1690年
アメリカで最初に発行された複数ページの新聞であるパブリック・オカレンシズがボストンで発行される。9月29日に植民地政府により発行を禁じられる。
1690年9月25日、ボストンでアメリカ初の複数ページ新聞『パブリック・オカレンシズ』が刊行されたが、わずか一号で植民地政府により発行禁止となった。
『パブリック・オカレンシズ』は1690年9月25日にベンジャミン・ハリスによって初めて刊行されたアメリカ最初の複数ページ新聞です。当時は1ページの新聞が主流でしたが、この新聞は政治・社会・国際情報を複数ページにわたり掲載しました。しかし政府批判的な報道を理由に、同年9月29日に植民地政府から発行禁止処分を受け、わずか一号で終刊となりました。この出来事は、言論の自由と出版の規制に関する議論を呼び起こし、後のアメリカにおけるメディア史に大きな影響を与えました。
1690年
アメリカ
新聞
パブリック・オカレンシズ
ボストン
9月29日
1884年
仮名垣魯文主筆の夕刊紙『今日新聞』(後の都新聞、現在の東京新聞)が創刊。
1884年9月25日、仮名垣魯文主筆の夕刊紙『今日新聞』が創刊された。
『今日新聞』は明治時代に活躍した戯作者の仮名垣魯文が編集長を務め、政治・社会・風俗記事を意欲的に掲載した夕刊紙です。創刊当初は『都新聞』を経て後に『東京新聞』へと発展し、大衆紙として幅広い読者に支持されました。紙面は民衆の声を反映し、風刺やコラムを通じて世相を映し出した点が特徴です。地方紙的な役割も担いつつ、都市部の情報発信拠点としての地位を確立しました。この創刊は日本の新聞史におけるメディア多様化の一端を示す重要な出来事です。
1884年
仮名垣魯文
夕刊紙
都新聞
東京新聞
1912年
コロンビア大学ジャーナリズム大学院設立。
1912年にコロンビア大学にジャーナリズム大学院が創設され、専門的な報道教育の先駆けとなりました。
1912年9月25日、アメリカ・ニューヨークのコロンビア大学でジャーナリズム大学院(Graduate School of Journalism)が開学しました。世界で初の大学院レベルのジャーナリズム教育機関として設立され、報道の専門家育成に大きく寄与しました。学生は取材・編集・メディア倫理など多岐にわたるカリキュラムを学び、卒業生は新聞・雑誌・放送など各メディアで活躍しています。この設立により、ジャーナリズムが学術分野として確立され、ニュース報道の質的向上を促進しました。現在も世界的な名門校として高い評価を受け続けています。
1912年
コロンビア大学ジャーナリズム大学院
1957年
リトルロック高校事件: リトルロック市長のドワイト・D・アイゼンハワー大統領への要請で派遣された陸軍第101空挺師団の部隊に守られながら黒人学生が登校。
1957年、リトルロック高校事件でアイゼンハワー大統領が連邦軍を派遣し、黒人学生9人の登校を強行しました。
1957年9月25日、アーカンソー州リトルロックのセントラル高校に9人の黒人学生(リトルロック・ナイン)が入学しようとした際、州兵の阻止を受けました。リトルロック市長と州知事オーベル・ファーバスが人種隔離を維持しようとしたため、アイゼンハワー大統領は連邦法執行のため第101空挺師団を連邦軍指揮下に置いて派遣しました。これにより学生たちは軍の護衛を受けながら無事に校内に入ることができ、公立学校の全面的な人種統合が進展しました。事件は公民権運動の象徴的出来事となり、連邦政府の権限と州権の対立を浮き彫りにしました。以降、南部諸州における学校統合に弾みがつき、アメリカの人種差別撤廃に重要な転機をもたらしました。
1957年
リトルロック高校事件
ドワイト・D・アイゼンハワー
大統領
1972年
フランスの週刊政治ニュース雑誌『ル・ポワン』の創刊号が刊行される。
1972年9月25日、フランスで週刊政治ニュース誌『ル・ポワン』の創刊号が刊行されました。
『ル・ポワン(Le Point)』は、当時『レ・ゼクスプレス』などから独立したジャーナリストらによって創刊されました。
政治や経済、国際情勢を扱う週刊誌として中道的視点と深い分析で注目を集めました。
創刊号では社会問題や文化、経済特集を掲載し、即座に大手週刊誌の一角を占める存在に。
経営体制や誌面編集の自由度を特徴とし、読者層を拡大しました。
以後、フランス国内外で幅広い報道や解説に定評があるメディアへと成長しました。
フランス
ル・ポワン
1973年
1971年の放火によって焼失していた日比谷公園内のレストラン「松本楼」が再建される。
1973年9月25日、日比谷公園内の老舗レストラン『松本楼』が放火による火災から2年ぶりに再建され、営業を再開しました。
日比谷公園のシンボル的存在であった『松本楼』は1971年9月に発生した放火事件で建物が全焼しました。
焼失後は撤去作業が行われ、その後再建プロジェクトが始動。
耐火性を考慮した設計のもと、新店舗が1973年9月25日にオープン。
オープン当初は公園利用者や観光客に再び親しまれ、多くの人々に憩いの場を提供しました。
現在も日比谷公園の人気スポットとして賑わいを見せています。
1973年
1971年
日比谷公園
レストラン
松本楼
1981年
フジテレビ系で、同局の開局(1959年3月1日)以来長きにわたり続いたトーク番組『スター千一夜』が放送終了(放送回数6417回)。
1981年9月25日、フジテレビ系の長寿トーク番組『スター千一夜』が6417回の放送をもって終了しました。
『スター千一夜』は1959年3月1日のフジテレビ開局と同時にスタートし、各界の著名人をゲストに迎えたトーク番組として人気を集めました。
夜10時枠で放送され、世代やジャンルを越えた対談企画が特徴。
6417回にわたる放送期間は当時の日本のテレビ界でも最長クラスであり、番組終了は一つの時代の節目となりました。
視聴者の記憶に残る数々の名場面を生み出し、後続のバラエティ番組にも影響を与えました。
番組の終了は放送業界や視聴者に大きな話題を呼びました。
フジテレビ
1959年
3月1日
スター千一夜
1984年
全日本特殊浴場協会連合会が「トルコ風呂」の名称自粛を申し合わせ。年末から「ソープランド」に改称。
全日本特殊浴場協会連合会が「トルコ風呂」の名称使用を自粛し、「ソープランド」に改称を決定しました。
1984年、性的サービスを連想させるとの社会的認識の高まりを受けて、全国の特殊浴場業者団体である全日本特殊浴場協会連合会が名称変更を申し合わせました。
それまで一般的に「トルコ風呂」と呼ばれていた入浴施設は、年末から順次「ソープランド」へと改称され、業界のイメージ刷新と統一ブランドの形成が図られました。
この名称変更は日本の風俗文化や銭湯業界の歴史を語る上で重要な出来事とされています。
1984年
トルコ風呂
ソープランド
2014年
ナインティナインのオールナイトニッポン(ニッポン放送)最終回。1994年4月放送開始から20年半の歴史に幕を下ろした。
お笑いコンビ・ナインティナインがパーソナリティを務めた深夜ラジオ番組が20年半の歴史に幕を下ろした。
ナインティナインのオールナイトニッポンはお笑いコンビ・ナインティナインがパーソナリティを務める深夜ラジオ番組。
1994年4月に放送を開始し、リスナー参加企画やトークが人気を博した。
番組は20年半にわたり若者文化や流行を発信し、多くのファンを獲得した。
最終回では歴代ゲストや名場面が振り返られ、リスナーからのメッセージが紹介された。
2014年9月25日に幕を閉じ、長年の歴史に一つの区切りをつけた。
ナインティナインのオールナイトニッポン
ニッポン放送
2018年
性的暴行で有罪となっていた俳優・コメディアンのビル・コスビーにペンシルベニア州刑務所での3年から10年の懲役刑が宣告される。のち2021年6月30日、ペンシルベニア州最高裁判所は公正な審理が行われなかったとして有罪評決を破棄し釈放を認める。
有罪判決を受けたビル・コスビーに懲役刑が宣告され、後に州最高裁が判決を破棄した。
ビル・コスビーは度重なる性的暴行疑惑で裁判にかけられ、2018年9月25日に有罪判決を受けた。
ペンシルベニア州では3年から10年の懲役刑が宣告され、刑務所に収監された。
彼の有罪判決はセクハラ・暴行問題への社会的関心を高めるきっかけとなった。
しかし2021年6月30日、ペンシルベニア州最高裁が手続きの不備を理由に判決を破棄し釈放を認めた。
この判決は法的手続きと被害者保護のバランスに関する議論を呼び起こした。
2018年
コメディアン
ビル・コスビー
ペンシルベニア州
2021年
6月30日