455年

この年の7月9日に西ローマ皇帝に即位したアウィトゥスがローマに入る。

455年7月9日、西ローマ皇帝に即位したアウィトゥスがローマに入城した。西ローマ帝国の崩壊過程における重要な転機。
455年、ローマ帝国の西半復権を試みたアウィトゥスが内部の混乱を収拾し皇帝に選出された。7月9日、彼はローマに凱旋入城して正式に西ローマ皇帝として即位を果たした。この時期の帝国は蛮族の侵入や財政難など深刻な危機に直面していた。アウィトゥスは自身の領邦ブルグントの援軍を背景に治安回復を図ろうとした。彼の即位は新たな再建の契機と期待されたが、実際には短命政権に終わり、帝国の衰退は止められなかった。
455年 7月9日 西ローマ皇帝 アウィトゥス ローマ
1435年

アラスの和約: フランスとブルゴーニュが講和条約を締結。

フランス王国とブルゴーニュ公国がアラスの和約を締結した。百年戦争の構図を一変させる外交的合意。
1435年9月21日、フランス王シャルル7世とブルゴーニュ公フィリップ3世はアラスの和約を締結した。百年戦争中の両者はイギリスとの対立を巡って複雑な外交戦を繰り広げていた。和約によりブルゴーニュ公国はフランスに対して中立を誓い、イギリスとの連携を断絶した。これがフランス側に有利な転機となり、戦局を一変させる要因となった。条約の内容には領地の返還や婚姻関係の規定などが盛り込まれている。
1435年 アラスの和約 フランス ブルゴーニュ
1792年

フランス革命:フランスの国民公会が君主制廃止・共和制宣言を議決。フランス第一共和政が開始。

国民公会が君主制廃止と共和制宣言を議決し、第一共和政が始動した。フランス革命の重要な転換点。
1792年9月21日、フランス国民公会は君主制廃止と共和制の宣言を議決し、第一共和政を始動させた。ルイ16世失脚後の政治混乱を背景に、旧体制の根本的な変革が断行された。共和制の導入はフランス革命の急進化を象徴する出来事である。新政府は国王処刑や革命戦争を推進し、国内外に衝撃を与えた。その後のヨーロッパの政治地図を大きく塗り替える契機となった。
1792年 フランス革命 フランス 国民公会 君主制 共和制 フランス第一共和政
光緒24年8月6日

戊戌の政変の終焉: 西太后が戊戌の変法を推進していた官僚らを粛清。変法を支持していた光緒帝を幽閉した。

戊戌の政変の終幕として、西太后が変法派を一掃し、光緒帝を幽閉しました。
1898年9月21日(光緒24年8月6日)、戊戌の政変(百日維新)が西太后の主導により終焉を迎えました。 康有為や梁啓超ら改革派官僚は一斉に粛清され、教育・軍制などの改革は頓挫します。 西太后は改革を危険視し、同日夜に光緒帝を紫禁城内に幽閉して実権を掌握しました。 このクーデターにより清朝の近代化路線は挫折し、その後の辛亥革命へとつながる歴史的転換点となりました。
1898年 光緒 8月6日 戊戌の政変 西太后 戊戌の変法 光緒帝
1918年

米騒動などにより寺内正毅内閣が総辞職。

全国的な米騒動の激化を受け、寺内正毅内閣が総辞職を余儀なくされました。
1918年9月21日、日本各地で米価高騰に抗議する『米騒動』が激化し、社会不安が拡大しました。 政府は当初鎮圧を試みましたが、騒動は沈静化せず世論の非難が高まりました。 信任を失った寺内正毅内閣は同日総辞職を表明し、大正デモクラシーの潮流を象徴する出来事となりました。 この政変は以後の政治改革や労働運動の高まりにも影響を与えました。
1918年 米騒動 寺内正毅内閣
1920年

ポール・デシャネルが精神状況の悪化の為フランスの大統領職を辞任。

フランス大統領ポール・デシャネルが精神状態の悪化により辞任しました。
1920年9月21日、第三共和政フランスの大統領ポール・デシャネルは、公務中の奇行や精神不安定が報じられたため辞任を表明しました。 列車からの転落事故や公式行事での失態が相次ぎ、政治的信頼を失っていました。 辞任後は国会による後継選出が行われ、再び政党間の妥協が試みられました。 この一連の出来事は、第三共和政の政局の脆弱さと政党政治の難しさを浮き彫りにしました。
1920年 ポール・デシャネル フランスの大統領
1933年

ライプツィヒのライヒ裁判所でこの年の2月27日に起こったドイツ国会議事堂放火事件に関する裁判が始まる。

1933年9月21日、ライプツィヒのライヒ裁判所で2月に起きたドイツ国会議事堂放火事件の裁判が始まりました。
1933年2月27日に起こったドイツ国会議事堂放火事件は、ナチ党政権樹立の転機となった謎の事件です。事件後、ヒトラーは非常事態令を発動し、共産党員を大量に逮捕して政治的基盤を固めました。その後ライプツィヒのライヒ裁判所では、放火事件の首謀者とされた共産党員たちの裁判が行われました。裁判は政治的圧力下で進められ、有罪判決が相次いだとされています。この裁判を通じてナチス政権は法的正当性を演出し、反対勢力を弾圧する口実としました。
1933年 ライプツィヒ ライヒ裁判所 2月27日 ドイツ国会議事堂放火事件
1939年

ルーマニアの第39代首相であったアルマンド・カリネスクがナチスドイツの援助を受けた鉄衛団により暗殺される。

1939年9月21日、ルーマニアの首相アルマンド・カリネスクが鉄衛団によって暗殺されました。
アルマンド・カリネスクは1939年8月からルーマニアの第39代首相を務め、親ドイツ政策を推進していました。鉄衛団(グレイシャツ)はナチスドイツの支援を受けた極右組織で、国内で勢力を拡大していました。9月21日未明、ブカレストでカリネスクは執務中に武装集団に襲撃され、その場で殺害されました。この暗殺事件はルーマニア国内の政治的混乱をさらに深刻化させ、軍部や他の極右勢力の影響力を強めました。結果としてルーマニアは枢軸国側への傾倒を一層強め、第二次世界大戦下での立場を固める要因となりました。
1939年 ルーマニア 第39代首相 アルマンド・カリネスク ナチスドイツ
1953年

北朝鮮のパイロットである盧今錫中尉がジェット戦闘機で韓国に脱走。後アメリカ合衆国に帰化してケネス・H・ロウ(Kenneth H. Rowe)の英語名を名乗る。

北朝鮮空軍の若き中尉が自機のジェット戦闘機ごと韓国へ亡命し、後にアメリカへ帰化してケネス・H・ロウの名を名乗った事件。
1953年9月21日、朝鮮戦争の休戦協定成立後まもなく、北朝鮮空軍の盧今錫中尉が自ら操縦するMiG-15ジェット戦闘機で韓国側に越境し亡命した。 彼は韓国軍に保護された後、アメリカ合衆国へ渡り帰化を果たし、ケネス・H・ロウの英名を名乗ることとなった。 亡命機はアメリカ側にとって貴重な戦利品となり、後の戦闘機研究に活用された。 盧今錫は冷戦下の軍事的・政治的インパクトを象徴する人物として知られている。 この事件は脱北者のなかでも最も劇的な逸話の一つとされている。
1953年 北朝鮮 盧今錫 アメリカ合衆国 帰化
1964年

マルタがイギリスから独立。

マルタがイギリスから独立し、主権国家として新たな歩みを始めた日。
1964年9月21日、地中海に浮かぶマルタがイギリスから正式に独立した。 長年の植民地支配を経て、マルタは連邦王国としてエリザベス2世を元首としスタートを切った。 首相ゴードン・マクィーク率いる暫定政府が誕生し、国旗と国章が制定された。 経済は観光業とサービス業を中心に急速に発展し、国家建設の礎を築いた。 独立はマルタ人のアイデンティティを強化し、国際社会への加盟への道を開いた。
1964年 マルタ イギリス
1965年

ガンビア、モルジブ、シンガポールが国連に加盟。

ガンビア、モルジブ、シンガポールの3カ国が国際連合に加盟し、国際社会の一員となった。
1965年9月21日、3つの小国が同時に国連加盟を果たした歴史的瞬間。 ガンビアは西アフリカで、モルジブはインド洋の島嶼国、シンガポールは東南アジアの都市国家として特色を持つ。 それぞれ独立後まもない時期に加盟したことで、国際的な安定と支援を受ける基盤を築いた。 加盟により、これらの国々は安全保障、経済発展、人権保護など国際的枠組みに参加可能となった。 当日は安保理の勧告を経て総会で承認され、多くの賛同を得た。
1965年 ガンビア モルジブ シンガポール 国連
1971年

バーレーン、ブータン、カタールが国連に加盟。

バーレーン、ブータン、カタールの3カ国が国連に加盟し、国際連携を強化した日。
1971年9月21日、ペルシャ湾のバーレーンとヒマラヤ山麓のブータン、産油国のカタールが国連に加盟した。 いずれも独立後間もない新興国家として参加し、国際的承認を得た。 バーレーンは英国保護領からの独立直後、ブータンは慎重な開国政策を進めつつ、 カタールは豊富な天然ガス資源を背景に急速な発展を遂げる素地を得た。 国連加盟は安全保障や経済支援、外交舞台へのアクセスを拡大し、各国の国際的地位を高めた。
1971年 バーレーン ブータン カタール