1968年
第19回夏季オリンピック・メキシコシティオリンピックが開幕。
1968年10月12日、第19回夏季オリンピックがメキシコシティで開幕しました。
1968年10月12日、メキシコシティで第19回夏季オリンピックが開幕し、123か国から5000人以上の選手が参加しました。
標高2240メートルの高地開催は大会史上初であり、記録に影響を与えると注目されました。
短距離走での世界記録樹立や、黒人差別に抗議する「ブラックパワー・サリュート」など政治的・社会的な側面も強調されました。
女子3000メートルの採用やLSDなど薬物実験問題など、多くの話題を含む大会となりました。
大会閉幕は10月27日で、数々の名シーンが後世に語り継がれています。
夏季オリンピック
メキシコシティオリンピック
1974年
読売ジャイアンツの長嶋茂雄が現役引退を表明。
1974年10月12日、読売ジャイアンツのスーパースター長嶋茂雄が現役引退を発表しました。
1974年10月12日、プロ野球界のレジェンド、読売ジャイアンツの長嶋茂雄が現役引退を記者会見で表明しました。
自身の成績3084安打、444本塁打は当時のセ・リーグ記録並びにチームの功績を物語るものでした。
引退後は監督としてチームを率い、1981年には日本一に導くなど指導者としても名を残しました。
この発表はNPB界に大きな衝撃を与え、多くのファンが球場に駆けつけて別れを惜しみました。
長嶋の引退は一つの時代の終わりを象徴し、その後も「ミスタージャイアンツ」として語り継がれています。
1974年
読売ジャイアンツ
長嶋茂雄
1978年
国土計画がプロ野球球団クラウンライターライオンズを買収し、本拠地を福岡から埼玉・所沢へ移転することを発表。翌シーズンから西武ライオンズとなる。
1978年10月12日、国土計画がプロ野球チームを買収し、西武ライオンズ誕生を発表しました。
1978年10月12日、不動産開発会社の国土計画が福岡を本拠地とするクラウンライターライオンズを買収し、埼玉県所沢への本拠地移転を発表しました。
これによりチーム名を西武ライオンズに変更し、翌1979年シーズンから新体制でプレーを開始することとなりました。
移転はプロ野球史上初めての本拠地変更の一つとされ、所沢にはメットライフドーム(当時西武球場)が建設されました。
西武球団はオリックスやダイエーなどとともにパ・リーグの人気を牽引し、黄金期を築く礎となりました。
買収と移転は地域経済の活性化にもつながり、プロスポーツのビジネスモデル転換を示す出来事でした。
1978年
国土計画
福岡
埼玉・所沢
西武ライオンズ
2006年
北海道日本ハムファイターズがプレーオフ第二ステージで福岡ソフトバンクホークスを破り25年ぶりの優勝を果たす。
2006年10月12日、日本ハムファイターズがプレーオフ第二ステージを制し、25年ぶりの優勝を果たしました。
北海道日本ハムファイターズはプレーオフ第二ステージで福岡ソフトバンクホークスを3勝1敗で退けました。
優勝は球団創設以来25年ぶりで、北海道移転後としては初の日本シリーズ進出を決めました。
当時のエース投手や主力選手が活躍し、地元ファンの期待に応えました。
この勝利は北海道のプロ野球人気を一層高め、地域活性化にも寄与しました。
シリーズ後、チームは大きな注目を集め、その後の成績向上へつながりました。
北海道日本ハムファイターズ
プレーオフ
福岡ソフトバンクホークス
2024年
日本の大学生五人(青山学院大学、中央大学、東京大学、立教大学(立教大学は二人))がヒマラヤ山脈の未踏峰プンギ峰への世界初登頂に成功する。
2024年10月12日、日本の大学生5名がヒマラヤ山脈の未踏峰プンギ峰への世界初登頂に成功した。
この登頂は青山学院大学、中央大学、東京大学、立教大学から集まった5名の学生で構成されたチームによるものです。
プンギ峰はヒマラヤ山脈に位置する未踏峰であり、険しい地形と予測困難な気象条件が特徴です。
学生たちは数か月にわたる事前準備と厳しい訓練を重ね、標高差や酸素不足と格闘しながら登攀を続けました。
10月12日、彼らは世界で初めてプンギ峰の頂上に到達し、前人未到の業績を達成しました。
この偉業は国内外のメディアで大きく報じられ、日本の若手登山界に新たな歴史を刻みました。
今後の探検活動や学生主体の登山プロジェクトに大きな影響を与える成果となりました。
2024年
青山学院大学
中央大学
東京大学
立教大学
ヒマラヤ山脈
プンギ峰