1868年

ロシア帝国のフリゲート艦「アレクサンドル・ネフスキー(Russian frigate Alexander Nevsky)」がアレクセイ・アレクサンドロヴィッチ(Grand Duke Alexei Alexandrovich of Russia)大公を乗せた状態で難破する。

1868年9月25日、ロシア帝国のフリゲート艦アレクサンドル・ネフスキーがアレクセイ大公を乗せたまま難破した。
このフリゲート艦『アレクサンドル・ネフスキー』はロシア帝国海軍の主力艦として建造され、皇族の移動などにも用いられました。当日はアレクセイ大公を乗せた航海中に原因不明の事故が発生し、艦は難破しました。乗員や皇族に大きな被害は報告されていませんが、この事故は当時の航海技術と船体構造の限界を浮き彫りにしました。公爵の安全確保を第一に処置がとられ、帝国政府は事故原因の調査と海軍の運航体制改善を指示しました。この出来事はロシア海軍史における代表的な事故例として記録されています。
1868年 ロシア帝国 フリゲート アレクサンドル・ネフスキー Russian frigate Alexander Nevsky アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ Grand Duke Alexei Alexandrovich of Russia
1911年

トゥーロン港に停泊中の戦艦リベルテの前部の副砲の弾薬庫の一つで爆発が発生。リベルテは破壊され撃沈する。

1911年9月25日、トゥーロン港停泊中の戦艦リベルテで弾薬庫が爆発し、船体が大破・沈没した事故。
1911年9月25日、フランス海軍の戦艦リベルテ(Liberté)の前部副砲弾薬庫で大規模な爆発が発生しました。爆発は瞬時に艦体を破壊し、乗員や港湾関係者に甚大な被害をもたらしました。艦内には多数の砲弾が保管されていたため、被害は拡大し最終的にリベルテは撃沈されました。この海難事故はフランス海軍に衝撃を与え、弾薬取扱いの安全対策強化が急務となりました。事故原因は当時も完全には解明されず、現在でも謎の一つとされています。
1911年 トゥーロン リベルテ
1921年

台風が紀伊半島に上陸して名古屋市で高潮などの被害。全壊家屋5474戸、死者211人、行方不明326人。

1921年、紀伊半島に上陸した台風が名古屋市で高潮被害を引き起こし、多数の死傷者を出しました。
1921年9月25日、猛烈な台風が紀伊半島に上陸し、名古屋市を中心に高潮や暴風雨による甚大な被害をもたらしました。全壊家屋は5474戸に達し、死者211人、行方不明326人という大惨事となりました。農地や漁港も壊滅的打撃を受け、地域の生活基盤が深刻に損なわれました。当時の防災体制や警報システムの脆弱さが被害拡大の一因とされ、その後の気象観測や堤防整備強化の契機となりました。これは日本の近代気象災害史における重要な転機とされています。
1921年 紀伊半島 名古屋市
1935年

島根県波根西村の沖合で出漁中の漁船団が竜巻に遭遇。15隻が沈没して乗組員62人が死亡。

島根県波根西村沖で出漁中の漁船団が竜巻に襲われ、15隻が沈没して62人が命を落とした災害。
1935年9月25日、島根県波根西村沖で出漁中の漁船団が突如発生した竜巻に襲われました。 この激しい突風により15隻の漁船が沈没し、多くの乗組員が海に投じられました。 捜索漏れや悪天候の影響で救助活動は難航し、最終的に62人の死亡が確認されました。 地元漁業コミュニティに大きな衝撃を与え、漁船の安全対策強化が求められる契機となりました。 以降、海上天候監視と避難訓練の重要性が再認識されました。
1935年 島根県 波根西村 竜巻
1935年

茨城県日立市で、暴風雨により日立鉱山の石灰山が崩壊。住宅8戸が埋没して26人が死亡。

茨城県日立市の日立鉱山で暴風雨により石灰山が崩壊し、住宅が埋没して多数の犠牲者が出た事故。
1935年9月25日、茨城県日立市で発生した強烈な暴風雨が日立鉱山の石灰山を直撃しました。 地滑りと土砂崩れが同時に発生し、鉱山周辺の住宅8戸を土砂が押し流しました。 迅速な救助活動が行われたものの、26名の方が死亡し、地域社会に衝撃を与えました。 災害後、土砂崩れ対策として擁壁の強化や排水設備の整備が進められました。 鉱山作業の安全管理とともに、住宅地の防災対策の重要性が改めて認識されました。
茨城県 日立市 日立鉱山
1937年

大牟田爆発赤痢事件が発生。

福岡県大牟田市で爆発赤痢事件が発生し、多数が感染した公衆衛生上の危機。
1937年9月25日、福岡県大牟田市で爆発赤痢事件が発生し、急速に患者数が増加しました。 爆発赤痢は重症化しやすい腸管出血性の赤痢で、水源や衛生環境の問題が原因とされました。 当時の医療体制や衛生設備の未整備が犠牲者を増大させ、地域に大きな衝撃を与えました。 事件後、上下水道の整備や公衆衛生教育が強化され、衛生管理の重要性が広く認識される契機となりました。 なお、この事件は日本における公衆衛生史上でも警鐘を鳴らす事例として記録されています。
1937年 大牟田爆発赤痢事件
1954年

青木航空機のビーチクラフト機が乗員・乗客6人を乗せたまま消息を絶つ(青木航空機墜落事故)。

1954年、青木航空機のビーチクラフト機が乗員乗客6人を乗せたまま消息を絶ち、日本の航空史に残る未解決事故となりました。
1954年9月25日、青木航空機が運航していたビーチクラフト製小型機が搭乗者6人を乗せて飛行中、飛行経路上で突然通信を絶ちました。捜索隊による広範囲な捜索活動が展開されましたが、機体の残骸は発見されず、事故原因は明らかになっていません。事故機は小規模な定期便かチャーター便とされ、当時の日本の民間航空界に大きな衝撃を与えました。捜索期間中、地元住民や警察、海上保安庁、航空会社が協力しましたが、詳細な事故調査は進展しませんでした。以降もこの事故は航空安全の課題として語り継がれ、同様の事件への対策強化につながりました。
青木航空機墜落事故
1973年

開業を4日後に控えた西武百貨店高槻店で火災、6人死亡。原因は警備員による放火。建物の損壊が激しく、開業は1974年11月15日に延期。

1973年9月25日、開業直前の西武百貨店高槻店で発生した火災により6人が死亡。警備員の放火が原因で開業は延期されました。
1973年9月25日未明、開業予定日を4日後に控えた西武百貨店高槻店において火災が発生。 調査の結果、当時勤務していた警備員が放火を行ったことが判明しました。 火災により6名が死亡、建物は大きな損壊を受け、営業開始は1974年11月15日へと延期。 地元住民にも大きな衝撃を与え、その後のビル防火基準見直しの契機となりました。 企業の危機管理や防火対策強化が求められる重大事故として記憶されています。
西武百貨店高槻店 火災 警備員 放火 1974年 11月15日
1978年

パシフィック・サウスウエスト航空182便墜落事故。

1978年9月25日、カリフォルニア州サンディエゴ郊外でPSA182便が墜落し、乗員乗客や地上の市民を含む144名が犠牲になりました。
1978年9月25日、カリフォルニア州サンディエゴ郊外でパシフィック・サウスウエスト航空182便が墜落。 離陸後の航路変更と小型機の接近を巡る管制ミスで、セスナ機と衝突しました。 大型機は高度を失い、住宅街に墜落して炎上。 乗員乗客135名と地上の住民9名、計144名が犠牲となり、当時の西海岸最悪の航空事故に。 事故後、安全手順やレーダー装置の改善が図られました。
1978年 パシフィック・サウスウエスト航空182便墜落事故