1384年

ヤドヴィガがポーランド王に即位。

ポーランド女王ヤドヴィガが女性でありながら『王』として即位した。
ヤドヴィガ(ユディタ)は1373年頃に生まれ、1384年、10歳でポーランド王位に就いた。 女性としては異例の『王(ルート)』の称号を持ち、単独統治権を行使した。 彼女はリトアニア大公ヤギェウォと結婚し、ポーランド・リトアニア両国の連合を促進した。 治世中は教育・文化の振興にも尽力し、クラクフ大学の発展にも寄与した。 ヤドヴィガの統治は後世の中央ヨーロッパ政治に大きな影響を与えた。
1384年 ヤドヴィガ ポーランド
1793年

フランス革命: ルイ16世妃マリー・アントワネットが断頭台で処刑される。

フランス革命下、元王妃マリー・アントワネットが断頭台で処刑される。
1793年10月16日、フランス革命の情勢が急進化する中、元王妃マリー・アントワネットが処刑された。 国家反逆の罪で裁判にかけられ、パリのコンコルド広場でギロチンにかけられた。 彼女の死は革命支持派と王政復古派の対立を一層深刻化させた。 多くの国民にとって王妃の悲劇的最期は革命の苛烈さを象徴し、後世にわたり文学や芸術作品で取り上げられた。 アントワネットの処刑は、フランス革命の恐怖政治期の頂点とも評される。
1793年 フランス革命 ルイ16世 マリー・アントワネット 断頭台
1906年

ケペニックの大尉事件(ヴィルヘルム・フォークト)

1906年10月16日、偽の軍服を着用したヴィルヘルム・フォークトが市役所を占拠し市金を奪ったユーモラスな事件。
1906年10月16日、偽の軍服で警官を従え市役所を襲い、市町村金庫から金を奪った事件で、ドイツ国内外で大きな話題を呼びました。 主役は元下級兵士ヴィルヘルム・フォークト。巧妙な演技と公権力の脆弱性をあぶり出したことから、“ケペニックの大尉”として知られています。 この出来事は、権威への盲目的服従や官僚制度の問題点を皮肉たっぷりに示したとして文学や演劇の題材にもなりました。 その後、フォークトは逮捕・収監されたものの、一躍“民衆のヒーロー”視されるなど社会的インパクトを残しました。 事件はドイツ帝国時代の軍事礼装と法執行のあり方を問う象徴的事例とされています。
1906年 ヴィルヘルム・フォークト
1941年

外交交渉継続の是非をめぐる近衛文麿首相と東条英機陸相の対立により、第3次近衛内閣が総辞職。

1941年、近衛文麿首相と東条英機陸相の対立で内閣が総辞職し、戦時体制が軍部主導に傾いた。
1941年10月16日、近衛文麿首相と東条英機陸相が対立し、第3次近衛内閣が総辞職しました。 対立の中心は外交交渉継続の是非で、近衛首相は英米との協調を模索したのに対し、東条陸相ら軍部強硬派は中国との戦争継続を主張しました。 内閣総辞職は太平洋戦争への道を決定付け、日本の戦時体制が軍部主導へと傾く転機となりました。 この政治的混乱は国民の戦意高揚と軍部の発言力強化を招き、その後の歴史に大きな影響を与えました。 戦前日本の政治と軍部の緊張関係を象徴する重要な出来事です。
1941年 近衛文麿 東条英機 第3次近衛内閣
1945年

国際連合食糧農業機関(FAO)が設立される。

1945年、戦後の食糧危機に対応する国連機関FAOが設立され、飢餓撲滅に取り組み始めた。
1945年10月16日、第二次世界大戦後の世界食糧問題に対応するため、国際連合食糧農業機関(FAO)が設立されました。 FAOは農業開発や食糧安全保障を推進し、飢餓撲滅と栄養改善を目的とする国際機関です。 設立当初は参加国32か国でスタートし、食糧援助や技術支援を通じて開発途上国支援に貢献しました。 現在では194か国・地域が加盟し、世界的な食料体系の改善と持続可能な農業を目指す中心的役割を担っています。 国際協力による公衆衛生と農業振興のモデルケースとして評価されています。
1945年 国際連合食糧農業機関
1945年

李承晩がアメリカから帰国し、南朝鮮の独立建国運動の指導者となる。

1945年、李承晩が帰国し大韓民国成立へ向けた独立運動を率いた。
1945年10月16日、李承晩(Syngman Rhee)はアメリカ合衆国から帰国し、南朝鮮の独立建国運動を指導し始めました。 日本の植民地支配から解放された朝鮮半島で、李承晩は民主主義と反共主義を掲げる政治家として注目を集めました。 後に大韓民国の初代大統領となり、韓国政府樹立の中心人物として歴史に名を刻みます。 帰国直後から臨時政府機構の再編やアメリカ軍政との交渉に奔走し、国家建設の礎を築きました。 朝鮮半島南部における冷戦構造形成の一翼を担った重要な転換点です。
李承晩 南朝鮮
1945年

ソ連が北朝鮮の行政権を北朝鮮指導者に移管。

1945年、ソ連軍政から朝鮮北部の行政権が現地指導者へ移管され、新政府樹立の基盤が形成された。
1945年10月16日、ソ連は朝鮮北部における行政権を現地の指導者層に移管しました。 連合国による朝鮮半島分割統治の一環で、北部ではソ連軍政が終わり、朝鮮共産党系の行政組織が実権を握ります。 この権力移管は後の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)樹立への過程を決定付ける出来事です。 冷戦下の東アジア情勢に大きな影響を与え、南北両政府樹立の基盤となりました。 朝鮮半島の分断と東西対立の起点としても象徴的です。
北朝鮮
1951年

パキスタン首相リヤーカト・アリー・ハーンが暗殺される。

1951年、初代パキスタン首相リヤーカト・アリー・ハーンが暗殺され、政情不安が深まった。
1951年10月16日、初代パキスタン首相リヤーカト・アリー・ハーンがカラチで暗殺されました。 彼はインド分離独立後の混乱期における国家建設を主導し、国民統合と外交政策の基礎を築いた政治家です。 暗殺の背景には国内外の政治的対立や宗教対立が指摘され、当時の緊張感を象徴します。 彼の死はパキスタン政治に大きな打撃を与え、政情不安と権力闘争の時代を招来しました。 パキスタン建国期の重要人物の一人として、現在も評価と議論が続いています。
1951年 パキスタン リヤーカト・アリー・ハーン
1952年

昭和天皇・皇后が戦後初めて靖国神社に参拝。

戦後初めて昭和天皇と皇后が靖国神社に参拝した。
1952年10月16日、昭和天皇と香淳皇后が戦後初めて東京の靖国神社を参拝した。この参拝は戦後の皇室と国家神道の関係を象徴するものである。当時の国内外からは戦前の軍国主義への回帰を懸念する声も上がった。政府は参拝を慎重に調整し、皇室行事として公式色を抑えた形式で行われた。参拝により皇室の戦後復権と国民統合の意図が示されたとされている。
1952年 昭和天皇 皇后 靖国神社
1964年

中華人民共和国がタクラマカン砂漠で初の原爆実験に成功し、世界5番目の核保有国となる。(596 (核実験))

中国がタクラマカン砂漠で初の核実験に成功し、世界第5の核保有国となった。
1964年10月16日、中国政府は新疆地区のロプノール(タクラマカン砂漠)にてコードネーム『596』による初の核実験を実施した。約20キロトン級の装置で行われたこの実験により、中華人民共和国は世界で5番目の核保有国に仲間入りした。核実験は冷戦下における軍事的抑止力の確立を狙ったもので、東西両陣営からの評価を集めた。この成功は後の核拡散防止条約(NPT)交渉にも大きな影響を与え、国内では科学技術者の士気向上と軍事力誇示の象徴となった。
1964年 中華人民共和国 タクラマカン砂漠 原爆実験 596 (核実験)
1973年

ベトナム和平への功績が認められ、ヘンリー・キッシンジャーとレ・ドゥク・トのノーベル平和賞受賞が決定。(トは辞退する)

キッシンジャーとレ・ドゥク・トがベトナム和平功労でノーベル平和賞を受賞、トは辞退した。
1973年10月16日、ノルウェー・ノーベル委員会はベトナム戦争の和平交渉に貢献したアメリカのヘンリー・キッシンジャー国務長官と北ベトナムのレ・ドゥク・ト外務次官にノーベル平和賞を授与すると発表した。しかし、レ・ドゥク・トは戦争終結前であることを理由に受賞を辞退した。キッシンジャーは後に実際に受賞し、パリ協定の締結が評価された。受賞発表は東西冷戦下の和平プロセスに対する国際的期待を象徴し、論争を巻き起こした。
1973年 ベトナム和平 ヘンリー・キッシンジャー レ・ドゥク・ト ノーベル平和賞
1978年

ポーランド人のカロル・ウォイティワ枢機卿がローマ教皇に選出される。(ヨハネ・パウロ2世として、10月22日に就任)

カロル・ウォイティワ枢機卿が教皇に選出され、ヨハネ・パウロ2世となった。
1978年10月16日、バチカンのコンクラーベにおいてポーランド出身のカロル・ウォイティワ枢機卿が第265代ローマ教皇に選出され、ヨハネ・パウロ2世として即位した。非イタリア人教皇としては455年ぶりであり、冷戦下の東欧勢力にとって大きな希望となった。正式な就任式は10月22日に行われ、人権擁護や宗教間対話を推進する教皇として世界的に高い支持を受けた。
1978年 ローマ教皇 ヨハネ・パウロ2世 10月22日