1687年

ペルーでM8.6の地震。死者5000人。

1687年10月20日、ペルー沿岸でマグニチュード8.6の地震が発生し、約5000人が死亡しました。
1687年10月20日、ペルー西部の沿岸地域を襲ったマグニチュード8.6の大地震は、都市や港湾都市に壊滅的な被害をもたらしました。 当時の記録によると、リマや近隣の集落が倒壊し、津波の発生も報告されています。 死者数は約5000人にのぼり、17世紀ペルー史上最大級の地震と伝えられています。 スペイン植民地時代の建築物や城壁も甚大な損壊を受け、復興には長期間を要しました。 植民地政府は救援と復旧のための対応に追われ、その経験は後の防災計画にも影響を与えました。
1687年 ペルー M
1827年

ギリシャ独立戦争: ナヴァリノの海戦。

1827年10月20日、ギリシャ独立戦争中に英仏露連合艦隊がナヴァリノ湾で敵艦隊を壊滅させました。
1827年10月20日、ギリシャ独立戦争中のナヴァリノ湾で英仏露連合艦隊がオスマン帝国・エジプト連合艦隊と交戦しました。 英仏露両国の蒸気軍艦や帆船が火力優位を活かし、連合艦隊は敵艦隊を壊滅させました。 この海戦は近代海戦の先駆けとされ、連合艦隊の大勝利がギリシャ独立の大きな転機となりました。 オスマン帝国の海上戦力は大きく損なわれ、その後の和平交渉を有利に進める決定打となりました。 ヨーロッパ列強による宗教・民族問題介入の好例として歴史に刻まれています。
1827年 ギリシャ独立戦争 ナヴァリノの海戦
1870年

第1バチカン公会議閉会。

1870年10月20日、第1バチカン公会議が閉会し、教皇の無謬性が宣言されました。
第1バチカン公会議は1869年12月に開幕し、1870年10月20日に閉会しました。 この会議では教皇ピウス9世が教会の教義や教皇の権威について議論を主導しました。 最終的に教皇の無謬性(infallibility)が定式化され、信仰と教義に関する最高権威が明確化されました。 この宣言はカトリック教会内外で大きな論争を呼び、教会の統一と対立構造にも影響を与えました。 現代のカトリック信仰理解の基礎となり、後の教会運営や教義解釈に大きな足跡を残しました。
1870年 第1バチカン公会議
1883年

ペルーとチリが太平洋戦争の講和条約・アンコン条約に調印。

1883年10月20日、太平洋戦争終結を目的としたアンコン条約がペルーとチリの間で調印されました。
太平洋戦争(1879-1883年)はペルーとチリ、ボリビア間の領土を巡る紛争でした。 1883年10月20日、ペルーとチリはアンコン条約に調印し、正式に講和が成立しました。 条約によりペルーは太平洋岸地域の一部をチリへ割譲し、戦後補償や賠償金も規定されました。 これによって戦争は終結し、地域の国際関係は大きく変動しました。 アンコン条約は南米の国境問題に影響を与え、後の外交にも重要な先例となりました。
1883年 ペルー チリ 太平洋戦争 アンコン条約
1885年

日本がメートル条約に加盟。

1885年10月20日、日本が国際メートル条約に加盟し、度量衡の統一に参加しました。
1885年10月20日、日本はパリで開催された第1回万国度量衡総会でメートル条約に加盟しました。 これにより日本国内の度量衡が国際基準に統一され、測量や貿易、工業製品の精度向上が促進されました。 加盟時には東京大学や政府関係者が度量衡制度の整備に関わり、近代化政策の一環とされました。 条約参加によって日本は国際科学技術コミュニティへの本格的な参画を果たしました。 後の測量法改正や標準器の整備へとつながり、産業発展にも寄与しました。
1885年 日本 メートル条約
1927年

早稲田大学大隈講堂が竣工。

1927年10月20日、早稲田大学の象徴的な大隈講堂が竣工しました。
1927年10月20日、早稲田大学の象徴である大隈講堂が竣工しました。 設計は辰野金吾の弟子にあたる建築家が担当し、ゴシック様式を取り入れた重厚な外観が特徴です。 創設者大隈重信の名を冠したこの講堂は、学術講演や入学式などの主要行事に使用されてきました。 戦災を免れた数少ない校舎の一つで、今日も大学の歴史的ランドマークとして親しまれています。 完成当初から学生や教職員のコミュニティ形成に重要な役割を果たしました。
1927年 早稲田大学 大隈講堂
1933年

兵庫県神戸市須磨区沖合で客船「屋島丸(946トン)」が台風接近の暴風雨により沈没。乗客41人、船員26人死亡、乗客2人行方不明。

1933年10月20日、兵庫県沖で客船『屋島丸』が台風接近による暴風雨で沈没し、多数の犠牲者が出ました。
1933年10月20日、台風の暴風雨により兵庫県神戸市須磨区沖合で客船『屋島丸』(946トン)が沈没しました。 乗客41人、船員26人が死亡し、乗客2人が行方不明となる大惨事となりました。 事故当時は無線通信も十分でなく、救援活動は人力と小型船に頼らざるを得ませんでした。 沈没事故を契機に沿岸警備体制や気象情報の伝達方法が見直され、海難対策の強化が進められました。 犠牲者の慰霊碑は現在も沿岸部に建てられ、教訓を後世に伝えています。
1933年 兵庫県 神戸市 須磨区
1944年

第二次世界大戦・フィリピンの戦い: ダグラス・マッカーサー率いるアメリカ軍がフィリピン・レイテ島に上陸。レイテ島の戦いが始まる。

1944年10月20日、マッカーサー率いる連合軍がレイテ島に上陸し、レイテ島の戦いが始まりました。
1944年10月20日、第二次世界大戦におけるフィリピン・レイテ島の戦いが始まりました。 ダグラス・マッカーサー将軍率いるアメリカ軍は島北東部に上陸し、橋頭堡を確立しました。 上陸作戦はマッカーサーの「I shall return」の誓いを果たすためのもので、制海権奪取が狙いでした。 日本軍は激しい抵抗を試み、同時に発生したレイテ沖海戦は両軍に甚大な損害を与えました。 この戦いはフィリピン奪回の決定的契機となり、太平洋戦線の転換点となりました。
1944年 第二次世界大戦 フィリピンの戦い ダグラス・マッカーサー フィリピン レイテ島 レイテ島の戦い
1945年

日本共産党機関誌『赤旗』が再刊。

1945年10月20日、日本共産党の機関誌『赤旗』が戦後初めて再刊されました。
1945年10月20日、戦後初めて日本共産党の機関紙『赤旗』が再刊されました。 『赤旗』は1928年に創刊された党の公式機関紙で、戦時中の発禁処分を受けていました。 第二次世界大戦終結後の民主化潮流の中で、言論の自由回復の象徴ともなりました。 再刊に際しては編集体制も刷新され、戦後日本の労働運動や平和運動を報じました。 現在も継続発行され、党の主張を伝える主要メディアとして位置づけられています。
1945年 日本共産党 赤旗
1948年

島根県で約300人が政令201号違反で起訴された者の釈放を求めて松江地方裁判所、松江刑務所前に押しかける。後に首謀者が騒乱罪で起訴されたが適用されず。

1948年10月20日、島根県で約300人が裁判所と刑務所前に押しかけ釈放を要求しました。
1948年10月20日、島根県で約300人が政令201号違反による起訴者の釈放を求め、松江地方裁判所と松江刑務所前に押しかけました。 この政令は戦後の治安維持法的性格を持ち、広範な逮捕・起訴を可能にしたものです。 群衆は釈放を訴えましたが、騒乱罪で首謀者が起訴されるも最終的に不起訴となりました。 事件は戦後日本における言論・集会の自由や法令運用の在り方をめぐる論議を呼びました。 地域社会や弁護士会による支援活動も行われ、その後の法改正議論に影響を与えました。
1948年 島根県 松江地方裁判所 松江刑務所
1949年

日本戦歿学生手記編集委員会が戦没学生の手記を集めた『きけ わだつみのこえ』が刊行。

戦没学生の手記を集めた貴重な戦争文学作品『きけ わだつみのこえ』が刊行。 戦争の実相を伝える記録として大きな反響を呼んだ。
日本戦歿学生手記編集委員会は、戦没学生の自筆手記を編纂し1939年から1945年までに戦死した学生たちの声を収集しました。 刊行された『きけ わだつみのこえ』は、20篇以上の手記を収め、太平洋戦争末期の学徒兵の実態を克明に描いています。 戦後まもなく出版された本書は、戦争文学の先駆として注目を集め、平和や戦争の悲惨さを伝える教材として広く読まれました。 寄稿者たちの若年層の視点からの体験談は、多くの読者に戦争の現実を直視させ、記憶の継承に寄与しました。 編集委員会の努力により、個人の声を集めた初の試みとして、日本の戦後文学史に重要な位置を占めています。
1949年 きけ わだつみのこえ
1950年

朝鮮戦争: 国連軍が北朝鮮の臨時首都・平壌を占領。

国連軍が北朝鮮の臨時首都・平壌を占領し朝鮮戦争の戦況を左右した。 反攻作戦の成功により戦局が連合国側に傾いた。
1950年6月に始まった朝鮮戦争は、北朝鮮軍の南侵に対抗して国連軍が参戦し、数ヶ月間の激戦を経て10月20日に平壌を攻略しました。 この作戦は、仁川上陸作戦後の連合軍の総反攻の一環として展開され、首都の制圧は国際的な注目を集めました。 平壌占領により北朝鮮政府は撤退を余儀なくされ、南北いずれかの支配権を巡る戦いは新たな段階へ移行しました。 占領後、戦略的要所を抑えた連合軍は戦線をさらに北方へと進め、中国人民志願軍の介入を引き起こすことになります。 この出来事は冷戦下の東アジア情勢に深い影響を与え、朝鮮半島の分断状態が一層固定化される契機となりました。
1950年 朝鮮戦争 平壌 占領 英語版