1864年

インドのコルカタがサイクロンで破壊される。死者6万人。

1864年の巨大サイクロンがインド東部コルカタを直撃し、市街地を壊滅させ約6万人が犠牲となりました。
10月5日にベンガル湾で発生した猛烈なサイクロンはコルカタ(カルカッタ)上陸後、家屋や港湾施設を一瞬で破壊しました。高潮と暴風雨により広範囲で洪水被害が発生し、通信・交通網は完全に寸断されました。植民地時代のインフラ脆弱性が露呈し、復興支援や防災対策の必要性が浮き彫りとなりました。死者数は6万人以上と推定され、当時の統計手法では正確な把握が困難でした。この惨事は気象観測や気象予報システムの整備の契機ともなりました。
1864年 インド コルカタ サイクロン
1930年

イギリスの飛行船R101がインドに向けて飛行中パリ近郊で山腹に衝突。

長距離飛行を目指した飛行船R101が墜落事故を起こし、多数の犠牲者を出した。
1930年10月5日、英国飛行船R101がインド航路開設を目指し飛行中、パリ近郊の山腹に衝突しました。 乗員54人中48人が死亡し、わずか6人のみが生還。 設計上の過負荷や気象条件への脆弱性が事故原因とされ、プロジェクトの安全性に疑問符が付されました。 この事故を契機に英国政府は飛行船計画を中止し、巨大飛行船の時代に幕を閉じさせました。 航空史における象徴的な悲劇として深い教訓を残しました。
1930年 イギリス 飛行船 R101 インド パリ
1948年

トルクメニスタンでマグニチュード7.4の大地震。数万人が死亡。

トルクメニスタンでM7.4の大地震が発生し、数万人が犠牲となりました。
1948年10月5日、旧ソ連領トルクメニスタン(現在のトルクメニスタン)でマグニチュード7.4の大地震が発生しました。震源はアムダリヤ地域周辺とされ、広範な建物倒壊と地滑りが起きました。当時の公式発表では数万人の死者・行方不明者が出たとされ、被害は甚大でした。ソ連政府は救援活動を展開したが、情報統制により詳細は明らかにされませんでした。中央アジア地域の地震災害の深刻さを浮き彫りにした歴史的な大災害です。
1948年 トルクメニスタン マグニチュード
1965年

釧路市立共栄小学校の6年生が、炊事遠足で訪れた同市新富士海岸で不発弾の爆発に巻き込まれ、4名が死亡、30数名が重軽傷を負う。

釧路市新富士海岸で不発弾が爆発し、遠足中の小学生に多数の死傷者が出ました。
1965年10月5日、北海道釧路市の共栄小学校6年生約40名が炊事遠足で新富士海岸を訪れた際、旧軍の不発弾が爆発しました。爆発により4名の児童が死亡し、約30名が重軽傷を負う惨事となりました。地元住民の証言によると、子どもたちが不発弾を運び出そうとしたところで爆発が起きたとされています。当時の救援活動では医療体制や緊急輸送の課題が浮き彫りになり、学校遠足の安全対策強化が求められました。この事件を契機に不発弾処理の制度整備が進み、公共安全管理の重要性が再認識されました。
1965年 釧路市 不発弾
1966年

米デトロイト郊外のエンリコ・フェルミ炉で史上初の炉心溶融事故がおこる。

米デトロイト郊外のエンリコ・フェルミ炉で、史上初めて原子炉の炉心溶融が発生した事故。
1966年10月5日、米国ミシガン州デトロイト郊外にあるエンリコ・フェルミ原子炉で冷却機能の不具合により炉心溶融が発生した。 冷却剤の漏れが原因とされ、燃料棒の溶解が確認されたが、人的被害は抑えられた。 当時は原子力発電の安全性への関心が高まっており、本事故は世界初の重大炉心事故として注目を集めた。 その後の原子力規制強化や事故対応手順の見直しにつながり、原子力産業全体に影響を与えた。 原子力発電のリスク理解を深める契機となった出来事である。
1966年 デトロイト エンリコ・フェルミ炉 炉心溶融
1993年

大阪市交通局南港ポートタウン線(ニュートラム)の住之江公園駅構内で車両暴走事故。乗客215人が負傷。

1993年、大阪市のニュートラム南港ポートタウン線で列車が暴走し、駅構内で215人が負傷する事故が発生しました。
1993年10月5日、大阪市交通局が運行する南港ポートタウン線(通称ニュートラム)の住之江公園駅構内で列車が制御不能となり暴走しました。 列車はホームに突入し、乗客215人が負傷、そのうち数名が重傷を負う大規模事故へと発展。 事故調査ではブレーキシステムの不具合と運転士の操作ミスが原因とされ、安全対策の見直しが急務に。 大阪市交通局は信号制御システムや保守体制を強化し、無人運転を見据えた技術検証を行いました。 この事件は全国の都市交通に警鐘を鳴らし、事故防止のための規制強化へとつながりました。
1993年 大阪市交通局 南港ポートタウン線 住之江公園駅