1927年
早稲田大学大隈講堂が竣工。
1927年10月20日、早稲田大学の象徴的な大隈講堂が竣工しました。
1927年10月20日、早稲田大学の象徴である大隈講堂が竣工しました。
設計は辰野金吾の弟子にあたる建築家が担当し、ゴシック様式を取り入れた重厚な外観が特徴です。
創設者大隈重信の名を冠したこの講堂は、学術講演や入学式などの主要行事に使用されてきました。
戦災を免れた数少ない校舎の一つで、今日も大学の歴史的ランドマークとして親しまれています。
完成当初から学生や教職員のコミュニティ形成に重要な役割を果たしました。
1927年
早稲田大学
大隈講堂
1945年
日本共産党機関誌『赤旗』が再刊。
1945年10月20日、日本共産党の機関誌『赤旗』が戦後初めて再刊されました。
1945年10月20日、戦後初めて日本共産党の機関紙『赤旗』が再刊されました。
『赤旗』は1928年に創刊された党の公式機関紙で、戦時中の発禁処分を受けていました。
第二次世界大戦終結後の民主化潮流の中で、言論の自由回復の象徴ともなりました。
再刊に際しては編集体制も刷新され、戦後日本の労働運動や平和運動を報じました。
現在も継続発行され、党の主張を伝える主要メディアとして位置づけられています。
1945年
日本共産党
赤旗
1948年
島根県で約300人が政令201号違反で起訴された者の釈放を求めて松江地方裁判所、松江刑務所前に押しかける。後に首謀者が騒乱罪で起訴されたが適用されず。
1948年10月20日、島根県で約300人が裁判所と刑務所前に押しかけ釈放を要求しました。
1948年10月20日、島根県で約300人が政令201号違反による起訴者の釈放を求め、松江地方裁判所と松江刑務所前に押しかけました。
この政令は戦後の治安維持法的性格を持ち、広範な逮捕・起訴を可能にしたものです。
群衆は釈放を訴えましたが、騒乱罪で首謀者が起訴されるも最終的に不起訴となりました。
事件は戦後日本における言論・集会の自由や法令運用の在り方をめぐる論議を呼びました。
地域社会や弁護士会による支援活動も行われ、その後の法改正議論に影響を与えました。
1948年
島根県
松江地方裁判所
松江刑務所
1967年
代々木公園が開園。
東京都渋谷区に代々木公園が開園し、市民の憩いの場として親しまれる都心のオアシスが誕生。
1967年10月20日、明治神宮外苑に隣接する敷地に代々木公園が正式に開園しました。
敷地面積は約54ヘクタールに及び、広大な芝生広場や林間エリア、日本庭園を備えています。
設計には自然景観を重視し、都市部でありながら豊かな緑と多様な生態系が共存する公園を実現。
花見やスポーツ、野外フェスティバルなど市民の多彩なアクティビティの場として定着しています。
開園以来、都心のリクリエーション空間として世代を超えて愛され、国内外の観光客も訪れる名所となっています。
1967年
代々木公園
1968年
ジャクリーン・ケネディがギリシャの海運王オナシスと再婚。
ジャクリーン・ケネディがギリシャの実業家アリストテレス・オナシスと再婚し、世界中の注目を集めた。
1968年10月20日、元アメリカ大統領夫人ジャクリーン・ケネディ・オナシス(旧姓ケネディ)がギリシャの海運王アリストテレス・オナシスと結婚。
政界の象徴であったケネディ家と世界屈指の財力を持つオナシス家の結びつきは大きなニュースとなり、国際的な注目を浴びました。
ジャクリーンはケネディ大統領暗殺後にニューヨークでの生活を経て、華やかな再婚により新たな人生のステージを迎えました。
結婚式はプライベートながらも世界各地のメディアが取材し、その模様はテレビや新聞で広く報道されました。
この再婚はアメリカ国内でも賛否両論を呼び、政界と財界を象徴する二つの世界が交錯する出来事として語り継がれています。
1968年
ジャクリーン・ケネディ
オナシス
1985年
成田空港問題: 10.20成田現地闘争。
成田空港の建設に反対する地元住民や学生が現地で激しい抗議行動を展開した事件です。
1970年代から続く成田空港建設反対運動の一環として1985年10月20日に現地闘争が行われました。反対派は道路封鎖や座り込みを繰り返し、機動隊との衝突が数時間にわたり激化しました。多数の負傷者が出る中、強制排除が行われ社会的議論を呼び起こしました。この闘争は空港整備に対する地域との対話の重要性を浮き彫りにし、その後の警備体制や運輸政策にも影響を与えました。
1985年
成田空港問題
10.20成田現地闘争
1993年
皇后美智子が、週刊誌などに載った批判記事による心労が元で赤坂御所にて倒れ、失声症となる。
皇后美智子が週刊誌の記事による心的ストレスから赤坂御所で倒れ、失声症を発症した出来事です。
1993年10月20日、皇后美智子は週刊誌などの批判記事による強い心的ストレスで赤坂御所にて倒れました。その後、失声症と診断され数か月にわたり公務を休養しました。この出来事は皇室報道の在り方や皇后の健康管理への関心を高め、プライバシー保護と情報公開のバランスについて議論が起こりました。
1993年
皇后美智子
赤坂御所
失声症
1993年
新右翼「風の会」代表の野村秋介が朝日新聞東京本社に乱入、社長室で拳銃自殺。
右派組織の代表が朝日新聞東京本社に乱入し、社長室で拳銃自殺した衝撃的な事件です。
1993年10月20日、新右翼「風の会」代表の野村秋介が朝日新聞東京本社に乱入し社長室で拳銃自殺しました。社長室には複数の役員や記者も在室しており現場は一時騒然となりました。動機は新聞報道への抗議とされ詳細は不明ですが報道の自由と過激派対策の問題が浮き彫りになりました。この事件後、主要メディアの警備体制強化が議論されました。
新右翼
野村秋介
朝日新聞東京本社