1727年

ジョージ2世がイギリス国王に即位。

ハノーヴァー選帝侯として知られるジョージ2世がイギリス王位を継承した日。
ジョージ2世は1683年にハノーヴァーで生まれ、父ジョージ1世の死去を受けて1727年10月11日にイギリス国王に即位しました。在位中はハノーヴァー朝の基盤を強化し、議会との緊張関係の中で政治的影響力を行使しました。また、欧州大陸の戦争にも関与し、オーストリア継承戦争や七年戦争を通じてイギリスの国際的地位を高めました。1751年に王太子フレデリックが亡くなった後は宮廷生活を重視し、その華やかな宮廷文化が広く知られています。
1727年 ジョージ2世 イギリス
1776年

アメリカ独立戦争: バルカー島の戦い。

アメリカ独立戦争中、ベネディクト・アーノルド率いる小艦隊が英艦隊とシャンプラン湖で交戦した海戦。
1776年10月11日、アメリカ独立軍の指揮官ベネディクト・アーノルドは自作の艦隊を伴い、シャンプラン湖のバルカー島付近でイギリス艦隊と遭遇しました。数で劣るにもかかわらず巧妙な陣形で攻撃を仕掛け、一夜にわたる戦闘を展開しました。最終的には戦術的敗北となり多数の艦艇を失いましたが、英軍の前進を数日間遅らせることで大陸軍に重要な時間を稼ぎました。この戦いは独立戦争の転換点とはならなかったものの、アメリカ軍の勇気と戦術的工夫を象徴するエピソードとして知られています。
1776年 アメリカ独立戦争 バルカー島の戦い
1787年

(天明7年9月1日) 井伊直幸が大老を辞任。

江戸幕府の老中格大老・井伊直幸が職務を辞した日。
1787年(天明7年)9月1日、老中第一の職であった大老井伊直幸が政治改革を巡る対立から辞表を提出し、大老職を退きました。この辞任は松平定信による寛政の改革の一環として公議政体や倹約令の実施をめぐる権力争いが背景にあります。井伊直幸はこれまでの財政政策や藩政改革で知られていましたが、幕府内部の意見対立によりその地位を維持できなくなりました。以後、幕府の改革はさらに進められ、松平定信が主導する寛政の改革が本格化しました。この出来事は江戸幕府の権力構造変化を象徴する事件として歴史に刻まれています。
1787年 井伊直幸 大老
1852年

オーストラリア最古の大学であるシドニー大学が開学。

オーストラリアで最も古い大学、シドニー大学が開学した日。
1852年10月11日、オーストラリア初の大学として設立されたシドニー大学が正式に開学しました。英国の影響下で設立されたこの大学は、法律、医学、文学など幅広い学術分野を提供し、植民地社会の知的基盤を築きました。開学当初の学生数はわずか24名でしたが、徐々に規模を拡大。学術研究の中心としてだけでなく、オーストラリアにおける教育制度の礎となりました。その後も世界的に高い評価を受ける研究成果を生み出し続けています。
1852年 オーストラリア シドニー大学
1865年

ジャマイカ事件。ジャマイカでポール・ボーグルと黒人200人以上が暴動。

ジャマイカで黒人解放を求めるモーラント・ベイ暴動が勃発した日。
1865年10月11日、ジャマイカのモーラント・ベイでバプテスト派の牧師ポール・ボーグルが率いる黒人農民と自治体役人との衝突から暴動が発生しました。ボーグルらは年金未払い、土地権問題、差別的税制などへの抗議として蜂起。暴動は鎮圧され、多数の参加者が処刑または懲役刑に処されました。この事件はイギリス植民地政府の厳しい対応が国内外から批判を浴び、人種関係や植民地政策の改革を促す契機となりました。
1865年 ジャマイカ事件 ポール・ボーグル
1871年

ハインリヒ・シュリーマンが古代都市トロイアの発掘に着手。

古代都市トロイアを発掘調査するため、シュリーマンが作業を開始した日。
1871年10月11日、ドイツの古典考古学者ハインリヒ・シュリーマンがトルコ南西部のヒサルリク丘で古代都市トロイアの発掘を開始しました。ホメーロスの『イーリアス』に描かれた都市に興味を抱いたシュリーマンは、自費で大規模な調査隊を編成。砂漠化と地層の侵食を受けながらも、貴重な土器や宝飾品を発見しました。これらの成果は史実としてのトロイア存在の証拠となり、考古学と古典研究に新たな地平を開きました。一方で発掘方法の粗雑さは後に批判を招くことになりました。
1871年 ハインリヒ・シュリーマン トロイア
1874年

新橋駅近くで横浜発の列車が脱線。日本初の鉄道事故。

日本初の鉄道事故として、新橋駅近くで列車が脱線した日。
1874年10月11日、新橋駅から横浜へ向かう列車が線路から脱線し、乗客数名が負傷する日本初の鉄道事故が発生しました。事故原因は初期の軌道整備不良と車輪構造の問題とされ、急遽安全対策の見直しが行われました。この出来事は鉄道技術の発展とともに、運輸政策や保守基準の整備を進めるきっかけとなりました。また、一般市民の鉄道への信頼を損ねないための広報体制構築にも影響を与えました。
1874年 新橋駅 横浜 鉄道事故
1881年

御前会議で立憲政体方針・開拓使官有物払い下げ中止・大隈重信らの参議罷免が決定(明治十四年の政変)。

明治十四年の政変で大隈重信ら参議が罷免された御前会議が開かれた日。
1881年10月11日、天皇の前で討議を行う御前会議において、立憲政体の方針決定と開拓使官有物払い下げ中止が決定されました。同時に大隈重信ら憲政派参議の罷免が承認され、明治十四年の政変と呼ばれる事態が生じました。これは政府内で進められていた官有物の民間払い下げを巡る汚職疑惑や、立憲政治導入を求める動きを抑制する目的がありました。結果として憲政派は権力基盤を失い、政府の中央集権化が一層進む転機となりました。
1881年 御前会議 開拓使 大隈重信 参議 明治十四年の政変
1899年

第二次ボーア戦争が始まる。

イギリス帝国と南アフリカのボーア共和国との間で第二次ボーア戦争が開戦した日。
1899年10月11日、オレンジ自由国とトランスヴァール共和国がイギリスに宣戦布告し、第二次ボーア戦争が正式に始まりました。この戦争は南アフリカのダイヤモンドや金鉱を巡る資源争奪と帝国主義の衝突が背景にあります。ボーア兵士のゲリラ戦術に対し、英国軍は包囲作戦や強制収容所政策で対抗。戦況は数年にわたり膠着状態となり、多くの民間人が犠牲になりました。最終的に1902年にイギリス勝利で終結し、南アフリカ連邦の成立への道を開きました。
1899年 第二次ボーア戦争
1900年

後に英国首相となるウィンストン・チャーチルが庶民院議員に初当選。

後の英国首相ウィンストン・チャーチルが庶民院議員に初当選した日。
1900年10月11日、保守党公認候補としてマンチェスター北東選挙区から出馬したウィンストン・チャーチルが初めて庶民院議員に当選しました。当時25歳の若き政治家として議会に加わったチャーチルは、後に海軍大臣や首相として重要な役割を果たします。この選挙勝利は彼の政治家人生の出発点となり、演説力と行動力で次々と要職を歴任する道を開きました。その後の長い政歴を通じてチャーチルは20世紀英国政治の中心人物となりました。
1900年 英国 首相 ウィンストン・チャーチル 庶民院
1909年

三井合名会社設立。

三井財閥の中心企業の一つ、三井合名会社が設立されました。
三井合名会社は三井財閥における主要な商社として、1909年10月11日に設立されました。 設立当初から国内外の貿易や金融事業を展開し、日本の近代化に大きく貢献しました。 三井グループは江戸時代に豪商・三井家が創業した歴史ある企業体で、戦前戦後を通じて経済界を牽引しました。 合名会社としての組織形態を採用し、株主責任を無限責任とした点が特徴的です。 その後、社名を改めながらも企業統合を重ね、現在の三井物産へと発展していきました。
1909年 三井合名会社
1931年

ドイツでナチス・国家人民党・鉄兜団など右翼保守勢力が「ハルツブルク戦線」を結成。

ナチス党などドイツの右翼保守勢力が連携し、ハルツブルク戦線を結成しました。
ハルツブルク戦線は1931年10月11日にドイツで結成された右翼保守勢力の連合体です。 ナチス党を中心に、国家人民党(DNVP)や鉄兜団(シュタールヘルム団)などが参加しました。 当時のワイマール共和政下で共産党の台頭を警戒し、共産主義に対抗する目的で協力体制を築きました。 結成声明はハルツブルク城で発表され、その名を冠した政治的連携が進められました。 しかし、内部の路線対立や戦略の不一致から短期間で解体し、後のナチス政権掌握に影響を与えました。
1931年 ドイツ ナチス 国家人民党 鉄兜団 ハルツブルク戦線