延元3年8月11日

足利尊氏が北朝から征夷大将軍に任ぜられる。

1338年、足利尊氏が北朝より征夷大将軍に任ぜられた出来事です。 この任命により室町幕府の基礎が築かれました。
南北朝時代の混乱の中、足利尊氏が北朝から征夷大将軍に任ぜられました。 征夷大将軍は朝廷から武家政権を統制する最高権威として位置付けられる役職です。 この任命をもって室町幕府の成立が公式に認められ、日本の中世政治構造に大きな転換点を迎えました。 足利氏はこれまでの鎌倉幕府に代わる新たな武家政権を掌握し、京都を中心に権力を拡大します。 以後約240年間にわたり足利将軍家が政権を維持し、室町時代と呼ばれる時代が始まりました。
1338年 延元 8月11日 足利尊氏 北朝 征夷大将軍
1789年

アメリカ大統領ワシントンが13人を保安官に任命、連邦保安官誕生。

1789年、ジョージ・ワシントン大統領が13人の連邦保安官を任命し、連邦保安官制度が誕生。
アメリカ合衆国憲法発効後の1789年9月24日、初代大統領ジョージ・ワシントンは連邦保安官(U.S. Marshal)13名を任命しました。 連邦保安官職は連邦裁判所の執行と法令遂行を担う最初の司法執行機関として設立されました。 保安官は管区ごとに配置され、罪状の届け出、被告人の拘束、陪審員の召集など幅広い権限を与えられました。 この制度は連邦司法制度の基盤となり、現在もU.S. Marshal Serviceとして運用が続いています。 ワシントンの任命は法の支配を具現化する重要な一歩と評価されています。
1789年 アメリカ大統領 ワシントン 保安官 連邦保安官
1841年

サラワク王国が建国され建国者のジェームズ・ブルックが初代国王に即位。

1841年9月24日、ジェームズ・ブルックがサラワク王国を建国し、イギリス王室公認の初代ラジャー(国王)に即位しました。
ジェームズ・ブルックは元東インド会社の軍人で、マレー半島北西部のサラワク地方で王国を樹立した。 彼は地元の部族との同盟を結びながら反乱を鎮圧し、海賊行為を取り締まった。 1841年9月24日に正式に国王(ホワイト・ラジャー)として即位し、以後30年以上統治を続けた。 ブルック家の支配は1946年まで続き、現在のマレーシア・サラワク州の歴史に大きな影響を与えた。 植民地時代の少数例として、東南アジアで欧米人が統治者となった珍しい事例です。
1841年 サラワク王国 ジェームズ・ブルック
1853年

デポインツ提督によりニューカレドニアがフランス領として支配下に入る。

1853年9月24日、フランス海軍のデポインツ提督によりニューカレドニアがフランス領として併合されました。
ヌーベルカレドニー(ニューカレドニア)は南太平洋の島嶼地域で、先住民族のカナックが居住していた。 1853年9月24日、デポインツ提督率いるフランス艦隊が上陸し、正式にフランス植民地として宣言した。 以降、植民地経営の拠点として開発が進められ、鉱山資源の開発や入植地建設が行われた。 先住民族との軋轢や反乱もあったが、最終的にイギリスなど他の欧米列強との競争を制した。 現在もフランス海外領土として特別な地位を持ち、多様な文化が共存する地域となっている。
1853年 デポインツ 英語版 ニューカレドニア
1932年

不可触民のためのインド州議会議席を確保することを定めるプーナ協定がガンジーらにより合意される。

ガンジーらが不可触民の州議会議席を確保するプーナ協定を合意。
1932年9月24日、インド独立運動の指導者マハトマ・ガンジーを中心とする代表団は、英国植民地政府と共にプーナ協定を締結しました。 この協定は不可触民(ダリット)のために州議会に一定数の議席を保証する内容を定めています。 プーナ協定により貧困層や社会的弱者の政治参加が促進され、植民地支配への抵抗運動の新たな局面を迎えました。 しかし、一部では協定内容が限定的との批判も起こり、後の独立運動における社会問題の複雑化を象徴しています。 インド国民会議派とダリット指導者との対話を通じた合意形成としても歴史的意義が大きい出来事です。
1932年 不可触民 プーナ協定 英語版 ガンジー
1959年

黒いジェット機事件。神奈川県藤沢市の藤沢飛行場に米軍のU 2型偵察機が不時着。

1959年9月24日、神奈川県藤沢市の藤沢飛行場に米軍のU-2型偵察機が不時着した事件。
1959年9月24日、アメリカ空軍のU-2型高高度偵察機が神奈川県藤沢市の飛行場に不時着しました。 当時、冷戦下でソ連上空などの偵察活動を行っていたこの機体は、日本領内への侵入を避けるため緊急着陸を強いられたとされています。 日本国内では米軍機による不時着は極めて稀な出来事で、地元住民に大きな驚きと不安をもたらしました。 日米安全保障条約下での基地運用や情報保全の問題が浮き彫りとなり、日米間で説明と補償を巡る交渉が行われました。 その後、機体は詳細な検査を受けた後、アメリカへ返還されました。
1959年 黒いジェット機事件 藤沢市 藤沢飛行場 U-2型偵察機
1968年

スワジランドが国連に加盟。

1968年9月24日、アフリカ王国スワジランド(現エスワティニ)が国連に加盟しました。
スワジランドは1968年にイギリスから独立した後、同年9月24日に国際連合に加盟しました。 当時の国家元首マスワティ3世の下、国際社会への参加を強化し、外交関係を拡大しました。 加盟当初の加盟国数はわずかで、新興独立国としての期待が寄せられました。 現在はエスワティニに国名を変更し、加盟国193か国の一員として活動を続けています。 加盟以降、平和構築や開発支援など国連機関との協力を深めています。
1968年 スワジランド 国連
1973年

ギニアビサウがポルトガルからの独立を宣言。

1973年9月24日、ギニアビサウがポルトガルからの独立を正式に宣言しました。
1973年9月24日、西アフリカの旧ポルトガル領ギニアビサウが、長年の独立運動を経てポルトガルからの完全独立を宣言しました。1960年代からPAIGC(アフリカ独立党)の武装闘争と外交活動が続けられていた背景があります。宣言当初はポルトガル政府に認められませんでしたが、1974年のポルトガルの「カーネーション革命」により独立が正式に承認されました。現在9月24日は独立記念日として国民の祝日になっています。
1973年 ギニアビサウ ポルトガル
1993年

ノロドム・シハヌークがカンボジアの国王に再即位。

1993年9月24日、ノロドム・シハヌークがカンボジアの国王に再即位しました。
長年の難民生活と政治的混乱を経て、ノロドム・シハヌークが1993年9月24日にカンボジア王国の国王として再即位しました。1991年のパリ平和協定後に実施された国連主導の復興プロセスの一環として行われた王制復活です。当時、シハヌークは国家統一と和解の象徴とされ、カンボジアの安定化に寄与しました。彼の再即位は内戦終結と民主化への大きな一歩となり、多くの国際的な祝福を受けました。シハヌークは1993年から2004年まで在位し、その後も元首として影響力を保ちました。
1993年 ノロドム・シハヌーク カンボジア
1996年

9月10日に国連総会で採択された包括的核実験禁止条約に日本など71か国が署名。

1996年9月24日、日本を含む71か国が包括的核実験禁止条約(CTBT)に署名しました。
1996年9月10日に国連総会で採択された包括的核実験禁止条約は、あらゆる核爆発実験を禁止することを目的としています。条約は署名締結のため国連本部に置かれ、9月24日に日本など71か国が署名しました。署名国は地上、地下、水中、大気中などでの核実験を行わない義務を負います。CTBTは核兵器の実質的な廃絶に向けた重要な枠組みとされ、国際的な非核拡散体制の強化に寄与しました。ただし、発効には一定数の核保有国の批准が必要であり、現在も未発効のままです。
1996年 9月10日 国連総会 包括的核実験禁止条約
2000年

イラクのサッダーム・フセイン大統領が石油の決済通貨を米ドルからユーロに変更することを表明。

イラクのサッダーム・フセイン大統領が石油取引決済通貨を米ドルからユーロへ変更すると発表しました。
2000年9月24日、当時のイラク大統領サッダーム・フセインが石油輸出における決済通貨を米ドルから欧州連合の共通通貨ユーロに変更する方針を表明しました。この発表は国際的な石油市場に大きな衝撃を与え、ドル基軸体制への挑戦とみなされました。イラクはOPEC加盟国として、石油収入の通貨を切り替えることで政治的・経済的な独立性を強調しようとしました。発表直後、国際金融市場ではドル安が加速すると見られました。しかし制裁や国際的圧力により、完全な切り替えは実現しませんでした。
イラク サッダーム・フセイン 大統領 石油 米ドル ユーロ
2000年

フランスで国民投票(référendum)が行われ大統領の任期が5年になる。

フランス国民投票で大統領の任期が5年に変更されることが承認されました。
2000年9月24日、フランスで大統領の任期を5年に変更する憲法改正を問う国民投票が実施されました。投票率は約70%に達し、多くの有権者が参加しました。改正案は賛成多数で承認され、大統領の任期変更が決定しました。この制度変更は大統領選挙と国民議会選挙の同時実施を容易にし、政治的安定を図る狙いがありました。2002年の大統領選挙から5年任期制が適用されました。
フランス 大統領