1307年

フランス王フィリップ4世が、テンプル騎士団の壊滅と資産の略奪のためにフランス全土において会員を一斉に逮捕。

1307年10月13日、フランス王フィリップ4世がテンプル騎士団の会員を一斉逮捕し、組織壊滅と資産没収を強行した事件。
当時テンプル騎士団は財力を背景に欧州で大きな影響力を持っていたとされ、フィリップ4世は王室の財政難解消を狙って弾圧を決断した。金曜日の未明に王命が下され、数百名の騎士が同時に逮捕されて拷問を受け、異端の罪を強要された。その後、教皇や各国への圧力を経て騎士団は正式に解散させられ、莫大な資産は王権に取り込まれた。本事件は「フライデー13日の呪い」の起源とも言われ、後世に大きな伝説を残した。この一連の弾圧は中世ヨーロッパの権力闘争を象徴する事例として歴史に刻まれている。
1307年 フランス フィリップ4世 テンプル騎士団
天正2年9月29日

伊勢国長島城の一向一揆勢が織田信長に降伏。城を退去するも、一斉射撃を受けて門徒多数が殺害。織田軍も逆襲を受け一門の武将を多数失う。(長島一向一揆)

1574年10月13日、伊勢国長島城の一向一揆勢が織田信長に降伏したが、退去中に攻撃を受け多くの門徒が犠牲となった事件。
長島一向一揆は浄土真宗の門徒が自治を求めて起こした一揆で、織田信長は1569年から攻略を進めていた。天正2年(1574年)9月29日に主力がようやく降伏したものの、城を退去する一揆勢は退却路で一斉射撃を受け、多くの門徒が命を落とした。織田軍も伏撃を受けて有力な武将を失い、戦術的な痛み分けに終わった。宗教的結社と戦国大名の対立構造を浮き彫りにし、信長の冷酷さを象徴する事件として知られる。
1574年 天正 9月29日 伊勢国 長島城 一向一揆 織田信長 長島一向一揆
慶長5年9月7日

大津城の戦いが始まる。

1600年、関ヶ原合戦の前哨戦として大津城の戦いが勃発した。
慶長5年(1600年)9月7日、関ヶ原の合戦を目前に控えた東西両軍の緊張が高まる中、大津城を巡る戦闘が繰り広げられた。この城は京都と西軍の補給路を結ぶ要衝で、当初東軍に属していた城将が西軍からの揺さぶりを受けて攻防戦が展開された。戦闘は短期間で終息し、大津城はほどなく制圧されたが、両軍の戦力と士気に大きな影響を与えた。関ヶ原本戦への布石として歴史に刻まれている。
1600年 慶長 9月7日 大津城の戦い
1773年

シャルル・メシエが子持ち銀河を発見。

1773年10月13日、フランスの天文学者シャルル・メシエが子持ち銀河(M51)を発見した。
天文学者シャルル・メシエはヴェルサイユ天文台で観測中、淡い渦巻状の光を伴う天体を捉え、これを「子持ち銀河」と名付けた。後にM51としてメシエカタログに収録され、天文学史上初めて渦巻銀河構造が外観的に認識された事例とされる。子持ち銀河はおうちょう座に位置し、その隣に小銀河NGC5195を伴う相互作用天体としても知られている。この発見は銀河研究と宇宙構造理解の礎を築いた。現在も高解像度で観測される代表的な渦巻銀河として人気が高い。
1773年 シャルル・メシエ 子持ち銀河
1792年

ホワイトハウスのルーツとなる、米国大統領官邸の礎石が置かれ、建設が着工する。

1792年、ワシントンD.C.でホワイトハウスの前身となる大統領官邸の礎石が据えられ、建設が開始された。
アメリカ合衆国の建国後、首都建設計画の一環としてジェームズ・ホーバン設計による大統領官邸が着工された。1792年10月13日には重要な象徴として基礎となる礎石が据え付けられ、公式には「パブリックマンション」と呼ばれた。後にホワイトペイントが施され「ホワイトハウス」として知られるようになる。大統領の公邸として歴代政権の舞台となり、アメリカ政治の象徴的建築物として世界的に認知されている。
1792年 ホワイトハウス 米国大統領
1812年

米英戦争: クィーンストン・ハイツの戦い。

1812年の米英戦争で、クィーンストン・ハイツの戦いが発生し、両軍に多くの犠牲が出た。
1812年10月13日、米英戦争初期の大規模戦闘がオンタリオ湖近郊で勃発した。アメリカ軍は国境を越えて橋頭堡を築こうとし、イギリス軍とカナダ植民地民兵が迎え撃った。イギリス軍総司令官アイザック・ブロック将軍がこの戦いで戦死し、両軍の士気に大きな影響を与えた。アメリカ軍は一時的に勝利を収めたが、激しい交戦で損害を被った。戦闘は米英間の長期戦争を象徴する一局面となった。
1812年 米英戦争 クィーンストン・ハイツの戦い
1825年

ルートヴィヒ1世がバイエルン王に即位。

1825年10月13日、ルートヴィヒ1世がバイエルン王として即位し、新たな宮廷文化が花開いた。
マクシミリアン1世ヨーゼフの跡を継いだルートヴィヒ1世は芸術と建築を愛好し、ミュンヘンを文化都市へと変貌させた。ネオクラシック様式の建築物を多数発注し、プロイセンに対抗する独自の王国アイデンティティを築いた。詩人ハイネや画家クラナッハらを保護し、バイエルン王国の文化的黄金時代を演出した。欧州列強間の政治的中立を維持しつつも、芸術的後進地域から一躍注目の的となった治世として知られる。
1825年 ルートヴィヒ1世 バイエルン王
1884年

国際子午線会議において、グリニッジ天文台を通る子午線(グリニッジ子午線)を経度0度とすることが決定。

1884年の国際子午線会議で、グリニッジ子午線を経度0度と定める国際的合意が成立した。
ワシントンD.C.で開催された国際子午線会議には25か国が参加し、世界の経度基準を統一する議論が行われた。会議の決議により、イギリスのグリニッジ天文台を通る子午線が経度0度に採用され、航海や地図製作の標準化が図られた。これにより時刻や航路の表記が国際的に整備され、グリニッジ標準時(GMT)への道が開かれた。一部の国は直ちに受け入れなかったものの、最終的に各国が段階的に新基準へ移行した。現代の世界時刻制度の原点となる歴史的合意である。
1884年 国際子午線会議 グリニッジ天文台 子午線 グリニッジ子午線 経度0度
1903年

現行メジャーリーグの第一回ワールドシリーズで、ボストン・アメリカンズ(のちのレッドソックス)が優勝。

1903年、メジャーリーグ初のワールドシリーズでボストン・アメリカンズが初優勝を飾った。
1903年10月に行われた第一回ワールドシリーズはボストン・アメリカンズ(現レッドソックス)とピッツバーグ・パイレーツの対戦で実施された。シリーズは9試合制で行われ、ボストンが5勝3敗1引分けの成績で勝利を収めた。リーグ制覇を巡る最初の公式戦として大きな注目を集め、その後のMLBの伝統を築いた。選手たちの奮闘は興行的成功を収め、米国で野球人気を確立する契機となった。試合は両チームの投手戦と打撃戦が入り混じり、観衆に強烈な印象を残した。
1903年 メジャーリーグ 第一回ワールドシリーズ レッドソックス
1905年

上田敏の訳詩集『海潮音』が刊行。

1905年に上田敏の訳詩集『海潮音』が刊行され、日本に近代詩の潮流をもたらした。
上田敏はスウェーデンやドイツの古典詩を日本語に翻訳し、現代的なリズム感を持つ詩集として『海潮音』をまとめた。訳詩にはエモーショナルな言葉遣いと繊細な情緒表現が評価され、当時の詩壇に衝撃を与えた。日本語詩の革新を目指した試みとして、後進の詩人たちに大きな影響を与え、モダニズム詩の礎の一つと見なされている。出版後も詩的実験のモデルとして繰り返し引用され、日本文学史上における重要な一冊として位置づけられている。独自の翻訳理念は日本語表現の可能性を広げ、詩の近代化に貢献した。
1905年 上田敏 海潮音
1911年

徳川好敏大尉らが作った国産飛行機第1号機「臨時軍用気球研究会式1号」(会式1号)が初飛行に成功。

徳川好敏大尉らによる国産初の飛行機「臨時軍用気球研究会式1号」が初飛行に成功した出来事。
1911年10月13日、徳川好敏大尉らが設計・製造した国産飛行機第1号機「臨時軍用気球研究会式1号」が初飛行に成功しました。会式1号は日本初の国産飛行機として開発され、安定した飛行性能を示した点で大きな注目を集めました。陸軍技術本部の支援のもと製作され、以後の日本航空機開発に道を開く重要な成果となりました。初飛行の成功は日本の航空技術向上と自立への第一歩を象徴する歴史的事件です。この成功は後に航空産業の基盤形成にも寄与しました。
1911年 徳川好敏 臨時軍用気球研究会式1号
1923年

トルコがイスタンブールからアンカラに遷都。

トルコが首都をイスタンブールからアンカラに正式に移転した出来事。
1923年10月13日、トルコ共和国は首都を歴史的都市イスタンブールから内陸部のアンカラに遷都しました。この遷都はムスタファ・ケマル・アタテュルクが行った改革の一環であり、新国家の近代化と中央集権体制の確立を図る目的がありました。アンカラは戦略的に中央に位置し、安全保障上も有利と判断されました。遷都後は都市開発が進み、政治・行政機能が集中する新たな首都として発展していきました。現在のトルコ政治の中心としての基盤が築かれた重要な一歩でした。
1923年 トルコ イスタンブール アンカラ 遷都