紀元前42年

ローマ内戦: フィリッピの戦い。

紀元前42年のローマ内戦で行われたフィリッピの戦いは、アントニウスとオクタウィアヌス連合軍がブルータスとカッシウス軍を打ち破った決定的な戦いです。
紀元前42年10月23日、ローマ共和政末期の内戦の一環として第二次フィリッピの戦いが行われました。マルクス・アントニウスとオクタウィアヌスは共和派元老院派のブリュートゥスとカッシウスの連合軍を迎え撃ちます。激戦の末、オクタウィアヌスら連合軍が包囲戦術を用いて敵軍を壊滅させました。ブリュートゥス・カッシウス軍の敗北は共和政派の終焉を意味し、オクタウィアヌスがローマの実権を握る道を開きました。この勝利は後に帝政ローマ成立への重要な一歩となりました。
紀元前42年 ローマ内戦 フィリッピの戦い
1086年

レコンキスタ: サグラハスの戦い。

1086年のレコンキスタ期に、アルモラービト朝がカスティーリャ軍を破ったサグラハスの戦いが行われました。
1086年10月23日、イベリア半島におけるレコンキスタの重要な戦闘、サグラハスの戦いが発生しました。アルフォンソ6世率いるカスティーリャ王国軍は、アルモラービト朝ムラービト朝の大軍と激突します。戦場では巧妙な戦術を用いたムラービト朝の勝利により、カスティーリャ軍は大きな損害を被りました。この敗北はキリスト教諸王国の進撃を一時的に食い止める結果となり、後の勢力均衡に大きな影響を与えました。サグラハスの戦いはレコンキスタ史において転機の一つとされています。
1086年 レコンキスタ サグラハスの戦い
1157年

グラーテ・ヘーゼの戦い。

1157年のデンマーク内戦を決定づけたグラーテ・ヘーゼの戦いが行われました。
1157年10月23日、デンマークの王位継承を巡る内紛の最終決戦、グラーテ・ヘーゼの戦いが勃発しました。ヴァルデマー1世率いる勢力は、スヴェン3世およびカヌート5世の連合軍と衝突します。激戦の末にヴァルデマー勢が勝利を収め、スヴェン3世とカヌート5世の野望を粉砕しました。この勝利によりヴァルデマー1世はデンマーク単独の統治者としての地位を確立し、国の統一と安定に向けて歩みを進めました。グラーテ・ヘーゼの戦いはデンマーク王権強化の象徴的な出来事です。
1157年 グラーテ・ヘーゼの戦い
1614年

大坂冬の陣に向かうため、江戸幕府将軍徳川秀忠(徳川家康の嫡男)が江戸城を出発した。

江戸幕府二代将軍徳川秀忠が大坂冬の陣に向けて江戸城を出発しました。
1614年10月23日、江戸幕府二代将軍徳川秀忠は大坂冬の陣開戦に先立ち、江戸城を出立しました。彼は父徳川家康の遺志を受け継ぎ豊臣家討伐のため大軍を率いて出陣します。幕府側は事前に作戦会議を重ね、補給線や兵站を整えた上で進軍しました。この出発は翌年の大坂冬の陣・夏の陣へと続く一連の戦いの序章となり、徳川政権の対外戦略を象徴する出来事です。当時の大坂城包囲計画や、秀忠の指揮能力が試される場面として歴史的に注目されています。
1614年 大坂冬の陣 江戸幕府 将軍 徳川秀忠 徳川家康 江戸城
1642年

イングランド内戦: エッジヒルの戦い。

イングランド内戦における最初の大規模会戦、エッジヒルの戦いが行われました。
1642年10月23日、イングランド内戦(清教徒革命)の最初の主要戦闘としてエッジヒルの戦いが発生しました。王党派を率いるチャールズ1世と議会派の指導者オリバー・クロムウェル率いる軍が衝突します。激戦の末、明確な決着はつかなかったものの両軍に大きな損害を与えました。この戦いは長期化する内戦の端緒となり、イギリス王権と議会勢力の対立が深刻化する契機となりました。エッジヒルの戦いは内戦の流れを左右した重要な序幕とされています。
1642年 イングランド内戦 エッジヒルの戦い
1739年

ジェンキンスの耳の戦争が始まる。

イギリスとスペイン間のジェンキンスの耳の戦争が開戦しました。
1739年10月23日、イギリス船長ロバート・ジェンキンスの耳がスペイン当局に切り落とされた事件を口実に、イギリスが宣戦布告しジェンキンスの耳の戦争が勃発しました。カリブ海や大西洋を舞台に両国艦隊が衝突し、植民地間の勢力争いが激化します。当初は小規模な衝突が続きましたが、最終的にオーストリア継承戦争や七年戦争へとつながる大規模な国際紛争の一翼を担うことになりました。商人や海賊を巻き込んだ海上戦は植民地経済に大きな混乱をもたらし、18世紀の大国間抗争のひとつとして知られています。戦争の名称はジェンキンス船長の犠牲が象徴的に扱われたことに由来します。
1739年 ジェンキンスの耳の戦争
1864年

南北戦争: ウェストポートの戦い。

南北戦争西方戦線の最大規模の戦闘の一つ、ウェストポートの戦いが行われました。
1864年10月23日、ミズーリ州カンザスシティ近郊で南北戦争最大規模の戦闘の一つ、ウェストポートの戦いが勃発しました。北軍はジェームズ・G・ブレア将軍率いる部隊、南軍はネイサン・ベッドフォード・フォレスト将軍率いる騎兵隊が激突します。戦闘は数時間にわたり行われ、最終的に北軍が勝利し西部戦線における南軍の後退を決定づけました。この勝利によりミズーリ州の制圧が確立され、北軍の補給路確保と戦略的優位が強化されます。ウェストポートの戦いは「ミズーリのゲティスバーグ」とも呼ばれるほど歴史的重要性を有しています。
1864年 南北戦争 ウェストポートの戦い
1870年

普仏戦争: メス攻囲戦が終結。

普仏戦争におけるメス攻囲戦が終結し、プロイセン軍が優位を確立した。
1870年10月23日、普仏戦争の主要戦役の一つであるメス攻囲戦が終結した。この包囲戦はプロイセン軍がフランス東部の要衝メスを攻略するために行った大規模な包囲作戦で、数週間にわたり両軍は激しい攻防を繰り広げた。最終的にフランス軍は包囲を突破できず、士気と補給に深刻な打撃を受けた。プロイセン軍の勝利は東部戦線での戦況を決定づけ、その後のフランス降伏への道筋を作った。また、この戦いは近代的な要塞戦の典型例とされ、以後の軍事戦略に大きな影響を与えた。
1870年 普仏戦争 メス攻囲戦
1940年

第二次世界大戦: ナチス・ドイツ総統ヒトラーとスペイン総統フランコが西仏国境アンダイで会談。ヒトラーはスペインに枢軸国側での参戦を要求するがフランコは拒否。

ヒトラーとフランコが西仏国境で会談し、スペインの枢軸国参戦を協議するも拒否される。
1940年10月23日、ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーとスペインのフランシスコ・フランコ総統が西仏国境のアンダイで会談した。ヒトラーはスペインに対して第二次世界大戦での枢軸国側参戦を要請したが、フランコは国内復興や財政難を理由にこれを拒否した。会談は枢軸国戦略の見直しを迫る出来事となり、スペインはその後も中立政策を維持した。この逸話はヒトラーの外交手腕を示す一方、フランコの慎重な姿勢が戦後スペインの独裁体制維持に繋がったと評価されている。両者の接触は戦争の枢軸国連携の限界を浮き彫りにした。
1940年 第二次世界大戦 ナチス・ドイツ 総統 ヒトラー スペイン フランコ 枢軸国
1942年

第二次世界大戦・北アフリカ戦線: 第二次エル・アラメイン会戦が始まる。

北アフリカ戦線の転換点となる第二次エル・アラメイン会戦が開戦。
1942年10月23日、第二次世界大戦の北アフリカ戦線で英連邦軍がエル・アラメイン近郊で反攻を開始し、第二次エル・アラメイン会戦が始まった。モントゴメリー将軍率いる連合軍は、ロムメル将軍率いる枢軸軍を相手に徹底的な補給線確保と機甲部隊による打撃戦術を展開した。会戦は数週間にわたり激戦となり、連合軍の航空優勢と補給力が勝敗を分けた。後に連合軍の勝利が確定し、枢軸軍は大規模な後退を余儀なくされた。この勝利は地中海方面の戦局を大きく動かし、イタリア侵攻への道を開く重要な契機となった。
1942年 北アフリカ戦線 第二次エル・アラメイン会戦
1943年

ポンティアナック事件が始まる。

日本軍占領下のボルネオで華人住民への大規模弾圧が始まり、多くの犠牲者を出した事件。
1943年10月23日、インドネシア・ボルネオ島のポンティアナック(現在のカリマンタン西部)で日本軍が華人住民を標的とした弾圧を開始した。きっかけは住民と協力関係にあったとされる疑いで、数百名が逮捕・処刑されたと伝えられている。この事件は「ポンティアナック事件」と呼ばれ、戦争犯罪の一つとして後に国際的に追及された。犠牲者には一般市民や商人、宗教者などが含まれ、地域社会に深い傷跡を残した。事件の詳細は戦後長らく隠蔽されていたが、証言や資料の公開により被害の全貌が明らかになってきている。近年では犠牲者追悼碑の建立や研究が進められている。
1943年 ポンティアナック事件
1944年

第二次世界大戦・フィリピンの戦い: レイテ沖海戦が始まる。

フィリピンのレイテ湾沖で史上最大規模の海戦、レイテ沖海戦が勃発。
1944年10月23日、第二次世界大戦の太平洋戦線において史上最大規模の海戦とされるレイテ沖海戦が開戦した。アメリカ・フィリピン連合艦隊と日本海軍第一機動部隊が激突し、航空機や戦艦を交えた壮絶な戦闘が行われた。連合軍の圧倒的な航空優勢により日本側は大損害を被り、戦力を回復不可能な水準まで低下させた。戦いは数日間続き、最終的に連合軍が制海権を掌握し、フィリピン奪還作戦を促進した。レイテ沖海戦は航空母艦中心の戦術が確立された現代海戦の先駆けとなり、その後の艦隊運用に大きな影響を与えた。
1944年 フィリピンの戦い レイテ沖海戦