1962年
ボクシングのファイティング原田がタイのポーン・キングピッチを11回KOで破り、世界フライ級チャンピオンに。日本人では2人目で、世界フライ級では史上最年少。
ファイティング原田が世界フライ級王座を獲得しました。
1962年10月10日、ボクサー・ファイティング原田がタイのポーン・キングピッチを11回KOで下し、世界フライ級チャンピオンに輝きました。日本人ボクサーとしては当時2人目の快挙であり、史上最年少のフライ級王者誕生となりました。攻撃的なフットワークと強力な左フックで王座を奪取し、日本ボクシング界に新たな歴史を刻みました。この勝利は国内のボクシング人気を高め、後進の育成にも大きく貢献しました。
1962年
ボクシング
ファイティング原田
ポーン・キングピッチ
KO
フライ級
1964年
第18回夏季オリンピック・東京大会が開幕(10月24日まで)。
第18回夏季オリンピック・東京大会が開幕しました。
1964年10月10日、アジア初のオリンピックとして第18回夏季オリンピック・東京大会が開幕しました。開会式には天皇皇后両陛下が出席し、国内外から選手約5000人、観客約700万人が集いました。新幹線の開業や首都高速道路の整備など、開催に合わせたインフラ整備が進められ、日本の戦後復興と高度経済成長を象徴しました。競技は24日まで行われ、日本選手団は金メダル16個を含む合計29個のメダルを獲得し、国内のスポーツ熱を一層高めました。
1964年
夏季オリンピック
東京大会
10月24日
1969年
巨人の金田正一が日本プロ野球史上初の400勝を達成。
1969年、読売ジャイアンツの投手・金田正一がプロ野球史上初となる通算400勝を達成しました。
金田正一は1950年代から活躍した左腕投手で、読売ジャイアンツ在籍時に数々の記録を樹立しました。
1969年10月10日の試合で400勝目を挙げ、日本プロ野球史上初の偉業となりました。
その後も通算400勝4000奪三振を超えるなど驚異的な成績を残しました。
400勝という記録は長らく不滅とされ、多くの投手の目標となっています。
金田はその後野球殿堂入りを果たし、レジェンドとして語り継がれています。
1969年
巨人
金田正一
日本プロ野球
1974年
蔵前国技館でアントニオ猪木がバックドロップで大木金太郎を破り、NWF世界ヘビー級王座防衛。
1974年、蔵前国技館でアントニオ猪木が大木金太郎をバックドロップで破り、NWF世界ヘビー級王座を防衛しました。
プロレスラーのアントニオ猪木は国内外で高い人気を誇るレスラーでした。
1974年10月10日、蔵前国技館で大木金太郎を相手にタイトルマッチを行いました。
試合終盤に必殺技のバックドロップを決めて勝利し、NWF世界ヘビー級王座を防衛しました。
観客は手に汗握る戦いに熱狂し、猪木のカリスマ性が改めて評価されました。
この試合はプロレス史に残る名勝負として語り継がれています。
1974年
蔵前国技館
アントニオ猪木
バックドロップ
大木金太郎
NWF世界ヘビー級王座
1976年
具志堅用高がファン・ホセ・グスマンを破り、世界ジュニアフライ級王座を獲得。
具志堅用高がメキシコのファン・ホセ・グスマンを破り、世界ジュニアフライ級の王座を獲得しました。
1976年10月10日、沖縄県出身の具志堅用高がメキシコのファン・ホセ・グスマンと対戦しました。
具志堅は巧みなボクシング技術と強力なジャブを駆使し、判定で勝利を収めました。
これにより、彼は世界ジュニアフライ級のベルトを初めて手にしました。
当時の日本人世界王者は極めて少なく、この快挙は国内のボクシング人気をさらに高めました。
その後、具志堅は9度の防衛を果たすなど、日本ボクシング史に残る偉業を重ねました。
この試合は彼のキャリアを決定づける重要な一戦として語り継がれています。
1976年
具志堅用高
ファン・ホセ・グスマン
ジュニアフライ級
1990年
近鉄の野茂英雄がシーズン2桁奪三振試合21回の日本記録を達成。
近鉄バファローズの野茂英雄がシーズン中21試合で二桁奪三振を達成し、日本記録を樹立しました。
1990年10月10日、近鉄バファローズの新人投手・野茂英雄が今シーズン21試合で二桁奪三振を記録し、日本プロ野球新記録を樹立しました。
彼は独特のトルネード投法を武器に、高速スライダーやフォークボールで打者を翻弄しました。
従来の記録を大きく上回るペースで三振を量産し、球界に衝撃を与えました。
その投球スタイルは国内のみならず、後のメジャーリーグ挑戦への足がかりとなりました。
野茂の活躍は日本人投手への評価を一変させ、多くの若手投手に影響を与えました。
現在でも彼の記録は語り継がれ、NPB屈指の名投手として称えられています。
1990年
近鉄
野茂英雄