1822年
ペドロ1世が初代ブラジル皇帝に即位。
1822年10月12日、ペドロ1世が初代ブラジル皇帝に即位し、ブラジル皇帝制の礎を築きました。
ポルトガル王室の一員としてブラジルに派遣されていたペドロが独立運動を指導しました。同年9月7日にブラジル独立宣言を行った後、皇帝として即位を果たしました。即位は帝国憲法制定への布石となり、君主制下での近代国家建設を始動させました。ペドロ1世の統治は政治的混乱や反乱と隣り合わせでしたが、文化振興も推進しました。1840年に退位し、ポルトガル王位を継承した後も南米の歴史に影響を残しました。ブラジル帝国時代は1860年代まで続き、共和国移行へとつながりました。
1822年
ペドロ1世
ブラジル皇帝
慶応4年8月27日
明治天皇の即位の礼を挙行。
1868年10月12日(慶応4年8月27日)、明治天皇の即位の礼が挙行され、日本の近代国家の始まりを象徴しました。
明治維新後、新政府が天皇中心の統治体制を内外に示すために計画された式典です。京都御所で行われ、西欧諸国の国王即位式を参考に執り行われました。天皇は神道と儀礼を融合させた新たな国家儀礼の象徴となりました。即位の礼を機に天皇親政が宣言され、江戸幕府以来の封建体系から転換しました。同時に五箇条の御誓文など近代憲法制定への動きが加速しました。日本はこの後、中央集権的な近代国家としての歩みを本格化させました。
1868年
慶応
8月27日
明治天皇
即位の礼
1881年
日本で1890年に国会を開設する旨の「国会開設の詔」を発布。
1881年10月12日、日本政府が1890年に国会を開設する旨を定めた「国会開設の詔」を発布しました。
明治時代中期における議会政治導入への第一歩となった詔勅です。明治政府は欧米列強に対抗するため近代的政治体制の整備を急いでいました。詔書では「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と国会設置を明記しました。この詔に基づき、憲法制定と立法機関の準備が進められました。1890年に大日本帝国憲法と帝国議会が発足し、立憲政治が始動しました。国会開設は日本の政治改革と近代化の象徴的出来事となりました。
1881年
1890年
国会
国会開設の詔
1901年
米大統領セオドア・ルーズベルトが大統領府を正式にホワイトハウスと命名。
1901年10月12日、米大統領セオドア・ルーズベルトが大統領官邸を正式に「ホワイトハウス」と命名しました。
当時は「大統領府(Executive Mansion)」と呼ばれていた建物の改称を決定したものです。改称は白い外壁にちなんだ通称を公式名称としたものです。ルーズベルト大統領は改築計画を進める一環として命名を実施しました。「ホワイトハウス」は以来、アメリカ合衆国政府の象徴となりました。建物自体は1800年にジョン・アダムズ大統領が最初に居住して以来の歴史を持ちます。現在では観光名所としても広く知られるようになりました。
1901年
セオドア・ルーズベルト
大統領府
ホワイトハウス
1940年
大政翼賛会が発足。
Japan's Imperial Rule Assistance Association was established in 1940 to create a unified political movement supporting the wartime government.
On October 12, 1940, Japanese Prime Minister Fumimaro Konoe announced the formation of the Imperial Rule Assistance Association (Taisei Yokusankai). Designed as a single-party political movement, it aimed to consolidate all political parties and civic groups under a unified platform in support of Japan's war efforts. The association replaced existing political parties and promoted total mobilization of the population for national objectives. It played a central role in disseminating government propaganda, controlling public opinion, and organizing mass rallies. Membership became virtually compulsory for adult citizens, marking an end to political pluralism in prewar Japan. The Taisei Yokusankai remained influential until Japan's defeat in 1945 and the subsequent Allied occupation dissolved it as part of democratization reforms.
1940年
大政翼賛会
1943年
第二次世界大戦: 日本政府が「教育ニ関スル戦時非常措置方策」を決定。理工系・教員養成系以外の学生の徴兵猶予を停止。(学徒出陣)
The Japanese government suspended military draft deferments for most university students in 1943, paving the way for large-scale student mobilization.
On October 12, 1943, during World War II, the Japanese government enacted the 'Wartime Emergency Measure for Education,' halting draft deferments for university students outside of science, engineering, and teacher training courses. The policy shift aimed to bolster military manpower by demanding service from a broader segment of the educated population. Dubbed 'Gakuto Shutsujin' (student mobilization), the measure led to thousands of students leaving campuses for front-line duties or support roles. The sudden departure disrupted academic life and strained educational institutions already affected by wartime shortages. Many universities repurposed facilities for military training and production. The decision underscored Japan's all-encompassing war mobilization and had long-lasting effects on postwar higher education.
1943年
第二次世界大戦
教育ニ関スル戦時非常措置方策
学徒出陣
1960年
浅沼稲次郎暗殺事件。日比谷公会堂で行われていた三党立会演説会で右翼青年の山口二矢が浅沼稲次郎日本社会党委員長を刺殺。
1960年10月12日、日比谷公会堂で社会党委員長の浅沼稲次郎が暗殺されました。
1960年10月12日、東京・日比谷公会堂で行われた三党立会演説会にて、右翼青年の山口二矢が日本社会党委員長の浅沼稲次郎を襲撃・刺殺しました。
この事件は戦後最大級の政治暗殺事件とされ、当時の国内政治に大きな衝撃を与えました。
犯人の山口は直前まで演説を聞くふりをして凶器を隠し持っており、突如として刃物を取り出しました。
浅沼は即死状態となり、会場は混乱に陥りましたが、山口はその場で逮捕されました。
この暗殺事件を契機に、政治演説会の警備体制強化や政治的暴力への警戒が社会的に叫ばれるようになりました。
1960年
浅沼稲次郎暗殺事件
日比谷公会堂
山口二矢
浅沼稲次郎
1960年
靴叩き事件。国連総会で、ソ連が提出した「植民地主義非難決議」に反対するフィリピンのロレンソ・スムロンの演説を、ニキータ・フルシチョフが靴で机を叩いて妨害。
1960年10月12日、国連総会でソ連のフルシチョフ首相が靴で机を叩いて抗議しました。
1960年10月12日、ニューヨークの国連総会でソ連代表ニキータ・フルシチョフがフィリピン代表ロレンソ・スムロンの演説中、靴を脱いで机を叩きながら抗議しました。
ロレンソがソ連提案の「植民地主義非難決議」に反対を表明したことに激怒したフルシチョフが、即興で行動に出たと言われています。
この「靴叩き事件」は冷戦下の国際政治の緊張を象徴するエピソードとして後世に語り継がれています。
会場は一時騒然とし、国連の威信にかかわる問題として大きな波紋を呼びました。
事件後、フルシチョフは謝罪せず、国際社会の関心を一層高めました。
靴叩き事件
国連総会
ロレンソ・スムロン
ニキータ・フルシチョフ
1968年
赤道ギニアがスペインから独立。
1968年10月12日、赤道ギニアがスペインからの独立を正式に達成しました。
1968年10月12日、赤道ギニアは長期にわたるスペインの植民地支配から独立し、アフリカ大陸で54番目の独立国となりました。
独立後はフェリシアーノ・メキョ・エビアが初代大統領に就任しましたが、政治的混乱や独裁体制へ移行していきました。
独立式典はマラボで盛大に行われ、多くのアフリカ諸国の代表や国際的な来賓が出席しました。
天然資源が豊富であった一方、国内のインフラ整備や教育水準向上は遅れをとり、独立後の課題とされました。
この日を記念して毎年10月12日は赤道ギニアの国慶日として祝われています。
1968年
赤道ギニア
スペイン
1976年
最高裁が、財田川事件で死刑判決を受けた男性の再審請求を認め、審議を高松地裁に差戻し。1984年に無罪判決。
1976年10月12日、最高裁が財田川事件の死刑囚の再審を認め、高松地裁に差し戻しました。
1976年10月12日、最高裁判所が財田川事件で死刑判決を受けた被告の再審請求を認め、審理を高松地方裁判所に差し戻す決定を行いました。
財田川事件は1952年に発生した闇市襲撃事件で、多数の死傷者を出した凶悪事件として当時話題となりました。
再審決定後、高松地裁では証拠調べが再開され、1984年に被告は無罪判決を受けてから32年間の拘置を解かれました。
この裁判は日本の再審制度や死刑制度をめぐる議論に大きな影響を与え、冤罪防止への制度見直しが促されました。
最高裁の判断は法治主義と人権保障の観点から評価され、後の冤罪救済における先駆的事例とされています。
1976年
最高裁
財田川事件
高松地裁
1984年
1983年
ロッキード事件裁判(丸紅ルート)の第一審で、元内閣総理大臣の田中角栄に懲役4年・追徴金5億円の有罪判決。
ロッキード事件の第一審で田中角栄元内閣総理大臣に懲役4年・追徴金5億円の有罪判決が言い渡された。
ロッキード事件は、アメリカのロッキード社が航空機売り込みのために政治家に賄賂を贈った事件である。
1983年10月12日、丸紅ルートを通じて資金を受け取ったとして、田中角栄元首相に懲役4年・追徴金5億円の有罪判決が言い渡された。
この第一審判決は、日本の戦後政治史上初めて元首相の有罪を確定させ、政界に大きな衝撃を与えた。
被告側は控訴したものの、後の裁判でも有罪が維持され、政治家の贈収賄問題に対する国民の関心を高めた。
事件は政治倫理や政官癒着への批判を呼び、透明性向上や政治改革の機運を高める契機となった。
1983年
ロッキード事件
丸紅
内閣総理大臣
田中角栄
1999年
パキスタンでパルヴェーズ・ムシャラフ陸軍参謀長が無血クーデター。
1999年10月12日、パルヴェーズ・ムシャラフ陸軍参謀長が無血クーデターを実行し、権力を掌握した。
それまでの民政は停止され、軍政への移行が始まった。
ムシャラフは1998年に陸軍参謀長に就任後、1999年10月までに軍内の支持を固めていた。
10月12日未明、航空機による主要都市への移動を封じたうえで、首相ナワーズ・シャリーフ政権を掌握し、内閣を解散させた。
無血クーデターだったため大規模な衝突は起こらなかったが、憲法は停止され、非常事態宣言が発令された。
ムシャラフは暫定大統領代行を務め、その後2001年には正式に大統領に就任した。
この事件はパキスタンの政軍関係における大きな転換点となり、以降数年間は軍政下での統治が続くこととなった。
1999年
パキスタン
パルヴェーズ・ムシャラフ