1921年

富山県で台風により漁業従事者約900人が遭難。

1921年、富山県沖で台風に見舞われ、漁業従事者約900人が遭難する大規模な海難事故が発生しました。
1921年9月26日、富山県沖を猛威を振るった台風が漁船団を襲いました。強風と高波のため多数の小型漁船が転覆や浸水し、乗組員は海上に取り残されました。沿岸の救助体制は当時未整備で、救助活動は困難を極めました。最終的に約900名もの漁業従事者が行方不明または死亡したと推定される日本海沿岸最大級の海難事故となりました。この惨事は漁業安全対策や気象情報の重要性を浮き彫りにし、その後の救難組織整備の契機となりました。
1921年
1931年

翌日にかけて関東地方、東海地方で台風による豪雨。各地の河川で氾濫や堤防の決壊多数。東京市だけでも浸水家屋約7万戸。

1931年、関東・東海地方を襲った台風による豪雨で各地の河川が氾濫し、東京では約7万戸が浸水しました。
1931年9月26日から27日にかけて台風が関東・東海地方を直撃しました。連日の豪雨により利根川や多摩川など主要河川が氾濫し、堤防の決壊が多発しました。特に東京市内では約7万戸もの家屋が浸水被害を受けました。交通網は寸断され、物資輸送や通信が滞るなど都市機能は大きく麻痺しました。死者・行方不明者の正確な数は不明ながら、多数の犠牲が報告されました。この災害は都市の河川管理や治水対策の見直しを促す契機となりました。
1931年 関東地方 東海地方
1932年

岐阜県の恵那山で大規模な土砂災害(山津波)が発生。現中津川市内で死者3人、重傷者6人、埋没家屋120戸、床上浸水306戸、橋梁流失10箇所などの被害。

1932年、岐阜県恵那山で発生した山津波により土砂崩れが発生し、甚大な被害が出ました。
1932年9月26日、岐阜県の恵那山で集中豪雨により斜面が崩壊し、大規模な山津波が発生しました。中津川市付近では大量の土砂が流れ込み、住宅120戸が埋没し、306戸が床上浸水しました。死者は3名、重傷者6名を数え、橋梁10箇所が流失するなどインフラにも深刻な被害を与えました。住民の避難や救援活動は難航し、被害の全容把握が遅れました。この災害は地滑りや山津波に対する警戒・対策の重要性を改めて認識させる出来事となりました。
1932年 岐阜県 恵那山 土砂災害 山津波 中津川市
1935年

第四艦隊事件。演習中の日本海軍の艦隊が台風に遭遇し、多数の艦艇が損傷。

1935年、日本海軍の演習中艦隊が台風に遭遇し、多数の艦艇が被害を受けた第四艦隊事件。
1935年9月26日、日本海軍第四艦隊は太平洋上で演習を行っていましたが、予期せぬ台風に巻き込まれました。強風と大波により艇体に亀裂が入り、多数の艦艇で損傷が発生しました。当時の艦船設計の脆弱性が露呈し、軍艦建造基準の見直しを迫る契機となりました。被害は主に駆逐艦や水雷艇に集中し、船体補強と耐波性能の向上が急務とされました。この事故は海軍内外に衝撃を与え、後の艦艇設計に大きな影響を及ぼしました。
1935年 第四艦隊事件 日本海軍
1935年

烏川災害。台風により利根川流域の河川が氾濫。群馬県だけでも死者218人、行方不明者39人、負傷者190人、家屋全壊467戸などの被害。

1935年、利根川の氾濫により群馬県を中心に多数の死傷者と家屋被害を出した烏川災害。
1935年9月26日、台風による集中豪雨で利根川流域の烏川が氾濫しました。群馬県では特に被害が甚大となり、死者218名、行方不明者39名、負傷者190名を記録しました。住宅全壊は467戸に及び、地域の農地やインフラも大きな損害を受けました。避難所における生活環境の劣悪さが問題となり、救援活動と衛生管理の課題が浮き彫りになりました。この災害を契機に河川改修や堤防強化など治水対策が強化されることとなりました。
1935年 利根川 群馬県
1954年

洞爺丸台風(台風15号)が北海道に来襲。

洞爺丸台風(台風15号)が北海道を襲い、猛烈な風雨をもたらしました。
1954年9月26日、洞爺丸台風(第15号)は北海道に上陸し、強風と豪雨を伴いながら北上しました。 最大瞬間風速は北海道各地で観測史上稀に見る強さとなり、交通網や農作物に甚大な被害をもたらしました。 特に海上は高波により多くの船舶が損傷し、青函連絡船洞爺丸事故へとつながるきっかけとなりました。 沿岸部では浸水や土砂災害が発生し、多数の住宅や施設が被災しました。 戦後最大級の台風災害として、防災体制の見直しが急務となった出来事でした。
1954年 洞爺丸台風 台風
1954年

洞爺丸事故。洞爺丸台風により青函連絡船「洞爺丸」が転覆。死者行方不明1,155人。

洞爺丸台風の影響で青函連絡船「洞爺丸」が転覆し、1,155人の死者・行方不明者が発生しました。
1954年9月26日午前、洞爺丸台風により青函連絡船「洞爺丸」が激しい高波を受けて転覆しました。 乗客や乗員合わせて約1,500人が乗船しており、死者・行方不明者は1,155人に上る日本海難史上最悪の惨事となりました。 救命ボートの不備や気象予報の遅れが悲劇を拡大させ、以降の安全基準強化の契機となりました。 海難事故を受けて、政府は連絡船の改良や気象観測体制の改革を急ぎました。 この事故は、国内外に大きな衝撃を与え、海上輸送の安全性確保の必要性を痛感させました。
洞爺丸事故 青函連絡船 洞爺丸
1954年

北海道岩内町で洞爺丸台風による強風により大火。死者33名。

洞爺丸台風による強風で北海道岩内町で大火が発生し、33名が犠牲となりました。
1954年9月26日、洞爺丸台風の強風により北海道岩内町で大規模な火災が発生しました。 猛烈な風に煽られた火の手は瞬く間に住宅地を襲い、延焼が広がりました。 消防隊や住民による消火活動が行われましたが、33人の尊い命が失われました。 被災地域では多くの住居や商店が焼失し、復興に長い時間を要しました。 この火災は、台風時の火災防御対策見直しの契機となりました。
北海道 岩内町 大火
1958年

狩野川台風(台風22号)が静岡県伊豆半島に最接近。狩野川が氾濫。

1958年の台風22号(狩野川台風)が静岡県伊豆半島に最接近し、狩野川が氾濫しました。
1958年の台風22号(狩野川台風)が静岡県伊豆半島に最接近しました。狩野川の堤防が決壊し、下流域で大規模な洪水が発生しました。多数の住宅や田畑が水没し、住民は緊急避難を余儀なくされました。死者・行方不明者の正確な数は記録されていませんが、大きな被害が報告されました。この災害をきっかけに河川改修や防災対策の強化が進められました。
1958年 狩野川台風 伊豆半島 狩野川
1959年

伊勢湾台風(台風15号)が潮岬に上陸。東海地方などを襲い、死者・行方不明者5,000人以上という甚大な被害を及ぼす。

1959年に台風15号(伊勢湾台風)が潮岬に上陸し、東海地方を中心に甚大な被害をもたらしました。
1959年9月26日に台風15号(伊勢湾台風)が潮岬に上陸し、強風と高潮を伴いながら東海・関東地方を横断しました。高潮により伊勢湾沿岸地域では堤防が決壊し、浸水被害が多発しました。特に愛知県や三重県では市街地が壊滅的な被害を受け、農地も広範囲で冠水しました。死者・行方不明者は5,000人以上、負傷者は数万人にのぼりました。市民生活は完全に麻痺し、全国的な支援と復旧活動が急務となりました。この台風は高潮対策の見直しや防潮堤の整備促進につながりました。
1959年 伊勢湾台風 潮岬 上陸
1960年

福岡県糸田町の嘉穂炭鉱籾井坑でガス爆発事故が発生。13人が死亡。

1960年、福岡県糸田町の嘉穂炭鉱籾井坑でガス爆発事故が発生し、13人が死亡しました。
1960年9月26日、福岡県糸田町の嘉穂炭鉱籾井坑でガス爆発事故が発生しました。坑内に充満した可燃性ガスが爆発し、作業中の労働者に甚大な被害をもたらしました。この事故で13名が死亡し、坑内調査や捜索活動が難航しました。炭鉱における安全対策の不備が指摘され、ガス検知や排気設備の強化が急務となりました。事故後、炭鉱労働者の安全管理基準が見直され、日本の鉱山安全規制が強化される契機となりました。
1960年 福岡県 糸田町
1962年

長崎県福江市で大火(福江大火)。市役所、警察署、郵便局、税務署などの公共機関の施設、家屋391戸が全焼。

1962年に長崎県福江市で大火が発生し、公共機関や家屋391戸が焼失しました。
1962年9月26日、長崎県福江市(現・五島市福江町)で大規模な市街地火災が発生しました。市役所、警察署、郵便局、税務署などの公共機関施設が次々と炎上しました。住宅391戸が全焼し、多くの住民が家屋を失い避難を余儀なくされました。火災原因は不明ですが、木造密集地の都市構造が被害を拡大させたとされます。この大火を契機に防火対策や建築規制の見直しが地域で進められました。
長崎県 福江市 福江大火 警察署