1392年

グラナダ王国ナスル朝の王にムハンマド7世が即位。

1392年、イベリア半島最後のイスラム王朝・ナスル朝でムハンマド7世が新たに君主となった。
1392年10月3日、ムハンマド7世(在位1392–1408)がグラナダ王国ナスル朝の王位に正式に就いた。 ナスル朝はレコンキスタの圧力下でもイスラム文化を花開かせ、アルハンブラ宮殿など独自の建築様式を残した。 ムハンマド7世は内部の貴族対立を調停しつつ、キリスト教勢力との軍事的緊張にも対応した。 その治世には学問・詩歌の後援が続き、イベリア半島における最後のイスラム文化の一翼を担った。 しかし後の領土縮小や内紛の兆しも見え、1431年以降の王朝混乱期への序章となった。
1392年 グラナダ王国 ナスル朝 ムハンマド7世
1739年

露土戦争の講和条約である1739年ニシュ条約が締結される。

1739年、ロシアとオスマン帝国がニシュ条約を締結し、黒海北岸でのロシア勢力拡大が認められた。
1739年10月3日、1735–1739年露土戦争を終結させるニシュ条約がロシアとオスマン帝国の間で成立した。 条約によりオスマン側はロシアのアゾフ海への通商航行権を認め、黒海北岸での勢力拡大を許可した。 クリミア半島周辺の戦略的重要性が高まり、ロシアは更なる南方進出を進める契機とした。 一方、オスマン帝国はバルカン半島での影響力回復を模索しつつも、国力低下を自覚する結果となった。 東ヨーロッパにおける勢力均衡を大きく変えた条約として、後の黒海戦争への布石にもなった。
1739年 露土戦争 講和条約 1739年ニシュ条約
1866年

ウィーン条約がイタリアとオーストリアの間で締結され第三次イタリア独立戦争が終結し、北イタリアにおけるオーストリア帝国の支配権が喪失。

1866年、イタリアとオーストリアの間でウィーン条約が締結され、第三次イタリア独立戦争が終結しました。北イタリアにおけるオーストリア帝国の支配権が失われた歴史的な出来事です。
1866年の第三次イタリア独立戦争末期に、イタリア王国とオーストリア帝国との間でウィーン条約が締結されました。 この条約により、オーストリアはヴェネトなど北イタリアの領土をイタリア側に割譲することを認めました。 イタリア統一運動は大きく前進し、統一への機運が高まりました。 オーストリア帝国は北イタリアにおける長年の支配権を喪失し、ヨーロッパの勢力図が変化しました。 この条約はその後の列強間のバランスにも影響を与えました。
1866年 ウィーン条約 イタリア オーストリア 第三次イタリア独立戦争
1893年

フランス・シャム間で条約締結。シャムがフランスにメコン川東岸を割譲。

1893年、フランスとシャムの間でメコン川東岸を割譲する条約が締結されました。植民地拡大の一環として重要な契約です。
1893年10月3日、フランス第三共和政とシャム王国の間で条約が締結されました。 条約の結果、シャムはメコン川東岸の複数の地域をフランスに割譲することに同意しました。 これによりフランスはインドシナ半島における勢力圏を拡大しました。 シャム王国は領土の一部を失ったものの、その後の独立維持には条約締結が一因となりました。 本条約は当時の植民地主義的政策を象徴する出来事となりました。
1893年 フランス シャム メコン川
1904年

フランス・スペイン協定締結。フランスとスペインの勢力圏が定められる。

1904年、フランスとスペインの勢力圏を定める協定が結ばれました。アフリカ分割に影響を与えた条約です。
1904年10月3日、フランス第三共和政とスペイン王国の間で協定が署名されました。 この協定により、西アフリカやサハラ地域における両国の勢力圏が明確に分割されました。 フランスは西部アフリカを主な支配地域とし、スペインはモロッコ北部を中心とした勢力を維持しました。 協定は列強間の競合緩和を目的とし、植民地政策の調整に寄与しました。 以後のアフリカ分割の枠組み形成に重要な役割を果たしました。
1904年 フランス スペイン
1918年

ボリス3世がブルガリア国王に即位。

1918年、ボリス3世がブルガリア王として即位し、戦後混乱期の統治を担いました。
1918年10月3日、ブルガリア王フェルディナント1世が退位し、息子のボリス3世が王位を継承しました。 ボリス3世は若年で即位し、第一次世界大戦終結後の国内混乱の中で統治を始めました。 彼の治世は戦後復興や政治的不安定化への対応が大きな課題となりました。 即位後は国内の再建と安定化を図るため、諸改革や外交交渉に注力しました。 ボリス3世の統治はブルガリアの近代史において重要な位置を占めました。
1918年 ボリス3世 ブルガリア
1929年

「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」が国号をユーゴスラビア王国に改称。

1929年、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国がユーゴスラビア王国に改称されました。民族統合を図る狙いがありました。
1929年10月3日、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の国号がユーゴスラビア王国に変更されました。 政府は国内の民族対立を緩和し、統一感を強める目的で国名改称を決定しました。 「ユーゴスラビア」は南スラブ人の統一国家を意味し、統合的な国家イメージを演出しました。 改称はアレクサンダル1世国王による統治改革の一環で、政治体制の集権化を促進しました。 しかし民族間の不満は解消されず、以後のユーゴスラビアの歴史に複雑な影響を及ぼしました。
1929年 ユーゴスラビア王国
1932年

イラクがイギリスの国際連盟委任統治から独立。

1932年、イラクが国際連盟の委任統治から独立し、イラク王国としての歩みを開始しました。
1932年10月3日、イギリスによる国際連盟委任統治下からイラク王国が独立しました。 イラクは中東地域で比較的新しく独立を果たした国家の一つとなりました。 独立後、憲法制定や新政府樹立など国家建設が急ピッチで進められました。 イギリスは依然として石油権益などで影響力を保持し続けました。 この独立は中東地域における反植民地主義運動や独立運動において重要な節目となりました。
1932年 イラク イギリス 国際連盟 委任統治
1932年

満州開拓武装移民団第一陣416人が日本を出発。

満州開拓武装移民団の第一陣416人が出発し、日本の満州支配強化を図った重要な移民計画の出発点です。
1932年10月3日、関東軍の支援を受けた満州開拓武装移民団の第一陣416人が日本を出発しました。 彼らは農業開発と治安維持を主な任務とし、満州国の経済基盤強化を目的としていました。 移民団は武装していたため、現地住民との衝突回避や抗日ゲリラへの抑止力も期待されていました。 現地の過酷な気候や未整備のインフラが多くの苦難をもたらし、一部の移民は厳しい生活を強いられました。 この計画は日本の満州支配政策を象徴する出来事として歴史に刻まれています。
満州開拓武装移民団
1940年

フランスのヴィシー政権がユダヤ人並びに外来者に対する法を可決。

ヴィシー政権がユダヤ人や外国人を排除する差別的法を成立させ、ナチス・ドイツの人種政策に協調しました。
1940年10月3日、独仏休戦後のフランスに成立したヴィシー政権がユダヤ人や外来者を対象とする反ユダヤ法を可決しました。 この法律は公職就任禁止、財産管理の制限、移動や職業選択の自由を大幅に制限するものでした。 ヴィシー政権は実効支配を行うためにドイツの人種政策を模倣し、自治を強化する一方で反ユダヤ主義を深めました。 多くのユダヤ人は職を失い、強制収容所への移送準備が進められました。 この法制定は第二次世界大戦における人権侵害の象徴的出来事となりました。
1940年 フランスのヴィシー政権 ユダヤ人並びに外来者に対する法
1949年

ソ連が中華人民共和国を承認。

ソ連が正式に中華人民共和国を国家として承認し、社会主義陣営の連携が強化されました。
1949年10月3日、ソビエト連邦が中華人民共和国を外交的に正式承認しました。 これにより、中華人民共和国は国際的な地位を大きく高め、国交が樹立されました。 認識は首相モロトフによって発表され、内戦終結直後の新政権安定化を後押ししました。 両国の承認は冷戦下における東アジアの勢力図に影響を与え、米国との対立軸を鮮明にしました。 この出来事は中ソ関係の始まりとして、後の政治的結びつきに重要な意義を持ちます。
1949年 ソ連 中華人民共和国 承認
1963年

ホンジュラスクーデター(1963 Honduran coup d'état)が発生し、以後20年の軍事政権に繋がる。

1963年10月3日、ホンジュラスでクーデターが発生し、20年続く軍事政権時代の幕開けとなりました。
1963年10月3日、ホンジュラス陸軍の将校団が首都テグシガルパを掌握し、民選大統領ラモン・ビジェダ・モラレスを追放した。 クーデターを主導したのはオズワルド・ロペス・アレジャノ准将で、以後1970年代半ばまで軍事政権が同国を支配した。 この政変はホンジュラス国内の政治的不安を深刻化させ、国際社会からの非難も招いた。 軍事政権下では言論統制や市民の自由制限が強化され、経済政策も軍事優先の色彩を帯びるようになった。 最終的に民主化への流れが訪れるのは1980年代後半になってからである。
1963年 ホンジュラスクーデター 1963 Honduran coup d'état