わりました。伊藤は初代内閣総理大臣としての経験を活かし、議院運営の基礎づくりに尽力しました。議会政治の定着に向けた制度整備や議事進行の円滑化を図ったことは、近代日本の議会制発展に大きく寄与しました。彼の指導力はその後の政治安定にも影響を及ぼしました。
1890年
伊藤博文
貴族院議長
1894年
日清戦争: 山縣有朋率いる第1軍が鴨緑江作戦を開始。
日清戦争中、日本軍の山縣有朋率いる第1軍が鴨緑江沿いに進攻を開始し、朝鮮半島北部から満州方面へ戦線を拡大しました。
日清戦争の戦局を左右する重要な作戦として、1894年10月24日に鴨緑江作戦が開始されました。山縣有朋が率いる第1軍は遼東半島北部から清国軍を包囲し、速やかな進軍を試みました。作戦は清国軍を撃破し、朝鮮半島から満州地域への攻勢を可能にしました。この攻撃により日本軍は主導権を握り、以後の戦局で優位に立つ礎となりました。部隊の統率力と機動力が示された作戦でした。
1894年
日清戦争
山縣有朋
第1軍
鴨緑江作戦