1520年

フェルディナンド・マゼランがマゼラン海峡を発見。

ポルトガルの探検家フェルディナンド・マゼランが南米大陸南端の海峡を初めて航行・確認した歴史的な発見。
1519年にスペイン王の支援で出帆したマゼランは、太平洋への新航路を求めて南米沿岸を南下。 1520年10月21日、彼の率いる艦隊が大西洋と太平洋を結ぶ狭い海峡を発見し、後にマゼラン海峡と命名された。 この航路の発見は世界一周航海の実現に向けた重要な一歩となり、当時の海洋知識を大きく更新した。 マゼラン自身は航海の途中で亡くなったが、遠征隊は帰還し世界周航を達成した。 以後、マゼラン海峡は船舶航行の要衝として活用されるようになった。
1520年 フェルディナンド・マゼラン マゼラン海峡
天正19年9月4日

九戸政実らが豊臣政権軍に降伏。奥州仕置の完了。(九戸政実の乱)

津軽・九戸地方の大名、九戸政実らが豊臣秀吉の派遣軍に降伏し、奥州仕置が完了した歴史的事件。
1591年、関東地方の反抗勢力を一掃するため豊臣秀吉は奥州仕置を実施。 同年10月21日、津軽の大名九戸政実らは豊臣政権軍の攻勢の前に降伏し、乱は終息した。 これにより奥州地方は完全に中央政権の支配下に組み込まれ、反乱鎮圧が完了した。 九戸政実は処罰を免れたが、一族や家臣の多くが領地を没収されることとなった。 奥州仕置の完了は豊臣秀吉による全国統一事業を決定づける重要な節目となった。
1591年 天正 9月4日 九戸政実 豊臣政権 奥州仕置 九戸政実の乱
慶長5年9月15日

関ヶ原の戦い。徳川家康率いる東軍が勝利。

豊臣政権の後継争いを背景に、東西両軍が決戦を行い、徳川家康率いる東軍が圧勝した日本史上最大規模の戦い。
1600年10月21日(慶長5年9月15日)、岐阜県関ヶ原付近で西軍(石田三成ら)と東軍(徳川家康ら)が激突。 戦闘は一日で終結し、東軍が勝利を収めた。 この結果、家康は豊臣政権内での実権を確立し、のちに江戸幕府を開く基盤を築いた。 関ヶ原の戦いは日本の戦国時代を終結させる転機となり、平和な江戸時代の始まりを告げた。 戦死者は数万人に上るともされ、戦国大名の勢力図が大きく書き換えられた。
1600年 慶長 9月15日 関ヶ原の戦い 徳川家康
1805年

ナポレオン戦争: トラファルガーの海戦。ナポレオンのフランス軍が、ホレーショ・ネルソン提督のイギリス軍に敗れる。

ナポレオン戦争中、イギリス海軍がフランス・スペイン連合艦隊を破った海戦。ネルソン提督の戦術が光った。
1805年10月21日、スペイン南西岸のトラファルガー岬沖で開催された海戦。 イギリス海軍提督ホレーショ・ネルソンは独創的な戦術で敵艦隊を撃破。 フランス皇帝ナポレオンの海上覇権獲得の野望をくじき、イギリスの海上優位を決定づけた。 ネルソン自身は戦闘中に戦死したが、その指揮能力と戦術は後世にも語り継がれる。 この勝利によりイギリスは大陸封鎖にもかかわらず海上ルートを維持し続けた。
1805年 ナポレオン戦争 トラファルガーの海戦 ナポレオン ホレーショ・ネルソン
1831年

フランス・リヨンにて修道士ルイ・ケルブが聖ヴィアトール修道会を創設。

フランス・リヨンで若者の教育と福祉に尽力するため、ルイ・ケルブが聖ヴィアトール修道会を創設。
1831年10月21日、フランスのリヨンでルイ・ケルブ神父が貧困層の子ども教育を目的とした聖ヴィアトール修道会を設立。 この修道会は教会学校の運営と青少年の倫理教育に力を注ぎ、社会貢献活動を展開。 設立当初から質の高い教育を掲げ、のちに欧米各地へと活動を広げた。 19世紀フランスの社会問題に応える形で誕生し、教育機関としての評価を確立。 現在も世界各地で学校運営や福祉活動を行い続けている。
1831年 リヨン 聖ヴィアトール修道会
1861年

南北戦争: ボールズブラフの戦い。

南北戦争初期、ミズーリ州で行われた小規模だが重要な戦闘。北軍が勝利し西部戦線に影響。
1861年10月21日、ミズーリ州のセントルイス近郊ボールズブラフで北軍と南軍が衝突。 北軍は巧みな防御陣地を築き、南軍の攻勢を退けて勝利を収めた。 この戦いは南北戦争における西部戦線での軍事的優位を確立する契機となった。 同地の制圧により北軍はミシシッピ川流域への拡大を進める足がかりを得た。 戦闘規模は小さいものの、戦略的重要性は高く評価されている。
1861年 南北戦争 ボールズブラフの戦い
1879年

トーマス・エジソンが日本産の竹の繊維を使ったフィラメントを用いた白熱電球を完成させ、アメリカ・ニュージャージー州で初めて一般に公開する。

トーマス・エジソンが日本産竹繊維を利用したフィラメントで白熱電球を完成させ、一般公開した。
1879年10月21日、ニュージャージー州メンロパークのエジソン研究所でエジソンが日本産の竹繊維を加工したフィラメントを用いた白熱電球を完成。 竹フィラメントは耐久性に優れ、実用性の高い長寿命の電球を生み出した。 この発明は電球の大量生産と電灯の普及を促進し、世界の照明技術に革命をもたらした。 その後、エジソン電灯会社は商業規模での電球製造を開始し、電力産業の発展を加速。 白熱電球は産業・家庭の夜間活動を一変させ、近代社会の基盤となった。
1879年 トーマス・エジソン フィラメント 白熱電球 アメリカ ニュージャージー州
1882年

東京専門学校(現在の早稲田大学)が設立される。

大隈重信らにより、私立の高等教育機関・東京専門学校が設立され、後の早稲田大学となる。
1882年10月21日、東京市(現東京都)で政治家大隈重信らが中心となり東京専門学校を創立。 設立趣旨は自由な研究と実学尊重を掲げ、当初より英語教育や民法など実社会に即した教育を実施。 のちに早稲田大学と改称され、日本を代表する私立大学として発展を遂げた。 設立から間もなく文科学生を集め、国内外の学術交流を促進。 その教育理念は現在も受け継がれ、グローバル人材の育成拠点として知られている。
1882年 早稲田大学
1889年

ヨハン・シュトラウス2世の『皇帝円舞曲』がベルリンで初演。

ウィーンの作曲家ヨハン・シュトラウス2世の作品『皇帝円舞曲』がベルリンで初演され、好評を博す。
1889年10月21日、ドイツ・ベルリンの劇場でヨハン・シュトラウス2世の管弦楽曲『皇帝円舞曲』が初演。 この曲はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を讃えて作曲され、優雅なワルツとして人気を集めた。 演奏直後からその華やかな旋律は聴衆を魅了し、ヨーロッパ各地で演奏されるようになった。 『皇帝円舞曲』はオーケストラの定番曲となり、ウィンナ・ワルツの代表作として今日まで愛され続けている。 作曲家シュトラウス2世の成熟期を象徴する傑作として位置付けられる。
1889年 ヨハン・シュトラウス2世 皇帝円舞曲
1895年

日本軍が台南に入城。台湾民主国が崩壊。

日清戦争の末、日本軍が台湾民主国の首府台南に入城し、同国の独立政権が崩壊した。
1895年10月21日、日清戦争講和条約に基づき台湾出兵した日本軍が台南城を占領。 これにより台湾民主国政府は首都を失い、政権は崩壊した。 台湾民主国は清朝からの独立を宣言した短命の政権であったが、日本統治の開始を阻止できなかった。 日本軍の迅速な進撃は現地の抵抗勢力を制圧し、台湾を日本の領土統治下に組み込む契機となった。 翌年には台湾総督府が設置され、日本統治時代が本格化した。
1895年 台南 台湾民主国
1904年

日露戦争: ドッガーバンク事件。日本に向けて北海を航行中だったロシア・バルチック艦隊が、イギリスのトロール船を日本の魚雷艇と誤認し砲撃を加える。

1904年の日露戦争中、バルチック艦隊が英漁船を日本の魚雷艇と誤認し砲撃したドッガーバンク事件。
1904年10月21日、ロシア・バルチック艦隊は極東への派遣航路で北海を航行中、イギリスのトロール船を日本の魚雷艇と誤認して砲撃を加えた。多数の漁師が巻き込まれ、英政府は強く抗議した。艦隊側は敵艦襲来と勘違いした混乱の中で発砲したと説明し、後に謝罪した。事件は英露関係を一時緊張させたが、全面戦争には至らず外交交渉で収束した。軍事情報の不備と識別の難しさを象徴する出来事として知られている。
1904年 日露戦争 ドッガーバンク事件 北海 ロシア バルチック艦隊 イギリス トロール船 魚雷艇
1907年

ウズベキスタン東部でマグニチュード7.1の大地震、約14000人が死亡。

ウズベキスタン東部で発生したマグニチュード7.1の地震により約1万4千人が死亡した大災害。
1907年10月21日、現在のウズベキスタン東部を震源とするマグニチュード7.1の強震が発生した。多くの集落が壊滅的被害を受け、家屋や公共施設が倒壊した。初動の救援体制は未整備で、避難と支援に大きな遅れが生じた。余震や地滑りによる2次災害も発生し、復興に長期を要した。旧ロシア帝国期の防災体制の脆弱性が浮き彫りになった事件である。
1907年 ウズベキスタン マグニチュード