366年

ローマ教皇にダマスス1世が就任。

366年10月1日、ダマスス1世が第37代ローマ教皇に即位。 教会の権威強化と典礼整備に注力した教皇です。
ダマスス1世(在位366–384)はシリア出身の教皇で、教会の中央集権化を図った。 典礼文書の編纂や聖人伝の整理を進め、教区制度の確立に貢献した。 当時のローマ教会は神学的対立や異端論争が激化しており、ダマススは明確な教義の統一を重視した。 コリントゥムへの教皇庁移転と教会建築の推進でローマの宗教的地位を強固にした。 後世、詩文や碑文にその業績を称える記録が残されている。
366年 ローマ教皇 ダマスス1世
959年

ウェセックス家の王族エドガーがイングランド王に即位した。のちにエドガー平和王と称された。

959年10月1日、エドガーがイングランド王に即位し、国内の平和と統一を推進しました。
エドガー(在位959–975)はウェセックス家出身の王で、イングランド初の統一的な支配を強化した。 彼の治世は内乱の鎮静と法制度の整備に注力され、平和王と称された。 王権の権威を高め、諸侯との契約関係を強固にすることで地方統治を安定させた。 教会との協調を図り、修道院の保護や教区制度の発展を支援した。 エドガーの時代は文化的にも繁栄し、ブリタンニア半島全体の基盤を築いた。
959年 ウェセックス家 エドガー イングランド
965年

ローマ教皇にヨハネス13世が即位。

965年10月1日、ヨハネス13世がローマ教皇に即位し、教皇権回復に取り組み始めました。
ヨハネス13世(在位965–972)はドイツ出身の教皇で、神聖ローマ帝国との緊密な協力を通じて教皇権を強化した。 オットー1世の支援を受けながらイタリア半島での権威を回復し、ローマ教会の統制を再構築した。 教皇庁の行政組織を整備し、文書管理や典礼規定の統一に貢献した。 教会建築や聖堂の修復を推進し、ローマの宗教的景観を刷新した。 後世の教皇権拡大の礎を築いた人物として評価されている。
965年 ヨハネス13世
1553年

メアリー1世がイングランド王に戴冠。

1553年10月1日、メアリー1世がイングランド王に戴冠し、カトリック復興を掲げました。
メアリー1世(在位1553–1558)はヘンリー8世の娘で「ブラッディ・メアリー」の異名を持つ。 彼女はプロテスタント勢力を抑え、ローマ教皇との和解を試みカトリック復興を推進した。 多数のプロテスタント信徒を処刑したことが後世の評価に影響を与えている。 外交的にはスペイン王フィリップ2世と結婚し、同君連合を構築しようとした。 短い治世ながら宗教政策はイングランド史上大きな転換点となった。
1553年 メアリー1世 イングランド王
1730年

オスマン帝国のスルタンであったアフメト3世がパトロナ・ハリルの乱により退位を余儀なくされる。チューリップ時代の終焉。

1730年10月1日、パトロナ・ハリルの乱によりスルタン・アフメト3世が退位し、チューリップ時代が終わりました。
チューリップ時代(1718–1730)はオスマン帝国で文化的繁栄と西欧化が進んだ時代である。 スルタン・アフメト3世は平和政策と宮廷文化に重きを置き、イスタンブールでの豪華な催しを奨励した。 しかし軍人パトロナ・ハリルの乱が勃発し、政治的混乱が帝国内に波及した。 反乱勢力は宮廷の腐敗を糾弾し、アフメト3世を退位に追い込んだ。 この出来事をもってチューリップ時代は終焉し、保守的な統治体制が再興された。
1730年 オスマン帝国 スルタン アフメト3世 パトロナ・ハリル 英語版 チューリップ時代
1791年

フランス革命: 立法議会が召集。

1791年10月1日、フランス革命で新たな立法議会が招集され、立憲政治が本格始動しました。
フランス立法議会(1791–1792)は憲法制定議会に続いて設置された立法機関である。 立法議会にはジャコバン派、ジロンド派など多様な政治勢力が参加し、対立を深めた。 議会は国王の権限制限や革命戦争の決定など重要法案を審議した。 内部抗争が激化し、マリー・アントワネットの処遇や共和国宣言への道を模索した。 議会の混乱はジャコバン派の台頭とテルミドール9日のクーデターへとつながった。
1791年 フランス革命 立法議会
1800年

第三次サン・イルデフォンソ条約の署名によりルイジアナがスペインからフランスに返還される。

1800年10月1日、第三次サン・イルデフォンソ条約によりルイジアナ植民地がスペインからフランスに返還されました。
第三次サン・イルデフォンソ条約はナポレオン・ボナパルト政権下のフランスとスペイン間の秘密条約である。 この条約でスペインはルイジアナをフランスへ返還し、ナポリやシチリアの軍事協力を得た。 ルイジアナ返還はアメリカ合衆国との交易ルートに影響を与え、後のルイジアナ買収へつながった。 条約は秘密裏に締結されたが、欧州列強間の勢力バランスに変化を生じさせた。 北米におけるフランスの存在感が一時的に復活した歴史的瞬間である。
1800年 第三次サン・イルデフォンソ条約 ルイジアナ スペイン フランス
1814年

ウィーン会議開幕。1815年6月9日まで。

ナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序再編を目的とした国際会議「ウィーン会議」が開幕した。 会議は1815年6月9日まで続いた。
ウィーン会議はナポレオン戦争終結後の平和構築を目指し、主要ヨーロッパ諸国の代表が集まった会議です。 会議ではイギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンなどが主導権を握り、勢力均衡の確立を協議しました。 フランス復権の是非や国境線の再編が議題となり、新たな勢力圏が形成されました。 18世紀以来の王政復古が進められ、バランス・オブ・パワーの概念が国際政治に定着しました。 会議の成果は1815年6月9日の最終議定書にまとめられ、その後数十年にわたってヨーロッパの平和維持に寄与しました。
1814年 ウィーン会議 1815年 6月9日
1898年

東京・京都・大阪の市制特例廃止。

1898年10月1日、東京・京都・大阪の三大都市に適用されていた市制特例が廃止されました。
市制特例は1878年に施行された制度で、大都市の行政運営を支えるために特別な規定が設けられていました。 東京・京都・大阪は急速な都市化に伴い、独自の行政・財政運営が可能となっていました。 しかし中央集権の強化や他都市との公平性を求める声が高まり、制度廃止へと至りました。 廃止後は全国統一の市制が適用され、大都市の自治体運営は一般の市と同様のルールに則ることとなりました。 この変更は地方自治の統一性や行政効率化に大きく寄与しました。
1898年 市制特例
1918年

ヒヴァ・ハン国最後の君主としてサイード・アブドゥッラーが即位。

ヒヴァ・ハン国の最後の君主として、サイード・アブドゥッラーが即位しました。
ヒヴァ・ハン国は中央アジア、現在のウズベキスタン地域に存在した君主国です。 1918年10月1日、伝統的な統治体制の中でサイード・アブドゥッラーが最後のハン(君主)として即位しました。 彼の即位はロシア革命後の混乱期に行われ、一時的に国家の独立と安定を訴えましたが、 1920年にソビエト連邦の介入により併合され、君主制は終焉を迎えます。 この出来事はヒヴァ・ハン国1000年以上にわたる君主制の歴史の終幕を象徴しています。
ヒヴァ・ハン国 サイード・アブドゥッラー
1930年

威海がイギリスから中華民国に返還。

租借地であった威海(威海衛)がイギリスから中華民国に返還されました。
威海(威海衛)は1898年から英国により租借され、中国北部の戦略的拠点として管理されていました。 しかし国際情勢の変化を受け、1930年10月1日に英国政府は威海を中華民国政府に返還しました。 返還後は再び中国の行政区画に組み込まれ、漁業や貿易拠点として発展を遂げました。 この返還は列強による租借地・租界の縮小を象徴する歴史的転換点となりました。
威海 イギリス 中華民国
1940年

ペンシルベニア・ターンパイク開通。 藤沢市市制施行

アメリカでペンシルベニア・ターンパイクが開通し、日本で藤沢市が市制を施行しました。
1940年10月1日、アメリカ合衆国では初の長距離有料高速道路ペンシルベニア・ターンパイク(Pennsylvania Turnpike)が全長約360kmで開通しました。 これにより貨物輸送や自動車旅行の時間短縮と利便性向上に大きく貢献しました。 同日、日本の神奈川県では藤沢町が市制を施行して藤沢市が誕生しました。 藤沢市は湘南地域の中心都市として行政運営が開始され、戦後の都市化と経済発展の基盤が築かれました。 両国の交通インフラと地方行政が新たな段階へ進んだ象徴的な日です。
1940年 ペンシルベニア・ターンパイク 藤沢市市制施行