680年
カルバラーの戦い。
680年にイラク北部カルバラーで起きた宗教的・政治的対立による戦い。
西暦680年、イマーム・フサインらがウマイヤ朝の権威に抗してカルバラー平原で蜂起した。
戦闘は数百の兵力で行われ、圧倒的多数を誇るウマイヤ朝軍が勝利。
フサインは戦死し、シーア派イスラム教徒の殉教伝承が形成された。
この戦いはシーア派とスンニ派の分裂を決定づけ、後世のイスラム世界に大きな影響を与えた。
以後、シーア派の宗教文化や政治運動の象徴となった。
680年
カルバラーの戦い
732年
トゥール・ポワティエ間の戦い。
732年、フランク王国軍がイスラム勢力をポワティエ近郊で撃退。
西暦732年10月10日、フランク王ピピンの子チャールズ・マルテル率いる軍がイスラム勢力と対峙した。
戦闘はトゥールとポワティエの間の平野で繰り広げられた。
フランク軍の堅固な防御と長槍隊の突撃が決定打となり、大勝利。
これによりイスラム勢力のヨーロッパ西進は一時阻止され、チャールズの名声は高まった。
ヨーロッパ世界の運命を左右した転換点とされている。
732年
トゥール・ポワティエ間の戦い
1916年
第一次世界大戦:第八次イゾンツォの戦い。
1916年、イタリアとオーストリア間で行われた第八次イゾンツォの戦い。
第一次世界大戦のイタリア戦線で、1916年10月10日に第八次イゾンツォの戦いが開始。
イタリア軍は指揮官カドルナのもとイゾンツォ川流域を攻撃し、重要拠点ゴリツィア奪回を目指した。
戦闘は激しい山岳戦となり、両軍とも大きな犠牲を出した。
イタリア軍は一時的に前進を果たすものの、戦線は膠着状態に陥った。
北イタリアの戦線を長期化させる一因となった。
1916年
第一次世界大戦
第八次イゾンツォの戦い
1944年
第二次世界大戦:米軍が沖縄本島を初空襲、那覇市の9割を焼失し死者548人。(十・十空襲)
1944年のこの日、米軍による沖縄本島への初空襲(十・十空襲)が行われ、那覇市の大部分が破壊されました。
1944年10月10日、米軍第20空軍による沖縄本島初の本格的な空襲が実施されました。
那覇市中心部を標的とし、約9割の建物が焼失し、市民548人が犠牲となりました。
通称「十・十空襲」と呼ばれ、沖縄戦への序章とも言われる激しい攻撃でした。
住民は防空壕に避難を強いられ、厳しい戦火に晒されました。
以降の沖縄戦では地上戦も含め、島全域が激戦地となりました。
1944年
第二次世界大戦
米
沖縄本島
那覇市
十・十空襲
1956年
香港で双十暴動が勃発。
香港で中国国民党支持者らによる双十暴動が勃発しました。
1956年10月10日、香港島および九龍地区で中国国民党支持者と中国共産党系の住民の間で衝突が発生し、双十暴動が勃発しました。国慶節(双十節)を祝う国民党支持者のデモが抗議に発展し、騒乱と消火活動、逮捕が相次ぎました。暴動は数日間にわたり続き、爆発物の使用や放火も発生し、死傷者が出る事態となりました。この事件は香港の治安情勢に大きな衝撃を与え、英国植民地政府による治安対策強化と情報統制を促す契機となりました。
1956年
香港
双十暴動
1970年
ケベック州労働相ピエール・ラポルトがケベック解放戦線のメンバーに誘拐される。同月17日遺体で発見。
1970年、ケベック州労働相ピエール・ラポルトがケベック解放戦線に誘拐され、後に遺体で発見された事件です。
ケベック解放戦線(FLQ)はケベック独立を目指す武装闘争組織で、1960年代末から活動を激化させました。
1970年10月10日、労働相ピエール・ラポルトが州議会から自宅へ帰る途中で攫われました。
政府は治安維持法を適用し、非常事態宣言を行う事態となりました。
同月17日にラポルトの遺体が発見され、カナダ社会に大きな衝撃を与えました。
この事件は「オクティーバー・クライシス」と呼ばれ、政治的緊張を高めました。
ケベック州
ピエール・ラポルト
英語版
ケベック解放戦線