275年

タキトゥスがローマ皇帝に即位。

ローマ帝国でタキトゥスが皇帝に即位し、新たな治世が始まりました。
タキトゥス(マルクス・クラウディウス・タキトゥス)は元老院出身の政治家・学者とされ、前皇帝アウレリアヌスの暗殺を受けて即位しました。彼は東西両帝国の再統合を試みたものの、在位期間は約半年と短命に終わりました。在位中は軍事・行政の立て直しを図り、元老院との関係強化を優先しました。政治的混乱の中で皇帝の権威回復を目指した点が後世の史家にも注目されています。
275年 タキトゥス
762年

アッバース朝に対するアリッド反乱(Alid revolt of 762–763)が始まる。

シーア派アリッド家の反乱がアッバース朝支配に対して勃発しました。
762年9月25日、アッバース朝に抵抗するシーア派の有力家門アリッド家の一派がバスラやメディナで蜂起しました。反乱軍はアッバース朝の権威に挑戦し、一時的に支配地域を拡大しましたが、中央軍の迅速な鎮圧を受けて翌年までに鎮圧されました。この事件はシーア派とスンナ派の対立構造を浮き彫りにし、後のイスラム政権下での宗派問題に大きな影響を与えました。
762年 アッバース朝 アリッド反乱 Alid revolt of 762–763
1066年

スタンフォード・ブリッジの戦い。イングランド王ハロルド2世が、弟トスティとノルウェー王ハーラル3世を破る。

イングランド王ハロルド2世がノルウェー王ハーラル3世の侵攻軍を撃退しました。
1066年9月25日、イングランド北部のスタンフォード・ブリッジ近郊で激しい戦闘が行われました。ノルウェー王ハーラル3世とイングランド王の弟トスティが率いる連合軍を、ハロルド2世は奇襲と迅速な軍の機動で迎え撃ちました。イングランド軍は圧倒的な勝利を収め、ハーラル3世は戦死しました。しかし、直後に南部からノルマン・コンクエストが迫っており、この勝利はイングランド陸軍の疲弊を招く結果ともなりました。
1066年 スタンフォード・ブリッジの戦い イングランド王 ハロルド2世 ノルウェー王 ハーラル3世
1237年

イングランド王ヘンリー3世とスコットランド王アレクサンダー2世によりヨーク条約(Treaty of York)が結ばれる。

イングランドとスコットランドの間で友好条約が締結され、国境の安定が図られました。
1237年9月25日、ヨークでヘンリー3世とアレクサンダー2世が会見し、両国間の領境や通商権を定める条約が結ばれました。このヨーク条約により、ノーサンバランドなど北部地域の帰属が明確化され、長年続いた小規模衝突に一区切りがつきました。条約締結後は比較的平穏な国境線が維持され、両王は内政安定に注力できるようになりました。
1237年 ヘンリー3世 アレクサンダー2世 ヨーク条約 Treaty of York
1340年

百年戦争: イギリスのエドワード3世とフランスのフィリップ6世がエスプシャンの停戦(Truce of Espléchin)に合意し停戦。

百年戦争において英仏両王が一時的な停戦に合意しました。
1340年9月25日、百年戦争中の英仏両軍はフランドル地方のエスプシャンで停戦協定に調印しました。エドワード3世とフィリップ6世は互いの補給線確保や市場復興を目的に、一時的な戦闘停止を決定しました。しかし、この停戦は数カ月後に破棄され、戦争は再び激化しました。両国ともに資源の枯渇を防ぎつつ、次の戦略的優位を探る時期となりました。
1340年 百年戦争 エドワード3世 フランス フィリップ6世 エスプシャンの停戦 Truce of Espléchin
1347年

フォワ伯ガストン3世によりベルン独立宣言(Déclaration d'indépendance du Béarn)がなされる。

南西フランスのフォワ伯がベアルン地方の独立を宣言しました。
1347年9月25日、フォワ伯ガストン3世はベアルン地方の独立を正式に宣言しました。これは百年戦争の混乱を背景に、地方領主の自治権強化を目指した動きでした。ガストン3世はフランス王権からの距離を置きつつ、地域内部の統治を固めました。この宣言は周辺諸侯との緊張を高め、後の外交交渉や軍事的均衡にも影響を与えました。
1347年 フォワ伯 ガストン3世 ベルン独立宣言 Déclaration d'indépendance du Béarn
観応3年8月17日

光厳上皇の皇子である弥仁王が、継体天皇の先例および孝文皇帝の故実をもとに践祚(後光厳天皇)。治天は西園寺寧子。

弥仁王が後光厳天皇として践祚し、南北朝時代の朝政が動き始めました。
観応3年8月17日(1352年9月25日)に、光厳上皇の皇子である弥仁王が践祚し、後光厳天皇として即位しました。即位の儀礼は継体天皇や中国・唐の孝文帝の例に倣って執り行われ、治天の君には西園寺寧子が任命されました。南北朝時代の複雑な権力構造の中で、上皇と治天の君の力関係調整が重要視されました。後光厳天皇は名目的な天皇として神事を司り、実務は院政と守護大名が担いました。
1352年 観応 8月17日 光厳上皇 弥仁王 継体天皇 孝文皇帝 践祚 後光厳天皇 治天 西園寺寧子
1396年

ニコポリスの戦い。バヤズィト1世率いるオスマン帝国軍がヨーロッパ諸国軍に圧勝。

オスマン帝国軍がヨーロッパ連合軍をニコポリスで大敗させました。
1396年9月25日、バルカンのニコポリスでオスマン帝国軍がフランス、ハンガリー、ブルガリアなどの連合軍と衝突しました。バヤズィト1世は集結した騎兵部隊を巧みに運用し、連合軍を包囲して壊滅させました。多くの貴族や騎士が戦死し、オスマン帝国のバルカン支配が一気に強固となりました。この勝利は東欧諸国に大きな衝撃を与え、オスマンに対抗するための連携強化を促しました。
1396年 ニコポリスの戦い バヤズィト1世 オスマン帝国
1513年

スペインの探検家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアが、ヨーロッパ人で初めて太平洋に到達。

バルボアがパナマ地峡を横断し、太平洋を初めて視認しました。
1513年9月25日、スペインの探検家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアはパナマ地峡を越えて太平洋を目の当たりにしました。これがヨーロッパ人による初の太平洋到達とされ、『南海』と命名されました。バルボアは現地先住民の案内を受けつつ険しい地形を進み、スペイン王室にその存在を報告しました。この発見は新航路開拓競争を加速させ、後の太平洋沿岸探検へと繋がりました。
1513年 バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア 太平洋
1555年

アウクスブルクの和議が成立。神聖ローマ帝国がルター派を容認。

神聖ローマ帝国がルター派を正式に容認する和議が成立しました。
1555年9月25日、神聖ローマ皇帝カール5世とプロテスタント諸侯はアウクスブルクの和議に調印しました。これにより『領主の宗教は領民の宗教』を定めるカヴェリア制度が法制化され、ルター派の公認が確立しました。宗教戦争を一時的に終結させ、帝国内の政治的安定を図る狙いがありました。しかしプロテスタント内の改革派と妥協派の対立が続き、後の三十年戦争への伏線ともなりました。
1555年 アウクスブルクの和議 神聖ローマ帝国 ルター派
1690年

アメリカで最初に発行された複数ページの新聞であるパブリック・オカレンシズがボストンで発行される。9月29日に植民地政府により発行を禁じられる。

1690年9月25日、ボストンでアメリカ初の複数ページ新聞『パブリック・オカレンシズ』が刊行されたが、わずか一号で植民地政府により発行禁止となった。
『パブリック・オカレンシズ』は1690年9月25日にベンジャミン・ハリスによって初めて刊行されたアメリカ最初の複数ページ新聞です。当時は1ページの新聞が主流でしたが、この新聞は政治・社会・国際情報を複数ページにわたり掲載しました。しかし政府批判的な報道を理由に、同年9月29日に植民地政府から発行禁止処分を受け、わずか一号で終刊となりました。この出来事は、言論の自由と出版の規制に関する議論を呼び起こし、後のアメリカにおけるメディア史に大きな影響を与えました。
1690年 アメリカ 新聞 パブリック・オカレンシズ ボストン 9月29日
1759年

七年戦争: ホイエルスヴェルダの戦い。

1759年9月25日、七年戦争の一環としてホイエルスヴェルダの戦いが行われた。
七年戦争は18世紀にヨーロッパと植民地を舞台に大国間の競争が展開された戦争です。当日はフランス軍とプロイセン王国を中心とする連合軍が激突し、戦況を左右する重要な地上戦となりました。戦闘は激しい銃砲戦と塹壕戦が特徴で、多くの損害を出しつつも戦線の押し戻しが試みられました。この戦いはその後の戦局に影響を与え、同年の他の主要会戦とも連動して戦略的意義を高めました。
1759年 七年戦争 ホイエルスヴェルダの戦い