紀元前48年
ローマの執政官ポンペイウスがエジプト軍の刺客により暗殺される。
紀元前48年、内戦に敗れたローマの執政官ポンペイウスがエジプトを訪れた際、刺客に暗殺されました。ローマ政治に衝撃を与えた劇的な事件です。
ポンペイウスはカエサルとの内戦で敗北した後、エジプトへ亡命しました。エジプト王プトレマイオス13世はカエサルの機嫌を取るため、ポンペイウスを迎え入れるふりをして殺害を計画します。ポンペイウスはアレクサンドリア近郊に上陸した直後、刺客たちに襲われました。彼は激しい抵抗を試みましたが、最終的に胸部を貫かれて息絶えます。遺体は海に投じられ、ローマ市民に直接姿を晒されることはありませんでした。この暗殺はローマ共和国の終焉を象徴する事件として後世に語り継がれています。
紀元前48年
ローマ
執政官
ポンペイウス
エジプト
351年
ローマ内戦 (350年 353年): ムルサ・マジョールの戦い(Battle of Mursa Major)
351年、ローマ帝国内部の権力争いでコンスタンティウス2世とマグネンティウスがムルサ・マジョールで激突しました。史上最も血腥い戦闘の一つとされています。
マグネンティウスは皇帝コンスタンティウス2世への反乱を起こし、西方を掌握します。351年9月28日、現代のクロアチア付近ムルサ・マジョールで両軍が激突しました。戦闘は両陣営合わせて約15万人以上が参加し、双方に多大な死傷者を出す大規模なものとなりました。最終的にコンスタンティウス2世が勝利し、マグネンティウスの軍勢は壊滅的状態に追い込まれます。敗北したマグネンティウスはその後逃亡中に捕らえられ、自害に追い込まれました。この勝利でコンスタンティウス2世は帝国を再統一し、後のキリスト教国家化に向けた基盤を固めました。
351年
ローマ内戦 (350年-353年)
ムルサ・マジョールの戦い
Battle of Mursa Major
1066年
ノルマンディー公ギヨーム(ウィリアム1世)がイングランドに侵入。ノルマン・コンクエストが始まる。
1066年、ノルマンディー公ギヨーム1世がイングランド侵攻を開始し、ノルマン・コンクエストが始まりました。
ギヨーム1世(後のウィリアム1世)はイングランド王位継承権を主張し、ノルマンディー軍を率いて海を渡りました。同年9月28日、彼はサセックス州のペヴィニーに上陸し要塞を築きました。これに対しイングランド王ハロルド2世は北方から急遽戻り迎撃態勢を整えます。ウィリアムは巧妙な戦術と厳格な軍律で補給線を確保し、進撃を続けます。この侵攻がノルマン・コンクエストの嚆矢となり、イングランドの封建制度や言語文化に大きな変化をもたらしました。最終的な勝利は同年10月14日のヘイスティングズの戦いで得られ、ウィリアムはイングランド王として即位します。
1066年
ノルマンディー公
ウィリアム1世
イングランド
ノルマン・コンクエスト
1106年
タンシュブレーの戦いが起こる。
1106年、イングランド王ヘンリー1世とノルマンディー公ロベールの間でタンシュブレーの戦いが起こりました。
ヘンリー1世は兄ロベール・カリウスをノルマンディー公の地位から排除しようとしました。1106年9月28日、フランス北部のタンシュブレーで両軍が衝突します。戦闘は僅かな兵力の違いながらもヘンリー軍の迅速な攻撃で優勢に進みました。ロベールは捕らえられ、その後生涯にわたり幽閉されます。ヘンリー1世はこの勝利でイングランドとノルマンディーを事実上統一し、王権を強化しました。ノルマン朝の支配体制確立に大きな影響を与えた重要な一戦です。
1106年
タンシュブレーの戦い
1238年
バレンシア包囲戦(Sitio de Valencia (siglo XIII))が終了し同市が陥落する。この功績からアラゴン王ハイメ1世は後世「征服王」と呼ばれるようになる。
1238年、アラゴン王ハイメ1世がバレンシア包囲戦を制し、同市を征服しました。
ハイメ1世(征服王)はレコンキスタの最前線で勢力を拡大していました。1238年9月、彼はムーア人支配下のバレンシア包囲を開始します。長期戦にもかかわらず、アラゴン軍は補給路を維持しつつ城壁を攻略しました。9月28日に遂に市を奪取し、征服を完了させます。この勝利でハイメ1世は「征服王」の異名を獲得し、アラゴン王国の版図を大きく広げました。バレンシアは後に重要な商業都市へと発展します。
1238年
バレンシア包囲戦
Sitio de Valencia (siglo XIII)
アラゴン王
ハイメ1世
1322年
ミュールドルフの戦い(Battle of Mühldorf)。神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ4世がオーストリア大公フリードリヒ3世を破る。
1322年、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世がミュールドルフの戦いでフリードリヒ3世を破りました。
神聖ローマ皇帝位を巡る争いで、ルートヴィヒ4世とオーストリア大公フリードリヒ3世が対立します。1322年9月28日、バイエルン州のミュールドルフ近郊で両軍が激突しました。戦闘は主に騎士の白兵戦で展開され、多数の貴族が参加します。ルートヴィヒ4世は騎士団の戦術を駆使して勝利を収め、フリードリヒを捕虜としました。この結果、ルートヴィヒは皇帝としての地位を固め、ヴェッティン家の勢力を強化します。ミュールドルフの勝利は神聖ローマ帝国内の勢力均衡を大きく変えました。
1322年
ミュールドルフの戦い
Battle of Mühldorf
神聖ローマ帝国
ルートヴィヒ4世
オーストリア大公
フリードリヒ3世
1538年
プレヴェザの海戦が行われる。
1538年、オスマン帝国とレパント同盟の艦隊がプレヴェザ沖で激突する海戦が行われました。
オスマン帝国は地中海における海上覇権を確立しようとしていました。1538年9月28日、ヘイレッディン・バルバロッサ提督率いるオスマン艦隊と、アンドレア・ドーリア率いる教皇庁・スペイン・ヴェネツィア連合艦隊がプレヴェザ沖で対峙します。戦闘は風向きと地形を活かしたオスマン艦隊の戦術が功を奏し、連合艦隊は大敗を喫しました。多くのガレー船が沈没または拿捕され、連合側の士気は大きく低下します。この勝利によりオスマン帝国は東地中海の制海権を掌握し、長期間にわたり海上優勢を維持しました。
1538年
プレヴェザの海戦
1708年
大北方戦争: レスナーヤの戦い。
大北方戦争中の1708年、ベラルーシのレスナーヤで行われたロシア軍とスウェーデン軍の戦い。ロシア軍が補給部隊を襲撃し、スウェーデン軍に大きな打撃を与えました。
1708年9月28日、大北方戦争の一環としてベラルーシのレスナーヤでロシア軍とスウェーデン軍が衝突しました。ロシア軍はピョートル大帝の命を受けた部隊がスウェーデン軍の補給線を奇襲し、補給物資を押収することに成功しました。この戦闘の敗北はスウェーデン軍の物資不足を招き、チャールズ12世のロシア侵攻に大きな打撃を与えました。戦術的にはロシア軍の巧妙な伏兵戦術が奏功し、戦局の転換点となりました。大北方戦争の帰趨を左右した重要な戦いです。
1708年
大北方戦争
レスナーヤの戦い
1781年
アメリカ独立戦争: アメリカ・フランス軍がヨークタウンのイギリス軍を包囲。ヨークタウンの戦いが始まる。
1781年、アメリカ・フランス連合軍がヨークタウンを包囲して戦いを開始しました。独立戦争の転機となった決定的な包囲戦です。
1781年9月28日、アメリカ独立戦争においてアメリカ・フランス連合軍がイギリス軍の拠点ヨークタウンを包囲し、ヨークタウンの戦いが開始されました。この包囲戦は数週間にわたり行われ、最終的にチャールズ・コーンウォリス将軍率いるイギリス軍を降伏に追い込みました。フランス艦隊の制海権確保とアメリカ軍の陸軍部隊の連携が勝利の鍵となりました。ヨークタウンの戦いは独立戦争の転換点となり、のちのパリ条約交渉への道を開いた歴史的重要事件です。
1781年
アメリカ独立戦争
ヨークタウン
ヨークタウンの戦い
1868年
アルコレアの戦い、スペインのイサベル2世がフランスに逃亡。
1868年、スペインでアルコレアの戦いが起き、革命派に敗れたイサベル2世がフランスへ亡命しました。
この戦いはスペイン革命(グロリオーサ革命)の転機となった重要な会戦です。
イサベル2世支持派の王党軍は革命派に敗北し、マドリードへの進軍を許されました。
敗北したイサベル2世は9月28日にフランスへ逃亡し、スペインの政局は一変します。
革命派は摂政政府を樹立し、第一共和政への道が開かれました。
亡命後の王政復古は叶わず、イサベル2世は生涯母国に戻ることはありませんでした。
1868年
アルコレアの戦い
英語版
スペイン
イサベル2世
1901年
米比戦争: バレンジーガの戦い(Battle of Balangiga)
1901年、米比戦争中のバランギガの戦いでフィリピン独立勢力がアメリカ軍を奇襲しました。
米比戦争(1899~1902年)はフィリピンの独立運動を巡るアメリカとの武力衝突でした。
9月28日のバランギガの戦いでは、フィリピン人民軍がアメリカ第9連隊を夜襲。
アメリカ軍は大きな損害を受け、多数の兵士が戦死または負傷します。
この奇襲戦法はゲリラ戦術の成功例として知られ、両軍の戦闘は激化しました。
戦闘後にアメリカ軍は報復攻撃を行い、地域住民にも甚大な被害が及びました。
1901年
米比戦争
バレンジーガの戦い
Battle of Balangiga
1914年
第一次世界大戦: アントワープ包囲戦(Siege of Antwerp (1914))が始まる。
1914年、第一次世界大戦中にドイツ軍がベルギーの要塞都市アントワープを包囲した戦闘の開始。
1914年9月28日、第一次世界大戦の西部戦線においてドイツ帝国軍がベルギー北部の要衝アントワープを包囲した。
アントワープは連合国側の重要な防衛拠点であり、同市を陥落させることでドイツ軍は補給路確保を狙った。
包囲戦は重砲や塹壕戦を伴い、地上部隊とともにドイツ艦隊による河川砲撃も実施された。
連合国側は抵抗を続けたが、支援部隊の到着が遅れ、ベルギー軍は最終的に撤退を余儀なくされた。
この戦闘は西部戦線の様相を著しく変え、塹壕戦の苛烈さを示す一例となった。
1914年
第一次世界大戦
アントワープ包囲戦
Siege of Antwerp (1914)