1058年
アグネス・フォン・ポワトゥーとハンガリー王アンドラーシュ1世がブルゲンラントの国境についての会合を行う。
中世ヨーロッパの国境問題を巡り、神聖ローマ皇帝摂政とハンガリー王がブルゲンラント領の境界協議を行った。
1058年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の摂政であったアグネス・フォン・ポワトゥーとハンガリー王アンドラーシュ1世がブルゲンラント領の国境線を巡り会合を開いた。
この会合は東フランク王国とハンガリー王国の国境を確定し、両国間の緊張緩和を図る試みだった。
ブルゲンラントは戦略的重要地域であり、領有権を巡る交渉は数世紀続いた。
結果として一時的な境界線が設定されたものの、両国の対立は解消されず、その後も小競り合いが続いた。
中世の国境政治と外交を象徴する出来事として知られている。
1058年
アグネス・フォン・ポワトゥー
ハンガリー王
アンドラーシュ1世
ブルゲンラント
延元元年/建武3年8月15日
北朝の光明天皇が即位。再び南北朝分離へ。
北朝の光明天皇が即位し、南北朝時代の対立が深まる重要な節目となった。
1336年、日本の建武政権を支援していた足利尊氏が京都を制圧し、後醍醐天皇に対抗する北朝を立てた。
同年、弟の光明天皇が北朝の初代天皇として即位し、南朝(後醍醐天皇)との皇位継承を巡る対立が本格化した。
これにより南北朝時代が始まり、約60年にわたる二重皇位体制が維持された。
政治的には武家と朝廷の権力関係が複雑化し、内乱が断続的に続いた。
文化・社会にも大きな影響を与えた時代の幕開けと言える。
1336年
延元
建武
8月15日
光明天皇
南北朝分離
天正8年8月12日
織田信長が、佐久間信盛に19ヶ条にわたる折檻状を突きつけ追放。
織田信長が家臣・佐久間信盛に厳しい折檻状を突きつけ、失墜させた事件。
1580年(天正8年)、織田信長は武将佐久間信盛に対し、19ヶ条にわたる不履行や怠慢を列挙した折檻状を突きつけ、領地を没収し追放した。
信盛は長年信頼された重臣であったが、度重なる軍事作戦の不手際や疑念が積み重なった結果、信長の厳しい裁定を受けた。
この措置は織田氏内での規律と統制を強化し、信長の権威を示す象徴的な事件となった。
他の家臣たちにも厳格な統制が敷かれ、織田政権の組織運営に大きな影響を与えた。
戦国時代の武将統制と内政のあり方を考える上で重要な一幕とされる。
1580年
天正
8月12日
織田信長
佐久間信盛
元和6年8月24日
伊達政宗の使節としてスペインに赴いた支倉常長が7年振りに帰国。
伊達政宗派遣の支倉常長が7年にわたるヨーロッパ使節を終え日本へ帰国しました。
支倉常長は仙台藩主伊達政宗の命を受け、慶長遣欧使節の主将として1613年に出発しました。
使節団はマニラ、アカプルコ、メキシコを経てスペインへ到達し、王室と教皇に謁見しました。
帰国途上、病気や航海の困難に直面しながらも、1620年9月20日に長崎に帰着しました。
その功績は日本とヨーロッパの文化・宗教交流の歴史に重要な足跡を残しました。
使節団は西洋の書籍や技術、宗教識字をもたらし、情報交流の先鞭をつけました。
帰国後、支倉常長の活動は幕府の対外政策に影響を与えました。
1620年
元和
8月24日
使節
支倉常長
1697年
レイスウェイク条約が締結され、大同盟戦争(プファルツ継承戦争)が終結。
戦争を終結させるレイスウェイク条約が締結され、大同盟戦争を終結させました。
レイスウェイク条約はフランス王ルイ14世と大同盟(イギリス、オランダ、神聖ローマ帝国など)との間で締結されました。
条約により、フランスは占領地を一部返還し、戦争によって失われた均衡が回復されました。
大同盟戦争(プファルツ継承戦争)は1688年から続いた欧州規模の大規模紛争でした。
条約締結後、ヨーロッパ各国は平和を享受し、経済活動の再開が進みました。
レイスウェイクの和平交渉には国際的な外交儀礼や報償問題が扱われ、近代国際法の先駆けとなりました。
1697年
レイスウェイク条約
大同盟戦争
1737年
デラウェア州のウォーキング買収が完了。
ペンシルベニア植民地で領地取得を狙ったウォーキング買収が公式に完了しました。
ウォーキング買収は、ペンシルベニア植民地総督ウィリアム・ペン2世の時代に行われた土地契約です。
契約では『歩ける範囲まで』を条件に部族から土地を取得するとされ、後に不正な手法で広大な領地が奪われました。
1737年9月20日、ウォーキング買収は公式に完了し、デラウェア地域での植民地支配が強化されました。
この事件は植民地時代の先住民との不平等な取引の象徴として知られています。
後世において、ウォーキング買収は不正行為の例として歴史教育で取り上げられています。
1737年
デラウェア州
ウォーキング買収
英語版
1792年
フランス革命: フランスで初の男子普通選挙による議会である国民公会が召集。
フランスで初の男子普通選挙による国民公会が召集されました。
フランス革命の進展に伴い、1792年9月20日に国民公会がパリのラ・ロンドで開催されました。
この会議は男子普通選挙で選ばれた代表者による最初の立法府として注目されました。
従来の特権身分制を打破し、共和制移行の立法的基盤を築きました。
国民公会は王政の廃止を決議し、翌年にはルイ16世の処刑を実行しました。
この出来事は近代民主主義の発展に大きな影響を与えました。
1792年
フランス革命
フランス
普通選挙
国民公会
1860年
エドワード7世が、プリンス・オブ・ウェールズとしては初となる北米訪問を行う。
エドワード7世がプリンス・オブ・ウェールズとして初めて北米を訪問した歴史的な出来事です。
当時18歳のエドワード王子は権威を示すため、北米各地を訪れました。
訪問先ではアメリカやカナダの要人と会談を行い、外交関係を強化しました。
この旅はイギリス王室の影響力を展示するとともに、植民地政策への関心を高めました。
北米訪問は数週間にわたり、多くの祝賀行事や晩餐会が催されました。
その後の王位継承においても影響を与えた重要な経験となりました。
1860年
エドワード7世
プリンス・オブ・ウェールズ
明治2年8月15日
明治政府が蝦夷地を「北海道」と改称する布告。
明治政府が蝦夷地を正式に「北海道」と改称した歴史的な行政布告です。
明治維新後の国土整備を進めるため、政府は蝦夷地の名称変更を決定しました。
新しい名称「北海道」は「北の海の道」を意味し、開拓の意志を示しています。
布告により、行政区画の統合や道路整備が本格化し、移民政策も活発化しました。
地域開発の指標として多くの入植者が集まり、農業や漁業が発展しました。
現在の北海道の認知と発展に繋がった画期的な出来事です。
1869年
明治
8月15日
蝦夷地
北海道
1875年
サルディニア王国が改名したイタリア王国がローマ教皇領を併合し、イタリア地域の統一を完成。(東京書籍 世界史Aの教科書より)
イタリア王国がローマ教皇領を併合し、イタリア統一を最終段階で完成させた政治的事件です。
長年にわたるイタリア統一運動の集大成として、教皇領併合が行われました。
サルディニア王国から改名したイタリア王国は、教皇国家の中心であるローマを支配下に収めました。
これにより、イタリア半島のほぼ全域が統一され、民族統一の象徴となりました。
教皇はバチカンに退き、世俗的権力は大きく縮小しました。
近代イタリアの成立を決定づける重要な歴史的転換点です。
1875年
イタリア王国
1881年
米大統領ジェームズ・ガーフィールドの暗殺に伴い、副大統領チェスター・A・アーサーが第21代大統領に就任。
ガーフィールド大統領の暗殺後、アーサー副大統領が第21代米国大統領に昇格しました。
1881年7月、ガーフィールド大統領は暗殺未遂を受け療養中に死去しました。
これに伴い、副大統領チェスター・A・アーサーが法に基づき大統領職を引き継ぎました。
アーサーは公務員制改革などを推進し、米国内政に影響を与えました。
この大統領交代は米国憲法に基づく権限継承の例として歴史に残ります。
ガーフィールドの短期政権とアーサーの改革路線は対照的です。
1881年
ジェームズ・ガーフィールド
チェスター・A・アーサー
1909年
イギリスで南アフリカ法 (1909年)が国王の裁可を受け成立。翌1910年5月31日施行。
イギリスで南アフリカ法(1909年)が国王の裁可を受け成立しました。
翌年5月31日に施行され、南アフリカ連邦の基盤を築きました。
南アフリカ法(1909年)は、イギリス議会で可決された法律で、南アフリカ植民地を統合し連邦を設立する枠組みを示しました。
この法律によりケープ植民地、トランスヴァール、オレンジ自由国、ナタール植民地が連邦参加を前提に統合されました。
1909年9月20日に国王の裁可を受けて成立し、翌1910年5月31日から正式に施行されました。
設立当初は自治政府を持つ連邦として運営され、現代の南アフリカ共和国の基礎を形成しました。
植民地間の行政や立法権限の配分などが定められ、以後の南アフリカ史に大きな影響を与えました。
ただし、人種隔離政策の導入など後のアパルトヘイトにつながる制度的課題も含んでいました。
南アフリカ法 (1909年)
英語版
裁可
1910年
5月31日