天祐元年8月11日

唐の昭宗が朱全忠に派遣された朱友恭・氏叔琮・蔣玄暉らの率いる兵によって暗殺される。

904年9月22日、唐の昭宗が朱全忠に派遣された武装集団に襲撃され、命を落としました。
唐末期の混乱した権力抗争のさなか、節度使として力を強めていた朱全忠が帝位を脅かした昭宗に反旗を翻しました。天祐元年8月11日(904年9月22日)、長安で昭宗は朱友恭・氏叔琮・蔣玄暉らが先導する兵士により暗殺されました。それにより朱全忠の勢力はさらに増大し、後に後梁の建国へつながります。昭宗の死は唐王朝の終焉を加速させる重要な転機となりました。暗殺の背景には朝廷内の権力闘争と軍閥の介入が深く関与していました。
904年 天祐 8月11日 昭宗 朱全忠 朱友恭
1499年

バーゼルの和約によりシュヴァーベン戦争が終結。

1499年9月22日、バーゼルの和約によりシュヴァーベン戦争が正式に終結しました。
シュヴァーベン戦争は神聖ローマ帝国内部の同盟勢力間で発生した紛争で、アルザスやスイスの地域を舞台に長期化しました。1499年9月22日、スイス同盟と神聖ローマ皇帝側の代表はバーゼルで和平条約に調印し、戦闘は終結しました。この和約によりスイス諸邦の自主性は事実上承認され、帝国内での独立的地位が強化されました。戦争終結後、スイスは中立政策を志向する基礎を築き、以後のヨーロッパ政治に影響を与えました。本条約はヨーロッパの勢力均衡に影響を及ぼし、後の宗教改革期にも重要な位置を占めました。
1499年 バーゼルの和約 シュヴァーベン戦争
1504年

イタリア戦争・第二次イタリア戦争: ブロワ条約 (1504年)が締結。

1504年9月22日、第二次イタリア戦争の一環としてブロワ条約が締結され、フランスとスペインの同盟が確認されました。
第二次イタリア戦争はイタリア半島を巡るフランス王国とスペイン王国の覇権争いでした。1504年9月22日、両国はフランス・ブロワにて条約を締結し、互いの軍事支援と勢力範囲を取り決めました。この協定によりイタリア各地での戦闘は一時的に緩和され、両国は内政安定を図りました。しかし、本条約は完全な和平ではなく、後の紛争再燃を招く要因ともなりました。ヨーロッパ列強間の同盟構図を反映した重要な文書でした。
1504年 イタリア戦争 第二次イタリア戦争 ブロワ条約 (1504年)
1609年

バレンシア副王・バレンシア大司教フアン・デ・リベラが、スペイン王フェリペ3世によりこの年の4月9日に署名されたモリスコ追放を定めた勅令の公表を命令。

1609年9月22日、バレンシア副王がモリスコ追放令の公表を命じ、スペイン全土でムスリム系住民の強制移住が始まりました。
モリスコ追放令はスペイン王フェリペ3世が4月9日に署名した勅令で、改宗したムーア人(モリスコ)の国外追放を定めたものです。1609年9月22日、バレンシア副王兼大司教のフアン・デ・リベラが当地で公表を命じました。追放は1614年まで続き、多くのモリスコが地中海沿岸地域から移住を余儀なくされました。この措置はバレンシア地方の農村経済や社会構造に深刻な打撃を与え、文化的多様性の縮小を招きました。
1609年 副王 バレンシア スペイン王 フェリペ3世 4月9日 モリスコ追放
1761年

イングランド王ジョージ3世とシャーロット王妃の戴冠式。

1761年9月22日、ジョージ3世とシャーロット王妃の戴冠式がウェストミンスター寺院で華やかに行われました。
戴冠式はイギリス君主の即位を祝う最も伝統的な儀式です。1761年9月22日、 新たに王位に就いたジョージ3世と王妃シャーロットは、ロンドンのウェストミンスター寺院で正式に冠を授けられました。式典には貴族や外国使節が参列し、豪華な装飾と儀式進行が行われました。ジョージ3世の長い治世はアメリカ独立戦争などを含み、後の歴史に大きな影響を残しました。戴冠式は18世紀英国の宮廷生活と文化を象徴する行事として記憶されています。
1761年 ジョージ3世 シャーロット
フランス革命暦I年ヴァンデミール1日

フランス革命: フランス革命暦の起点とされる日。使用開始は1793年11月24日。

フランス革命暦の起点となる日として定められた。
1792年9月22日、フランス革命政府は共和暦の元日を同年8月22日と定め、その記念日をヴァンデミール1日と呼称しました。 この暦は王政廃止を象徴し、十進法に基づく月名や10進時間などが特徴でした。 実際の運用は1793年11月24日から開始され、革命の精神を日常生活に浸透させる試みでした。 しかし、複雑さや農業暦とのズレから国民には馴染まず、日常的使用は困難を伴いました。 最終的には1806年に廃止され、グレゴリオ暦に戻されました。
1792年 フランス革命 フランス革命暦 1793年 11月24日
1830年

大コロンビアからベネズエラが独立。

ベネズエラが大コロンビアから独立を宣言。
1830年9月22日、ベネズエラはシモン・ボリバルが率いる大コロンビアからの正式独立を宣言しました。 大コロンビアはコロンビア、ベネズエラ、エクアドルを含む連合共和国であり、地域的利害対立が深刻化していました。 ベネズエラ指導者らは中央集権化への不満から分離独立を選択しました。 独立後、ベネズエラは共和制を採用し、新たな憲法制定に着手しました。 この出来事は南米独立運動の重要な一章を形成しています。
1830年 大コロンビア ベネズエラ
1862年

エイブラハム・リンカーン米大統領が奴隷解放宣言第1部を発表。

リンカーン大統領が奴隷解放宣言第1部を発表。
1862年9月22日、アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンが奴隷解放宣言の最初の部分を発表しました。 この宣言は南北戦争で連邦側が戦う大義の一つとして奴隷制度廃止を明確に打ち出しました。 声明では翌1863年1月1日に反乱州内の奴隷を自由とすると宣言しました。 発表は国際的にも大きな反響を呼び、ヨーロッパ各国が北部支持を検討する契機となりました。 最終的に宣言は1863年初頭に正式に発効し、アメリカ史における画期的な出来事となりました。
1862年 エイブラハム・リンカーン 奴隷解放宣言
1885年

ランドルフ・チャーチルがアイルランド自治法運動に反対してアルスターで演説をする。

チャーチルがアルスターでアイルランド自治法に反対演説。
1885年9月22日、イギリスの政治家ランドルフ・チャーチルが北アイルランドのアルスター地方でアイルランド自治法案に強く反対する演説を行いました。 彼は自治に伴うプロテスタント住民の権利侵害を主張し、多数派意見の結集を図りました。 この演説はアルスター同盟の結成に寄与し、後の北アイルランド問題の一因ともなりました。 チャーチルの発言は英国内でも大きな議論を呼び、自治を巡る党派対立を激化させました。 その影響は20世紀初頭のアイルランド自治論争にまで及びました。
1885年 ランドルフ・チャーチル アイルランド自治法 アルスター
1896年

この日をもってヴィクトリア女王が祖父のジョージ3世を抜いて史上最長期間英王位に君臨した王となる。

ヴィクトリア女王がジョージ3世の在位記録を破り、英国王として史上最長の在位記録を更新した日です。
1837年に即位したヴィクトリア女王は、1896年のこの日までに祖父ジョージ3世の在位期間を超えました。ジョージ3世は在位59年と96日という記録を保持していましたが、ヴィクトリア女王はそれを更新して英国王として最長の在位者となりました。彼女の長期在位は長きにわたる社会変革と産業革命の時代を象徴しています。在位中には帝国主義の発展や文化隆盛、技術革新など多くの出来事が起こりました。ヴィクトリア時代と呼ばれる繁栄期の象徴として、王の在位記録更新は歴史的な一幕となりました。
1896年 ヴィクトリア女王 ジョージ3世 英王
1908年

ブルガリアがオスマン帝国からの独立を宣言。

ブルガリアがオスマン帝国から独立を宣言し、君主国として歩み始めた日です。
1908年9月22日、ブルガリア公国の国民議会はオスマン帝国からの完全独立を宣言しました。これは1878年のベルリン会議で自治公国と定められて以来の決定的な変化でした。フェルディナント公は国王を名乗り、ブルガリア王国の成立を宣言しました。この独立宣言はバルカン半島の勢力図を大きく書き換え、オスマン帝国の影響力低下を象徴する出来事となりました。ヨーロッパ列強間の緊張をも高めた歴史的な一幕です。
1908年 ブルガリア オスマン帝国 独立を宣言 英語版
1944年

第二次世界大戦: フィンランドが日本との国交を断絶。

第二次世界大戦末期の1944年9月22日、フィンランドが日本との国交を断絶しました。
第二次世界大戦末期、フィンランドはソ連との継戦継続を余儀なくされていました。 冷戦構図が色濃くなる中、1944年9月22日、フィンランド政府は日本との国交断絶を決定。 断交の背景にはソ連との停戦交渉や、枢軸国との関係を再検討する必要性がありました。 この宣言により両国間の公式な政治・商業活動は全て停止。 国交断絶は戦時下の国際関係におけるフィンランドの安全保障戦略の一環と考えられています。 戦後、フィンランドはソ連と停戦協定を締結し、独立を維持しました。
1944年 第二次世界大戦 フィンランド