1710年

ポートロワイヤルの戦いはじまる。

1710年10月5日、北米アカディア地域でイギリス植民地軍とフランス軍がポートロワイヤルで戦闘を開始しました。
この戦いはアカディアン植民地を巡るクイーンズワース戦争(第1次アカディアン戦争)の一環で行われました。イギリス側はフランスの要衝ポートロワイヤル攻略を目指し、指揮官フランシス・ニコルソン率いる遠征軍が上陸しました。開始された攻囲戦は数日間にわたり、補給線を断たれたフランス守備軍は追い詰められました。10月13日には陥落し、イギリスの支配下に置かれることでアカディア全域の勢力図が一変しました。ポートロワイヤルの陥落はノバスコシアの発展とイギリス領北米の拡大につながりました。
1710年 ポートロワイヤルの戦い
1813年

米英戦争: テムズの戦いで米軍勝利。

1813年10月5日、米英戦争中のテムズの戦いでアメリカ軍がイギリス軍と同盟先住民勢力を打ち破りました。
この戦いはオンタリオ州南西部のテムズ川流域で行われ、ウィリアム・ヘンリー・ハリソン将軍率いるアメリカ軍が参戦しました。イギリス軍は先住民指導者テクムセを中心とした連合軍と共に防衛を試みましたが、激しい戦闘の末に敗北しました。テクムセは戦死し、インディアン連合は指導者を失って瓦解の危機に陥りました。アメリカ側は戦略的に重要な土地を確保し、戦争の局面転換に寄与しました。戦闘の勝利はアメリカ軍の士気向上にもつながり、その後の作戦に影響を与えました。
1813年 米英戦争 テムズの戦い
1915年

第一次世界大戦: ブルガリアが中央同盟国側として参戦。

第一次世界大戦においてブルガリアが中央同盟国側に加わり、戦線が拡大した。
1915年10月5日、ブルガリアが正式に中央同盟国(ドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国)側に参戦を表明。 バルカン半島における領土欲求や歴史的対立を背景にセルビアへの攻撃を開始しました。 ブルガリア軍の参戦によりバルカン戦線は中央同盟国有利に傾き、連合国側の戦略に大きな打撃を与えました。 この動きは第一次世界大戦の規模をさらに拡大させ、戦局の流れにも重大な影響を及ぼしました。 戦後、戦争責任を問われたブルガリアは領土喪失と賠償を余儀なくされました。
1915年 第一次世界大戦 ブルガリア 中央同盟国
1943年

第二次世界大戦: 関釜連絡船・崑崙丸が米艦の雷撃を受けて沈没。衆議院議員2人を含む544人が死亡。

関釜連絡船・崑崙丸が米軍の雷撃で沈没し、多数の犠牲者を出した悲劇的事件。
1943年10月5日夜、朝鮮半島と日本本土を結ぶ関釜連絡船の一隻「崑崙丸」が米艦の雷撃を受けて沈没しました。 当時乗船していた乗員・乗客約600人のうち、衆議院議員2人を含む544人が犠牲となりました。 軍用物資や兵員の輸送を担っていた重要船舶が攻撃されたことで、日本側の海上輸送能力に大きな打撃を与えました。 戦時中の民間船舶の危険性を象徴する事故として、多くの家族に深い悲しみをもたらしました。 戦後、この事件は海上交通の安全対策や戦時国際法の見直しにおいても議論の対象となりました。
1943年 関釜連絡船 崑崙丸