424年

ウァレンティニアヌス3世が西ローマ帝国の副帝(カエサル)になる。

西ローマ帝国においてウァレンティニアヌス3世が副帝カエサルに任命され、後継体制が整えられました。
424年10月23日、当時わずか2歳のフラウィウス・プラキディア・ウァレンティニアヌスが、西ローマ皇帝ホノリウスにより副帝(カエサル)に任命されました。母ガッラ・プラキディアの後ろ盾を得たこの措置は、皇位継承の安定化を図る目的がありました。幼帝の地位付与は政敵の牽制や文官勢力の力学調整とも関連しており、西ローマ帝国末期の混乱した内政情勢を映し出しています。この任命は後に彼が皇帝(アウグストゥス)として即位する布石ともなりました。当時の帝国権力構造や母后プラキディアの影響力を示す出来事として歴史的に注目されます。
424年 ウァレンティニアヌス3世 西ローマ帝国
425年

ウァレンティニアヌス3世が西ローマ帝国の正帝(アウグストゥス)になる。

ウァレンティニアヌス3世が西ローマ帝国の正帝(アウグストゥス)に昇格し、単独統治の体制を整えました。
425年10月23日、ウァレンティニアヌス3世は正式に西ローマ帝国の正帝(アウグストゥス)に昇格しました。母ガッラ・プラキディアが摂政として実権を握りつつ、幼帝の即位が宣言されます。これにより帝国の統一的支配機構が名目上整えられ、政敵の排除や行政改革の基盤が築かれました。しかし実権は依然として母后および有力貴族が掌握し、名目的な皇帝としての権威が重視されました。この即位は西ローマ帝国末期の政治的混乱と衰退の一端を象徴する出来事として知られています。
425年
貞享5年/元禄元年9月30日

東山天皇の代始のため、元号が貞享から元禄に改元。

東山天皇の即位に伴い、元号が貞享から元禄に改元されました。
1688年10月23日(貞享5年9月30日)、東山天皇の即位により日本の元号が貞享から元禄に改められました。新元号元禄は「元は隆なり」の意を込め、天皇の代始と新政権の繁栄を願うものでした。この改元は幕藩体制下の政権変動を象徴し、元禄文化と呼ばれる豪華絢爛な文化の時代を予感させる出来事となりました。以後、元禄期には浮世絵や歌舞伎など庶民文化が花開き、日本史上でも特に華やかな時代と評価されています。政治・文化の両面で大きな変革が進む前触れとして歴史に刻まれています。
1688年 貞享 元禄 9月30日 東山天皇 元号 貞享 元禄
慶応4年/明治元年9月8日

明治天皇の代始のため、元号が慶応から明治に改元。

明治天皇の即位に伴い、慶応から明治へ元号が改められ、日本の近代国家建設の幕開けとなった。
1868年10月23日(慶応4年9月8日)、明治天皇の代始に際して元号が慶応から明治へと改元された。この改元は日本の封建的な体制から近代国家への移行を象徴する重要な出来事である。新しい元号「明治」は「明るく治まる」という意味を持ち、西洋文明の積極的導入を掲げる明治政府の方針を示唆した。改元により天皇中心の統治体制が強調され、維新政府の権威が国内外に知らしめられた。これを契機に日本では官制改革や司法制度の整備が本格化し、近代国家への歩みが加速した。
1868年 慶応 明治元年 9月8日 明治天皇 慶応 明治
慶応4年/明治元年9月8日

一世一元の詔。

天皇一代につき一つの元号を定める詔が発せられ、元号制度の原則が確立された。
1868年10月23日(慶応4年9月8日)、明治政府は一世一元の詔を発し、一人の天皇につき一つの元号を用いる制度を定めた。この詔令により、在位期間中に元号を頻繁に変えないことが決まり、元号の安定的運用を図った。一世一元制は以後の日本の元号制度の基本原則として今日まで維持されている。元号の改元は天皇の即位や重大な政変に合わせて行われることとなり、日本独自の年号文化を国民生活に根付かせる役割を果たした。詔の公布は、新政府の統治正当性を内外に示し、近代化への一歩とされた。
一世一元の詔
1873年

明治六年政変。朝鮮使節派遣の中止が決定し、征韓論派が敗れる。西郷隆盛が当日、板垣退助らが翌日に参議の辞表を提出。

征韓論を巡る政府内対立が激化し、西郷隆盛らが政争に敗れ辞職する政変。
1873年10月23日、明治政府内で朝鮮への国交開拓を主張する征韓論派と、慎重論を主張する勢力との間で対立が表面化した。朝鮮使節派遣の中止決定を受けて、征韓論派は大きく勢力を失い、西郷隆盛は参議を罷免され、同日に辞表を提出した。板垣退助ら他の参議も翌日に辞表を出し、政府から去ることとなった。この出来事は「明治六年政変」と呼ばれ、明治維新後の政治体制の方向性を決定づけた。征韓論派の敗北により政府は国内改革に注力し、富国強兵や殖産興業政策が加速した。西郷らの退場は後に西南戦争など一連の反乱を招く要因ともなった。
1873年 明治六年政変 征韓論 西郷隆盛 板垣退助
1926年

ソ連共産党中央委員会がトロツキーを政治局から追放。スターリンが主導権を握る。

トロツキーがソ連共産党中央政治局から追放され、スターリンが完全に権力を掌握。
1926年10月23日、ソ連共産党中央委員会はレフ・トロツキーを政治局から追放する決定を下した。これにより、党内の反スターリン派は大きく後退し、ヨシフ・スターリンは独裁的な支配体制を確立した。トロツキーは国外追放の道をたどり、後にメキシコで暗殺されるまで亡命生活を送ることとなった。この事件はソビエト政権内部の権力闘争の頂点であり、一党独裁体制の構築が加速した契機とされる。スターリンによる粛清や集団農場政策など過酷な社会政策が後のソ連を苦しめる要因ともなった。
1926年 トロツキー 政治局 スターリン
1945年

初の国際連合総会がニューヨークの劇場で開催。

第二次世界大戦後初の国際連合総会がニューヨークで開催され、国際協力の新時代が始まりました。
1945年10月23日、国際連合憲章の発効を受けてニューヨークの劇場を会場に初の総会が開かれました。 各国代表が集まり、平和維持や安全保障理事会の設置など、戦後世界の秩序構築に向けた議論が活発に交わされました。 51か国超の加盟国が出席し、常設事務局の設立や専門機関の創設が協議され、国際連合の運営体制の基礎が固められました。 開会宣言では、創設メンバーによる連帯の表明が行われ、次回総会の開催地や日程も決定されました。 この会合は、第二次世界大戦後の国際社会が協調して新たな紛争防止を図る歴史的な出発点となりました。
1945年 国際連合総会 ニューヨーク
1954年

パリ協定調印。西ドイツの主権回復、NATOへの加盟、再軍備などを承認。

パリ協定が調印され、西ドイツの主権回復とNATO加盟、再軍備が正式に承認されました。
1954年10月23日、フランス・パリで開催された会議においてパリ協定が調印されました。 協定により、第二次世界大戦後の占領統治下にあった西ドイツの主権回復が正式に認められました。 西ドイツは北大西洋条約機構(NATO)への加盟を承認され、西側陣営の一員として再軍備を行う道が開かれました。 協定の発効に伴い、占領軍の撤退や政治体制の安定化が進み、西ヨーロッパにおける冷戦構造が一層明確化しました。 この協定は戦後ヨーロッパの集団安全保障体制の確立に大きく寄与しました。
1954年 パリ協定 西ドイツ
1956年

フランス保護領ザールで住民投票が行われ、西ドイツ復帰支持が多数を占める。

フランス保護領ザールでの住民投票により、西ドイツ復帰支持が多数を占めました。
1956年10月23日、フランス保護領ザール(ザールラント)において住民投票が実施されました。 投票では多数の市民が西ドイツへの復帰を支持し、フランスの保護統治を終わらせる意思を示しました。 この結果を受けて、ザールラントは1957年1月に西ドイツに正式に編入されました。 住民投票は戦後ヨーロッパにおける国境線や民族自決の重要性を浮き彫りにしました。 また、フランスと西ドイツの関係改善にも寄与し、欧州統合の一歩となりました。
フランス保護領ザール 住民投票 西ドイツ
1980年

ソ連のアレクセイ・コスイギンソビエト連邦閣僚会議議長が病気のため辞任。後任にニコライ・チーホノフが就任。

ソ連の閣僚会議議長交代で、政権内部に変化が生じた。
1980年10月23日、ソビエト連邦閣僚会議議長アレクセイ・コスイギンが健康上の理由で辞任を表明しました。 コスイギンは1964年から閣僚会議の議長を務め、経済政策や官僚機構の改革などに携わってきました。 後任にはニコライ・チーホノフが就任し、政権内部の勢力図に変化が生じました。 この交代は、ソ連指導部の高齢化や経済停滞への対応として注目されました。 チーホノフの就任は新たな政策転換の期待とともに、政権の安定維持を図る動きと受け止められました。
1980年 アレクセイ・コスイギン ソビエト連邦閣僚会議議長 英語版 ニコライ・チーホノフ
1989年

ハンガリー暫定大統領スーレシュ・マーチャーシュが、国号をハンガリー人民共和国からハンガリー共和国に変更することを宣言。

ハンガリー国号変更を宣言し、人民共和国から共和国へと移行した。
1989年10月23日、ハンガリー暫定大統領スーレシュ・マーチャーシュが国号を「ハンガリー人民共和国」から「ハンガリー共和国」へと改めることを宣言しました。 この宣言は共産体制から民主的な政体移行を象徴する重要な一歩となりました。 国号変更は東欧革命の波の中で行われ、国民の自由化への期待感を高めました。 新たな国号の下、ハンガリーは多党制選挙へと向けた法整備を進め、政治改革を加速させました。 この歴史的宣言は、冷戦終結と東欧民主化の象徴的出来事として国内外で注目されました。
1989年 ハンガリー スーレシュ・マーチャーシュ 英語版 ハンガリー人民共和国