31年

元老院でセイヤヌスを弾劾するティベリウスの書簡が読まれる。

ティベリウス帝が元老院にセイヤヌスの不正を指摘する書簡を送付し、公的に弾劾を開始しました。ローマ帝国内部の権力闘争が激化したきっかけとなった重要な出来事です。
ティベリウス帝は側近セイヤヌスの権力拡大を警戒し、元老院に対し不正行為の調査と責任追及を求める書簡を送付しました。 元老院でこの書簡が朗読されることで、セイヤヌスは公的に罪状を突き付けられ、支持を失うきっかけとなりました。 セイヤヌスは後に失脚し、処刑されるなどローマ宮廷内の陰謀と権力闘争が一気に表面化しました。 この事件はティベリウス帝の専制政治への転換点ともされ、ローマ帝国の政治構造に大きな影響を与えました。 当時の元老院の権威や役割、皇帝と元老院の関係を考える上で重要な歴史的事件です。
31年 元老院 セイヤヌス ティベリウス
1009年

ファーティマ朝のカリフ・ハーキムの命によりエルサレムの聖墳墓教会が完全に破壊。

エルサレムの重要なキリスト教聖地である聖墳墓教会が、ファーティマ朝カリフ・ハーキムの命令で破壊されました。
聖墳墓教会は、キリストの復活の地とされる聖地エルサレムの中心的な礼拝所でした。 ファーティマ朝のカリフ・ハーキムは異教徒や異端への弾圧政策を強化し、1009年に教会の完全破壊を命じました。 教会の壁面や聖遺物は徹底的に破壊され、貴重な美術品も失われました。 この事件は東方キリスト教徒とイスラーム世界の緊張を高め、西欧キリスト教圏に衝撃を与えました。 後の十字軍遠征の遠因の一つとされ、宗教間対立の歴史的象徴ともなっています。
1009年 ファーティマ朝 カリフ ハーキム エルサレム 聖墳墓教会
1081年

ロベルト率いるノルマン人とアレクシオス帝率いる東ローマ帝国軍がアルバニアで衝突。 デュッラキウムの戦いが勃発した。

ノルマン人軍と東ローマ帝国軍がアルバニアで対峙し、デュッラキウムの戦いが始まりました。
ロベルト・ギスカルド率いるノルマン人軍は南イタリアからバルカン半島へ進出を図っていました。 東ローマ皇帝アレクシオス1世は帝国の領土防衛のため迎撃軍を編成し、アルバニア北部のデュッラキウムで衝突しました。 1081年10月18日に勃発したこの戦いで、東ローマ軍は数的劣勢ながら優れた戦術を駆使しノルマン軍を撃退しました。 勝利によりアレクシオス1世は帝国領内の支配を固め、後にコンネノス朝の復興を主導しました。 一方、ノルマン人のバルカン進出は一時的に阻止され、東西勢力の均衡に影響を与えました。 この戦闘は中世東地中海世界の勢力図を大きく左右する転換点となりました。
1081年 ロベルト アレクシオス帝 東ローマ帝国 デュッラキウムの戦い
1386年

ハイデルベルク大学が開学。

神聖ローマ帝国領内に最古級の大学、ハイデルベルク大学が開学しました。
ハイデルベルク大学は、ドイツ南西部に位置するハイデルベルクで教皇ウルバヌス6世によって創設されました。 神聖ローマ皇族プファルツ選帝侯ルパート1世の後援を受け、1386年に正式に開学しました。 法学、神学、医学、人文学を中心にカリキュラムが整えられ、中世から近世にかけて学問の中心地となりました。 宗教改革期にはカルヴァン派やルーテル派の思想を受け入れ、ヨーロッパの神学研究で重要な役割を果たしました。 現在もドイツ最古の大学として、幅広い研究分野と国際交流で知られています。
1386年 ハイデルベルク大学
永禄4年9月10日

川中島の戦い: 八幡原の戦い。

戦国時代の川中島の戦いの一つ、八幡原の戦いが行われました。
八幡原の戦いは、武田信玄と上杉謙信という名将同士が激突した川中島の戦いの第四回とされます。 1561年10月18日、信玄は厳重な防衛線を築いた謙信軍に対し正面攻撃を仕掛け、両軍は激しい白兵戦を展開しました。 謙信は夜襲を敢行して武田陣まで迫り、「毘沙門天の化身」と称される勇戦を見せました。 戦場の戦況は目まぐるしく入れ替わり、最終的には両軍とも大きな損耗を被りつつ引き分けに終わりました。 この戦いは両氏族の緊張関係を決定づけ、戦国時代の軍事戦術研究においても重要な事例とされています。
1561年 永禄 川中島の戦い 八幡原の戦い
1748年

オーストリア継承戦争の講和条約であるアーヘンの和約が締結。

オーストリア継承戦争の講和条約、アーヘンの和約が締結されました。
オーストリア継承戦争は大国の王位継承問題を巡るヨーロッパ各国の争いでした。 1748年10月18日、オランダのアーヘンでイギリス、フランス、オーストリアなどが参加する和平交渉がまとまり、アーヘンの和約に調印しました。 条約により、フランスはロレーヌ地方の一部を保持し、オーストリアはイタリア北部の領有権を回復しました。 イギリスは海上権益を維持し、東インド会社の利益を確保する条項が盛り込まれました。 この講和は18世紀ヨーロッパの勢力均衡を再編し、後の七年戦争へ向けた外交関係に影響を与えました。
1748年 オーストリア継承戦争 講和条約 アーヘンの和約
1767年

ペンシルベニア植民地とメリーランド植民地の境界線であるメイソン=ディクソン線の測量が完了。

ペンシルベニアとメリーランドの境界線、メイソン=ディクソン線の測量が完了しました。
メリーランド植民地とペンシルベニア植民地は領域重複の紛争を抱えていました。 ジョージ・メイソンとチャールズ・ディクソンの測量チームが1750年代半ばから国境の調査を開始し、正確な緯度線を採用しました。 1767年10月18日に測量が完了し、いわゆる「メイソン=ディクソン線」が確定しました。 この境界線は後に南北戦争前の奴隷制廃止論争で北部と南部を分ける象徴としても知られるようになりました。 現在でも、アメリカ東部の歴史的・文化的境界を示すラインとして注目されています。
1767年 ペンシルベニア植民地 メリーランド植民地 メイソン=ディクソン線
1851年

ハーマン・メルヴィルの長編小説『白鯨』が刊行。

ハーマン・メルヴィルの長編小説『白鯨』が刊行され、文学史に名を刻みました。
『白鯨(Moby-Dick)』はアメリカの作家ハーマン・メルヴィルが執筆した海洋冒険小説です。 1851年10月18日に刊行され、主人公イシュメールの語り口とエイハブ船長の復讐劇が描かれました。 巨大な白いクジラ、モビー・ディックとの壮絶な追跡は人間の執念や自然への畏敬を象徴しています。 当初は商業的に成功しなかったものの、20世紀以降に文学的評価が高まり、世界文学の古典とされました。 豊富な海洋知識や哲学的・宗教的テーマを盛り込み、幅広い批評研究の対象となっています。 現在も多くの国で翻訳され、演劇・映画・音楽など多様なメディアで再解釈されています。
1851年 ハーマン・メルヴィル 白鯨
1860年

アロー戦争: 英軍が清による捕虜殺害の報復として円明園を焼き払う。

アロー戦争中、英軍が清の捕虜殺害への報復として円明園を焼失させました。
アロー戦争(第二次アヘン戦争)の最中、英仏連合軍は清朝軍によるイギリス人捕虜殺害への報復を行いました。 1860年10月18日、北京近郊にある頤和園の一部とともに円明園(西太后の離宮)を焼き払いました。 膨大な中国古典芸術品や建築が破壊され、多くの文化財が略奪されました。 この略奪は清朝政府への警告として行われ、西欧列強の中国進出と清王朝の衰退を象徴する事件となりました。 現在も文化財返還や歴史認識を巡る議論が続く、歴史的に影響の大きい出来事です。
1860年 アロー戦争 円明園
1867年

アラスカが、ロシア帝国からアメリカ合衆国へ720万ドルで売却される。(アラスカ購入)

ロシア帝国からアメリカ合衆国へアラスカが720万ドルで売却されました。
アラスカ購入は、アメリカ合衆国の国務長官ウィリアム・H・スワードが提案した領土取得計画です。 1867年10月18日に両国間で正式に契約が結ばれ、720万ドル(当時の約2セント/エーカー)で売却が完了しました。 当時は「スワードの愚行(Seward's Folly)」と揶揄されましたが、その後豊富な天然資源が発見され大きな経済的利益をもたらしました。 この売却によりアメリカ本土の北西方向への領土拡大が実現し、後の国境確定にも影響を及ぼしました。 現在のアラスカ州はアメリカ最大の州面積を誇り、観光や石油産業の重要地域となっています。
1867年 アラスカ ロシア帝国 アメリカ合衆国 アラスカ購入
明治2年9月14日

日墺修好通商航海条約が締結される。

日本とオーストリア帝国の間で通商航海条約が締結された。 これにより日本は関税自主権や最恵国待遇を獲得し、国際貿易が促進された。
明治2年(1869年)9月14日、日墺修好通商航海条約が締結された。 この条約は日本政府とオーストリア・ハンガリー帝国との間で結ばれた初の通商条約である。 日本側は関税自主権回復や最恵国待遇の確保を目指し、条約の改正交渉を進めていた。 条約によりオーストリア商船の来航が自由化され、貿易拡大につながった。 明治維新後の国際社会進出の一環として、日本の地位向上に寄与した。
1869年 明治 9月14日 日墺修好通商航海条約
1881年

板垣退助らが日本初の政党・自由党を結成。

板垣退助らが自由党を結成し、日本初の政党政治が始まった。
1881年、民撰議院設立建白書運動を背景に板垣退助や後藤象二郎らが自由党を結成した。 自由党は国会開設や議員選挙権拡大を主張し、自由民権運動の中心となった。 党名には『自由』の理念が込められ、立憲政治実現を目指した。 県会や市会議員を通じて政治参加の道を拓き、多くの地方有力者が参加した。 この結党は日本の議会制民主主義の礎となった。
1881年 板垣退助 政党 自由党