貞享元年8月28日

若年寄稲葉正休による大老堀田正俊刺殺事件

江戸幕府の若年寄である稲葉正休が大老堀田正俊を暗殺した事件です。
1684年10月7日(貞享元年8月28日)、若年寄の稲葉正休が幕府の大老堀田正俊を襲撃しました。 堀田は幕政の中枢を担う重職であり、その暗殺は幕府内に大きな動揺をもたらしました。 事件後、稲葉正休は即日捕縛され厳罰に処されたと伝えられています。 この襲撃は幕政における権力抗争や藩閥間の対立が表面化した象徴的事例とされています。 当時の政治体制や責任の在り方を考察する上で注目される事件です。
1684年 貞享 8月28日 若年寄 稲葉正休 大老 堀田正俊
1763年

イギリス王ジョージ3世が1763年宣言を発する。

ジョージ3世が北アメリカ植民地政策を定める1763年宣言を発布した日です。
1763年10月7日、イギリス王ジョージ3世は七年戦争後の植民地統治方針を定める宣言を発しました。 この宣言ではアパラチア山脈以西での植民地開拓を禁止し、先住民との関係安定を図る内容が盛り込まれています。 北アメリカの植民地住民には反発を招き、後のアメリカ独立運動の一因ともなりました。 宣言は王権強化と植民地管理の両立をめざした政策文書として注目されます。 当時の外交・行政のあり方を考える上で重要な史料です。
1763年 イギリス ジョージ3世 1763年宣言
1840年

ウィレム1世の譲位に伴いウィレム2世がオランダ王に即位。

ウィレム1世が退位し、その子ウィレム2世がオランダ国王に即位した日です。
1840年10月7日、オランダ王ウィレム1世は国政運営への批判や健康上の理由から退位を表明しました。 同日、長子ウィレム2世が正式に国王の座を継承し即位式が行われました。 ウィレム2世の治世は内政改革や立憲君主制への移行がテーマとなり、近代オランダの礎を築きました。 王制と議会の関係を見直す動きが活発化し、政治体制の模索が続きました。 当時の欧州政治と中欧勢力との関係に与えた影響も注目されます。
1840年 ウィレム1世 ウィレム2世 オランダ
1879年

ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国が独墺同盟を締結。

ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国が相互防衛を目的とする独墺同盟を結んだ日です。
1879年10月7日、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国は二国間の秘密同盟である独墺同盟を締結しました。 この同盟はロシアに対抗し中央ヨーロッパにおける勢力バランスを維持する狙いがありました。 両国は相互防衛協定を結ぶことで、フランスやロシアとの対立を抑制しようとしました。 独墺同盟は後の三国同盟へと発展し、第一次世界大戦の枢軸陣営形成に影響を与えました。 19世紀末のヨーロッパ列強間の複雑な外交関係を象徴する条約です。
1879年 ドイツ帝国 オーストリア=ハンガリー帝国 独墺同盟
1888年

宮城(皇居)の明治宮殿が落成。

1888年、皇居の宮城内に明治宮殿が完成し、天皇の居所が新装されました。
1888年10月7日、皇居宮城地区に新たに明治宮殿が落成しました。 明治宮殿は明治天皇の居所および公務執務の場として建設された宮殿です。 設計には当時の西洋建築技術が取り入れられ、和と洋が融合した独特の様式を誇ります。 落成式では多くの官僚や外交使節が参列し、明治政府の近代化を象徴する祝賀行事が行われました。 残念ながら第二次大戦中の空襲で焼失し、現在の皇居は戦後に再建されたものです。
1888年 皇居 明治宮殿
1920年

ポーランドとリトアニアのあいだで「第3次休戦ライン」を定めたスヴァウキ合意が結ばれる。

1920年、ポーランドとリトアニア間で第3次休戦ラインを定めたスヴァウキ合意が結ばれ、紛争に一時的な区切りがもたらされました。
1920年10月7日、ポーランド第二共和国とリトアニア共和国はスヴァウキで休戦協定を締結しました。 この合意はポーランド・リトアニア戦争中の第三次休戦ラインを画定するものでした。 協定により両国軍の前線が明確化され、戦闘行為の一時停止が図られました。 しかし、条項の解釈を巡り緊張は続き、最終的な国境画定には至りませんでした。 この合意は後に国際連盟の介入を招き、バルト諸国周辺の国際問題として注目されました。
1920年 ポーランド リトアニア
1946年

衆議院で「大日本帝国憲法改正案」の貴族院回付案が可決され、憲法改正手続が完了。日本国憲法が成立。

1946年、衆議院で改正大日本帝国憲法案が可決され、憲法改正手続が完了し日本国憲法が成立しました。
1946年10月7日、衆議院本会議で大日本帝国憲法改正案の貴族院への回付案が可決されました。 これにより公布後の審議を経て新憲法施行の法的手続が完結し、連合国の意向が反映された日本国憲法が成立しました。 新憲法は天皇の地位を象徴的地位と位置づけ、基本的人権の尊重や平和主義を明記しました。 翌年5月3日に公布・施行され、日本の戦後民主主義と平和国家建設の礎となりました。 この手続は帝国憲法下での史上初の大規模な憲法改正として歴史的意義を持ちます。
1946年 衆議院 大日本帝国憲法 日本国憲法
1948年

昭和電工事件の道義的責任をとって芦田均内閣が総辞職。

1948年10月7日、昭和電工事件の責任を受けて芦田均内閣が総辞職しました。
戦後復興期に発生した昭和電工事件は、政府と大企業の癒着が問題視された政治スキャンダルでした。 当時の芦田均内閣は、道義的責任を問われ国会で追及を受ける中で、総辞職を決断。 内閣総辞職により政党間の対立が激化し、連立政権の不安定さが浮き彫りになりました。 この事件は日本政治史上、企業界と官界の関係性に警鐘を鳴らす出来事として知られています。 また、その後の政界再編や公職倫理規定の整備に影響を与えました。
1948年 昭和電工事件 芦田均内閣
1949年

ドイツ人民評議会でドイツ民主共和国憲法草案を可決。ドイツ民主共和国(東ドイツ)が発足。

1949年10月7日、ドイツ人民評議会が東ドイツ憲法草案を可決し、ドイツ民主共和国が発足しました。
第二次世界大戦後、占領地区に基づく東西分裂が進行した中で 東ベルリンに設立されたドイツ人民評議会が憲法草案を審議・可決。 これにより社会主義体制の東ドイツが正式に誕生。 国家としての機関設立や国旗・国歌の制定など基本的枠組みが確立。 冷戦構造の一翼を担い、西ドイツとの対立が深まった。 1990年の再統一まで約41年間にわたり存続しました。
1949年 ドイツ民主共和国憲法 ドイツ民主共和国
1960年

ナイジェリアが国連に加盟。

1960年、ナイジェリアが国連に正式加盟しました。
英領植民地から独立を果たしたナイジェリア連邦は1960年10月1日に独立。 その翌週、10月7日に国連総会で加盟承認を受ける。 加盟国数の増加はアフリカ諸国の国際的地位向上を示した。 独立直後の外交通商政策策定において、国連加盟は重要なステップとなった。 ナイジェリアは以降、アフリカ連合や英連邦でも積極的な役割を果たしている。
1960年 ナイジェリア 国連
1971年

オマーンが国連に加盟。

オマーンが国際連合に正式加盟し、国際社会への一層の参加を開始。中東地域の政治的地位が向上しました。
1971年10月7日、オマーン・スルタン国が国連総会で加盟を承認され、正式に国際連合に加盟しました。 これにより、オマーンは独立と主権を国際社会で認められ、中東地域の国際的立場が強化されました。 加盟当時のオマーンはようやく近代国家としての体制整備を進めており、加盟はその成果を示すものでした。 同国は加盟後、国連を通じた開発援助や外交関係の拡大を図り、国際協調路線を推進しました。 現在のオマーン外交の基礎となった重要な節目の出来事です。
1971年 オマーン
1976年

華国鋒が第2代中国共産党中央委員会主席に就任。

華国鋒(ホア・グオフォン)が中国共産党中央委員会主席に就任し、文化大革命後の中国指導体制を率いるようになりました。
1976年10月7日、毛沢東の死去後の権力空白を埋める形で、華国鋒が第2代中国共産党中央委員会主席に選出されました。 彼は首相の周恩来、林彪らと異なる穏健な路線を掲げ、文化大革命期の混乱収束に取り組みました。 就任後ただちに『四人組』の逮捕に踏み切り、党内外で秩序回復を進めました。 華国鋒の指導下で中国は対外開放政策への転換を模索し、後の改革開放路線への布石が打たれました。 しかしその後、自らの権威を十分に確立できず、鄧小平らに主導権を譲る形で退潮しました。
1976年 華国鋒 中国共産党中央委員会主席