365年

プロコピウスがコンスタンティノープル元老院からローマ皇帝と宣言される。

365年、プロコピウスがコンスタンティノープルの元老院によりローマ皇帝に擁立されました。帝位継承を巡る戦いが激化します。
ユリアヌス帝の死後、東ローマ帝国は混乱状態にありました。プロコピウスは皇帝ユリアヌスの従兄弟にあたり、政敵に対する正当性を主張します。365年9月28日、彼はコンスタンティノープル元老院の支持を受けて皇帝に宣言されました。これに対し現皇帝ヴァレンスはテオドシウスらを派遣し、プロコピウス軍を討伐します。両軍は各地で散発的な衝突を繰り広げ、一時的に東ローマ内部は二重皇帝体制となりました。最終的にはプロコピウスは敗北し処刑され、ヴァレンスの統治が確立しました。
365年 プロコピウス コンスタンティノープル元老院
935年

ボヘミア公ヴァーツラフ1世が弟ボレスラフのクーデターにより殺害。

935年、ボヘミア公ヴァーツラフ1世が弟ボレスラフの陰謀によって暗殺されました。チェコ史上重要な事件です。
ヴァーツラフ1世(聖ヴェンセスラウス)はキリスト教を導入し、ボヘミアの統治を強化した公です。935年9月28日、古都スターラ・ボレスラフ近郊で弟ボレスラフに暗殺されました。遺体は教会に安置され、その後ボヘミアの守護聖人として崇敬を集めます。ボレスラフは暗殺後に公位を奪取し、残虐な統治で「残虐公」と呼ばれました。ヴァーツラフの死はチェコの民族的英雄伝説の起点となります。後世、彼は聖人に列せられ、多くの逸話が語り継がれました。
935年 ヴァーツラフ1世 ボレスラフ 英語版
1394年

対立教皇としてベネディクトゥス13世が就任する。

1394年、西方教会大分裂の中でベネディクトゥス13世が対立教皇として就任しました。
グレゴリウス12世退位後の教皇選出を巡りローマ教会は分裂状態にありました。1394年9月28日、アヴィニョン教皇庁の枢機卿らはペドロ・デ・ルナをベネディクトゥス13世として擁立します。彼は教皇クレメンス7世の後継として対立教皇の地位に就き、ローマ教皇ウルバヌス6世と二重体制が固定化されました。ベネディクトゥス13世はフランスなど一部地域の支持を集めましたが、教会の統一には至りませんでした。大分裂は度重なる交渉と撤回要求にもかかわらず延々と続き、最終的には1417年のコンスタンツ公会議で解決されます。
1394年 対立教皇 ベネディクトゥス13世
1779年

サミュエル・ハンティントンがジョン・ジェイの後任として大陸会議議長に選ばれる。

1779年、大陸会議でサミュエル・ハンティントンがジョン・ジェイの後任として議長に選出されました。独立戦争期の議会を統率した政治家です。
1779年9月28日、アメリカ独立戦争期の議会である大陸会議において、サミュエル・ハンティントンがジョン・ジェイの後任として議長に選出されました。ハンティントンはコネチカット代表として活動し、独立後の連邦政府の基礎づくりにも寄与しました。会議の議長職は当時の名誉職的な位置づけでしたが、植民地間の調整や外交交渉を主導する重要な役割を担いました。ハンティントンの選任は、大陸会議の統一性を維持する上で大きな意味を持っていました。
1779年 サミュエル・ハンティントン ジョン・ジェイ 大陸会議
1821年

メキシコ帝国独立宣言(Declaration of Independence of the Mexican Empire)が起草される。

1821年、メキシコ帝国の独立宣言草案が起草され、スペインからの完全独立を正式に宣言する基礎が築かれました。
1821年9月28日、メキシコ帝国の独立宣言の草案が起草されました。この文書はアグスティン・デ・イトゥルビデらによってまとめられ、スペインからの完全独立を正式に宣言するための原型となりました。独立戦争は1810年に始まり、11年間にわたる抵抗の末に勝利を収めたメキシコは、帝政として再編される道を歩みます。草案には国民統合や君主制の構想が盛り込まれ、その後の政治体制形成に大きな影響を与えました。メキシコの国家としての自立を象徴する重要な歴史文書です。
1821年 メキシコ帝国独立宣言 Declaration of Independence of the Mexican Empire
1823年

レオ12世がローマ教皇に即位。

1823年、アンニバーレ・デッラ・ジェンガがローマ教皇レオ12世として即位し、教会再建に尽力しました。
1823年9月28日、教皇選挙によってアンニバーレ・デッラ・ジェンガがローマ教皇レオ12世として即位しました。彼はナポレオン戦争後の教会再建を担い、保守的な政策を推進して教会の権威回復を図りました。教皇在位中は司教の権限強化や修道院改革を行い、フリーメイソンなどに対して厳しい姿勢を示しました。1830年代初頭にはヨーロッパ各地で起こる自由主義運動に対抗し、教会の伝統的価値観を守ろうとしました。1829年までの在位期間を通じて、レオ12世の治世は教皇庁の復興期とされています。
1823年 レオ12世 ローマ教皇
1844年

父の死によりスウェーデン=ノルウェーの王位を継承したオスカル1世が戴冠式で戴冠。

1844年、父カール14世ヨハンの死去に伴いオスカル1世がスウェーデン=ノルウェー王として正式に戴冠しました。
1844年9月28日、父カール14世ヨハンの死去に伴いオスカル1世がスウェーデン=ノルウェー王として正式に戴冠しました。戴冠式はストックホルムやクリスチャニア(現オスロ)で盛大に行われ、連合王国の統治者としての地位を内外に示しました。オスカル1世は即位後、自由主義的な改革を支持し、司法制度や教育の近代化、通信インフラの整備などに着手しました。その統治は北欧における社会福祉や経済発展の基盤を築き、ビュルネッタ朝の安定と繁栄に大きく貢献しました。
1844年 スウェーデン=ノルウェー オスカル1世
1867年

トロントがカナダ・オンタリオ州の州都になる。

1867年、カナダ連邦成立に伴い、オンタリオ州の州都としてトロントが正式に定められました。
カナダ連邦が成立した直後、オンタリオ州政府は新たな州都の選定を行いました。 人口増加と商業規模を背景に、トロントが最有力候補となります。 州議会の決定により州都に指定され、行政機関や公共施設の整備が急速に進行。 その後トロントは政治・経済の中心地として発展を続け、現在もオンタリオ州最大の都市として重要な役割を担っています。
1867年 トロント カナダ オンタリオ州
光緒24年8月13日

戊戌の政変: 政変の後に復権した西太后により捕らえられた楊深秀ら変法派の六人(「戊戌六君子」、下記「忌日」の項を参照)が処刑される。

1898年の戊戌政変で維新派の楊深秀ら六人(戊戌六君子)が処刑され、西太后による保守化が強まりました。
光緒帝による百日維新は政治・教育・産業の近代化を目指した改革運動でした。 しかし西太后が反改革勢力を率いて政変を主導し、8月末に権力を掌握。 改革派のリーダーである「戊戌六君子」が逮捕され、9月28日に処刑されます。 この処刑は中国の近代化運動に大打撃を与え、以後20年以上にわたり政治的保守化が続きました。 清朝末期の危機を象徴する事件として、中国史に深い影響を残しました。
1898年 光緒 8月13日 戊戌の政変 西太后 楊深秀
1912年

アルスター規約(Ulster Covenant)の署名が反第3次アイルランド自治法案を掲げる約50万人のプロテスタントによりなされる。

アイリッシュ自治法案に反対するプロテスタント約50万人がアルスター規約に署名した政治運動。
1912年9月28日、北アイルランドのアルスター地域で、ロンドン議会の第3次アイルランド自治法案に反対するプロテスタント約50万人がアルスター規約に署名した。 アルスター規約は、アイルランドが英国から自治権を獲得する動きに対抗し、武力行使も辞さないとする強硬姿勢を示す文書である。 この署名運動は、ウィンストン・チャーチルら自治擁護派とアッサム=コーティス伯爵ら統一派との対立を象徴した。 規約には、義勇兵部隊の結成や自治法案の廃止を目指す決意が記され、北部ユニオン主義の結束を強めた。 結果的に自治法案は数年間棚上げされ、以後のアイルランド問題に大きな影響を与えた。
1912年 アルスター規約 Ulster Covenant
1918年

白虹事件: 大阪朝日新聞社長村山龍平が国粋団体黒龍会会員に襲撃される。

1918年、大阪朝日新聞社長の村山龍平が民族主義団体黒龍会の会員に襲撃された新聞社長狙撃事件。
1918年9月28日、大阪朝日新聞の社長である村山龍平が、国粋主義団体・黒龍会の会員により大阪市内で襲撃された。 本事件は『白虹事件』と呼ばれ、村山社長は軽傷を負ったが、新聞界に大きな衝撃を与えた。 黒龍会は当時の政治混乱下で民族主義的言動を強めており、言論機関への圧力を意図していたとされる。 事件を契機に政府は社会主義運動や言論統制に対する警戒を強化し、大正末期の言論弾圧へとつながった。 新聞界では報道の自由と治安維持の狭間で議論が高まり、以後の報道方針にも影響を及ぼした。
1918年 白虹事件 大阪朝日新聞 村山龍平 黒龍会
1921年

安田財閥総帥の安田善次郎が、大磯の別邸で右翼浪人に暗殺される。

1921年、安田財閥創設者・安田善次郎が大磯の別邸で右翼浪人に暗殺された事件。
1921年9月28日、大磯にある安田財閥総帥・安田善次郎の別邸に右翼浪人が侵入し、彼を暗殺した。 安田善次郎は日本の近代化に大きく貢献した実業家であり、この事件は国内に大きな衝撃を与えた。 犯人は政治的不満や排外主義的思想に基づく動機を持っていたとされ、後に逮捕された。 事件後、治安維持法の運用強化や右翼運動への警戒が高まり、政財界にも影響を及ぼした。 安田家や当時の日本経済界では、産業振興と政治的安定の両立について議論が活性化した。
1921年 安田財閥 安田善次郎