1582年

イタリア・ポーランド・ポルトガル・スペインでグレゴリオ暦を導入。ユリウス暦の10月4日(木曜日)の翌日がグレゴリオ暦の10月15日(金曜日)となった。

1582年10月15日、イタリアやポルトガルなどでグレゴリオ暦が導入されました。ユリウス暦の10月4日の翌日が10月15日になり、暦が10日進められました。
カトリック教皇グレゴリウス13世が制定した暦法であり、ユリウス暦の誤差を修正。 イタリア・ポーランド・ポルトガル・スペインの各国で同日に採用され、従来の10月4日の翌日を10月15日とした。 これにより暦と季節のずれが調整され、西欧諸国を中心に広く普及。 導入当初は日付が飛ぶ異例の措置として民衆に衝撃を与えたが、徐々に定着。 今日もグレゴリオ暦は国際標準暦として世界各地で用いられている。
1582年 イタリア ポーランド ポルトガル スペイン グレゴリオ暦 ユリウス暦 10月4日 グレゴリオ暦
1815年

ナポレオン・ボナパルトがセントヘレナに流刑になる。

1815年10月15日、ナポレオン・ボナパルトがセントヘレナ島へ流刑となりました。最後の失脚後、厳重な監視下での生活が始まりました。
ヴィクトリア朝時代のイギリス領セントヘレナ島に送られ、二度とヨーロッパへ戻れない隔絶された環境。 皇帝としての権力を喪失した後、自由を制限された孤独な暮らしを強いられた。 飽和した政治情勢とイギリスの警戒から、監獄島に近い監視体制が敷かれた。 ナポレオンは脱出計画を練るものの実現せず、1821年に同地で病没。 その死後も英雄視と批判が続き、ヨーロッパ史の重要人物として語り継がれている。
1815年 ナポレオン・ボナパルト セントヘレナ
1894年

ドレフュス事件: アルフレド・ドレフュスがドイツのスパイ容疑で逮捕。

1894年10月15日、フランス軍情報将校アルフレド・ドレフュスがドイツへのスパイ容疑で逮捕されました。後の冤罪問題の発端となった事件です。
ドレフュス事件はユダヤ系将校に対する軍事裁判で、容疑の根拠は不十分とされた。 逮捕後、軍部内部の機密情報をめぐる陰謀と反ユダヤ主義が絡み大きな社会問題に発展。 後にエミール・ゾラらが「私は弾劾する」で抗議し、世論を巻き込んだ論争を誘発。 最終的には再審が認められ、ドレフュスは無罪釈放された。 この事件は法と人権、報道の自由を巡る象徴的な事例となった。
1894年 ドレフュス事件 アルフレド・ドレフュス
1904年

フリードリヒ・アウグスト3世がザクセン王に即位。

1904年10月15日、フリードリヒ・アウグスト3世がザクセン王に即位しました。ドイツ帝国下最後のザクセン国王となります。
ザクセン王国はドイツ帝国構成国の一つであり、王室は歴史的に文化振興を支援。 前王ヨハン・ゲオルク15世の死去に伴い、即位式が盛大に挙行された。 フリードリヒ・アウグスト3世は自由主義的傾向を持ち、教育や芸術の発展に尽力。 第一次世界大戦中は軍事的役割を果たしたが、1918年のドイツ革命で退位。 王政廃止後は公職を離れ、1932年に亡くなった。
1904年 フリードリヒ・アウグスト3世 ザクセン王
1944年

パンツァーファウスト作戦。ハンガリーでナチス・ドイツと矢十字党によるクーデターが起こる。

ナチス・ドイツがハンガリーで行ったパンツァーファウスト作戦で、矢十字党がクーデターを実行しました。
1944年10月15日、ドイツはホルティ政権を強制的に従属させるためパンツァーファウスト作戦を発動。 ホルティ首相を拘束し、親独的な政権を樹立させるクーデターが行われた。 矢十字党が政権を掌握し、ユダヤ人に対する弾圧と大量虐殺が一層激化。 ハンガリーの内政に深刻な混乱をもたらし、多くの市民が犠牲となった。 この出来事はホロコースト史の悲劇的な側面を象徴する一つです。
1944年 パンツァーファウスト作戦 ハンガリー ナチス・ドイツ 矢十字党 クーデター
1945年

日本で治安維持法廃止。

戦後日本で治安維持法が廃止され、言論・表現の自由回復への一歩となりました。
1945年10月15日、GHQの指令により治安維持法が正式に廃止。 この法律は1925年に共産主義や反政府活動を取り締まる目的で制定された。 戦前・戦中は思想弾圧や言論統制に利用され、多くの市民が逮捕された。 廃止後は民主的な言論空間が拡大し、戦後日本の民主主義再建を支えた。 のちの日本国憲法下での基本的人権保障にも影響を与えた重要な転換点です。
1945年 治安維持法
1948年

日本で第2次吉田茂内閣が成立。

第2次吉田茂内閣が成立し、戦後日本の復興政策と外交方針が本格化しました。
1948年10月15日、吉田茂が再び首相に就任し第2次内閣を発足。 経済復興とアメリカとの安全保障関係強化を中心課題とした。 いわゆる『吉田ドクトリン』の基礎が築かれ、自衛と福祉重視の路線を採用。 食糧難やインフレ対策に取り組み、復興予算を編成。 外交面では対中政策や日米関係の再構築に注力した。 この内閣は戦後日本政治の安定期の到来を象徴するものです。
1948年 第2次吉田茂内閣
1952年

日本の警察予備隊が保安隊に改編される。

1952年10月15日、日本の警察予備隊が保安隊に改編され、自衛隊の前身が誕生しました。
第二次世界大戦後の治安維持と占領軍支援を目的に1946年に創設された警察予備隊は、1952年10月15日に新たに保安隊として改組されました。 この改編は占領下での自衛組織の強化を図るもので、自衛隊の前身となる重要な節目でした。 保安隊は装備や組織体制を見直し、陸上防衛能力の向上を目指しました。 改編後は幹部養成や部隊運用の体制整備が進められ、その後の防衛政策に大きな影響を与えました。 1954年にはさらに保安隊が自衛隊へと発展し、現在の日本の防衛組織の礎となりました。
1952年 警察予備隊 保安隊
1963年

1963年大韓民国大統領選挙で朴正煕が当選。

1963年10月15日、大韓民国大統領選挙で朴正煕が当選しました。
1963年10月15日に実施された大韓民国の大統領選挙で、軍政の最高指導者だった朴正煕が民選大統領に選出されました。 朴正煕は軍事クーデター後の政治体制を刷新し、経済開発を重視する指導を訴えて支持を獲得。 当選後は「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を推進し、韓国を工業化国家へと導きました。 同選挙は民主化への第一歩とされる一方で、朴政権の弾圧的側面も深刻な議論を呼びました。 彼の統治は1979年の暗殺まで続き、現代韓国の政治・経済構造に大きな影響を与えました。
1963年 1963年大韓民国大統領選挙 朴正煕
1964年

1964年イギリス総選挙。労働党が13年ぶりに政権獲得。

1964年10月15日、イギリス総選挙で労働党が13年ぶりに政権を奪還しました。
1964年10月15日に実施されたイギリス総選挙で、ハロルド・ウィルソン率いる労働党が勝利し、13年ぶりに政権の座に就きました。 選挙戦では経済停滞や社会福祉の拡充が主な争点となり、労働党は進歩的な政策を掲げて支持を集めました。 保守党からの政権交代は当時の社会変革への期待を象徴し、英国内外で大きな注目を浴びました。 ウィルソン政権は初期に産業近代化や科学技術振興を推進し、イギリスの社会基盤を再編成。 その後の労働党政権は文化的・社会的改革を進め、1960年代の「ゆらぐ時代」を象徴する政府となりました。
1964年 1964年イギリス総選挙 労働党
1969年

悪徳の栄え事件の最高裁判所大法廷判決。被告人等の有罪が確定。

1969年10月15日、『悪徳の栄え事件』の最高裁大法廷判決で被告人らの有罪が確定しました。
1969年 悪徳の栄え事件 最高裁判所 大法廷
1987年

ブルキナファソでクーデター、トマ・サンカラが殺害されブレーズ・コンパオレが大統領に就任。

ブルキナファソでクーデターが発生し、大統領トマ・サンカラが暗殺されました。
1987年10月15日、ブルキナファソで大統領トマ・サンカラを標的とした軍事クーデターが発生しました。 当時推進されていた社会改革や反腐敗運動が背景にあり、内部の権力闘争が激化していました。 クーデター部隊は大統領官邸を襲撃し、サンカラを殺害しました。 その後、ブレーズ・コンパオレが権力を掌握し、大統領に就任しました。 コンパオレ政権はサンカラ路線を転換し、以後30年近く政権を維持しました。
1987年 ブルキナファソ トマ・サンカラ ブレーズ・コンパオレ