1122年
叙任権闘争: 神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世とローマ教皇カリストゥス2世がヴォルムス協約を締結。
神聖ローマ皇帝と教皇が長年の叙任権闘争を解消するためにヴォルムス協約を締結しました。両者の権限を明確に分離し、教会と国家の関係を再定義した歴史的な合意です。
1122年9月23日、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世とローマ教皇カリストゥス2世は長年続いた叙任権闘争を解決するためヴォルムス協約を締結しました。協約では皇帝が世俗領地の指名権を保持し、教皇が聖職者への叙任権を独占することで権限を明確に分離しました。ヴォルムスの帝国宮廷で調印されたこの協約は、教会と国家の関係を再定義し、中世ヨーロッパの政治秩序に大きな影響を与えました。この合意は西欧における宗教と世俗権力の均衡を象徴する画期的な出来事として評価されています。締結により両者の対立は緩和され、その後の教皇権と皇帝権の役割分担の基盤が築かれました。
1122年
叙任権闘争
神聖ローマ皇帝
ハインリヒ5世
ローマ教皇
カリストゥス2世
ヴォルムス協約
1338年
アルネマイデンの戦い: 英国と仏蘭西で始まった百年戦争最初の海戦。英国船クリストファーが3門の大砲と1門の手銃を備えており、ヨーロッパにおける海戦で史上初めて大砲が使われた。
百年戦争で記録された最初の海戦で、ヨーロッパにおいて実戦で初めて大砲が使用された戦いです。
1338年9月23日、百年戦争の一環としてイングランドとフランスの艦隊がアルネマイデン沖で衝突しました。イングランド側の艦船クリストファー号には3門の大砲と1門の手銃が搭載されており、これがヨーロッパ海戦史上初の火砲使用例となりました。大砲の導入は海戦戦術に革命をもたらし、以降の戦争技術発展に大きな影響を与えました。戦闘結果はイングランドの小さな勝利に終わり、火砲の有効性が広く認識されました。この戦いを通じて火薬兵器の配備重要性が認識され、以後の戦争技術発展に大きな影響を与えました。
1338年
アルネマイデンの戦い
百年戦争
1409年
ヘルレン(臚朐河)の戦い、明軍がモンゴル軍に勝利。
明朝の軍勢がモンゴル軍を相手に勝利を収めた戦いです。
1409年9月23日、遼河(臚朐河)流域で明軍とモンゴル軍が衝突しました。明の将兵は厳しい地形を利用し、機動力と連携に優れた戦術を展開しました。これにより数に勝るモンゴル軍を退け、北方からの脅威を一時的に緩和しました。戦いは明朝の軍事的信頼性を高め、周辺諸民族に対する威信を示す結果となりました。この勝利により明朝は北方辺境の安定化を図る重要な足掛かりを得ました。
1409年
ヘルレン(臚朐河)の戦い
英語版
明
モンゴル
1459年
薔薇戦争: ブロア・ヒースの戦いが起こる。
薔薇戦争中のブロア・ヒースの戦いが発生しました。
1459年9月23日、イングランド内乱である薔薇戦争の一幕としてヨーク派の軍がランカスター派と衝突しました。戦闘は急襲戦術が成功し、ヨーク派が勝利を収めました。ブロア・ヒースの戦いは薔薇戦争の序盤戦を象徴し、その後も続く内戦の激化を予感させるものでした。以降の王位継承争いに大きな影響を与え、両派の敵対関係を深めました。
1459年
薔薇戦争
ブロア・ヒースの戦い
天文12年8月25日
種子島西村前之浜にポルトガル人を乗せた船が漂着(鉄砲伝来)。
種子島に漂着したポルトガル船により日本に鉄砲が伝来しました。
1543年9月23日(天文12年8月25日)、種子島沖で漂流したポルトガル船が西村前之浜に到着し、鉄砲が日本に初めて伝えられました。日本の島津氏はこの新兵器に強い関心を示し、技術を迅速に模倣して生産を始めました。鉄砲の導入は日本の武士社会に大きな衝撃を与え、その後の戦国時代の戦術や兵器開発を一変させました。以降、日本各地で鉄砲鍛冶が急増し、戦国大名にとって不可欠な装備となりました。また、鉄砲生産の技術はポルトガル人から直接学ぶことで日本独自の改良が進められました。
1543年
天文
8月25日
種子島
ポルトガル人
鉄砲伝来
1561年
スペイン王フェリペ2世がフロリダでの植民地化を停止するよう命ずるセドゥラを発布。
スペイン王フェリペ2世がフロリダ植民地化の中止を命じる勅令を発布しました。
1561年9月23日、スペイン王フェリペ2世は新大陸フロリダでの植民地化を一時中止するよう命じるセドゥラ(王命勅令)を発布しました。これは過酷な気候や先住民との衝突、経費増大などを背景とした判断でした。この勅令によりフロリダのスペイン人入植活動は停滞し、後の植民地政策にも影響を与えました。フェリペ2世の治世下での海外領土管理の一例として重要な歴史的文書です。この命令はスペイン帝国の植民地政策の見直しを示す一例として注目されます。
1561年
スペイン王
フェリペ2世
フロリダ
セドゥラ
英語版
1568年
サン・フアン・デ・ウルアの戦いが起こる。英西間の貿易紛争。
英西間の貿易紛争が原因でサン・フアン・デ・ウルアの戦いが発生しました。
1568年9月23日、メキシコ湾沖のサン・フアン・デ・ウルアでイングランドとスペインの艦隊が衝突しました。イングランド人商船を襲撃したスペイン海軍と、それに反撃するイングランド艦隊との間で激しい戦闘が繰り広げられました。戦闘はスペインの優勢で終わり、多数の英商船が拿捕または撃沈されました。この事件は両国間の緊張を一層高め、後のイギリス海賊活動や英西戦争へつながるきっかけとなりました。この海戦は英西間の海洋覇権争いの前兆とされます。
1568年
サン・フアン・デ・ウルアの戦い
英語版
慶長2年8月12日
慶長の役:南原城の戦いが始まる。
朝鮮の慶長の役で南原城の戦いが始まりました。
1597年9月23日(慶長2年8月12日)、豊臣秀吉の命により行われた朝鮮出兵(慶長の役)において南原城の戦いが勃発しました。李如松率いる明軍と朝鮮軍は、秀吉軍の攻撃から城を守るため激しい防戦を展開しました。戦闘は城郭戦術と野戦が混在し、兵站や補給の困難さが両軍を苦しめました。この一戦は朝鮮半島における抗日連合軍の連携ぶりと日本軍との攻防を象徴する重要な出来事です。結果は膠着状態となり、その後の補給線の確保が両軍の課題として浮き彫りになりました。
1597年
慶長
8月12日
慶長の役
南原城の戦い
1641年
10万ポンド以上の金(今日では10億ポンド以上の価値がある)の宝物を運ぶイギリス商船マーチャント・ロイヤルがランズエンド岬沖の海で沈没する。
イギリス商船マーチャント・ロイヤルが貴重な宝物を積んだまま沈没しました。
1641年9月23日、イギリス東インド会社所属の商船マーチャント・ロイヤル号がランズエンド岬沖で暴風雨に遭い沈没しました。当時で10万ポンド以上、現代の価値で10億ポンド以上とも言われる金銀財宝を積載していたため沈没は大きな衝撃を与えました。船体や積荷の一部は後世にわたって沈没地点での探索対象となり、多数の引き揚げ計画が実行されました。この事故は17世紀の海上貿易の危険性と財宝輸送のリスクを象徴しています。財宝引き揚げの試みは現代に至るまで断続的に行われています。
1641年
ポンド
イギリス
マーチャント・ロイヤル
英語版
ランズエンド岬
1779年
アメリカ独立戦争: フランボルーヘッドの戦い。
アメリカ独立戦争中のフランボルーヘッドの戦いが行われました。
1779年9月23日、アメリカ独立戦争中に海軍軍人ジョン・ポール・ジョーンズ率いるアメリカ艦隊とイギリス艦隊がフランボルーヘッド沖で衝突しました。ジョーンズは戦闘中に『我に追従せよ』と叫んだとされるエピソードで知られています。アメリカ側は戦術的には後退しましたが、イギリス艦に対して大きなダメージを与えました。この戦いはアメリカ海軍史における象徴的な出来事とされ、その勇敢な戦いぶりは広く語り継がれています。この逸話は独立戦争中の士気高揚に寄与しました。
1779年
アメリカ独立戦争
フランボルーヘッドの戦い
英語版
1780年
アメリカ独立戦争: イギリス人将校ジョン・アンドレをスパイ容疑で逮捕。
1780年9月23日、アメリカ独立戦争中にイギリス軍の将校ジョン・アンドレがスパイ容疑で逮捕されました。
ジョン・アンドレは英国軍の少佐で、ベネディクト・アーノルドとの密約を示す文書を所持していました。
大陸軍に捕らえられた彼の逮捕はイギリス側の陰謀を暴露し、アーノルドの裏切りを阻止するきっかけとなりました。
歴史的には、捕虜となったアンドレは裁判の末に死刑判決を受け、1780年10月2日に処刑されました。
この事件は独立戦争の情勢を大きく揺るがし、アメリカ軍の士気を高める要因となりました。
スパイ活動が正面戦闘だけでなく情報戦としても重要視される契機ともなりました。
1780年
アメリカ独立戦争
ジョン・アンドレ
1803年
第二次マラーター戦争: アッサイェの戦い。
1803年9月23日、第二次マラーター戦争中にアッサイェの戦いが起こり、イギリス東インド会社軍が勝利しました。
アッサイェの戦いはインド西部のアッサイェ近郊で行われました。
イギリス東インド会社軍は若きアーサー・ウェルズリー(後のウェリントン公爵)が指揮を執り、マラーター同盟軍を迎え撃ちました。
激戦の末、イギリス軍は塹壕戦や砲兵を効果的に活用し、マラーター軍を退けることに成功しました。
この勝利はウェルズリーの名声を高め、後のインド支配における決定的な転機となりました。
戦闘によって双方に多数の犠牲者が出たものの、イギリスの戦略的優位を示す象徴的な戦いとされています。
1803年
第二次マラーター戦争
アッサイェの戦い