明応7年8月25日

明応地震、鎌倉大仏の大仏殿が数メートル級の津波により流される。

明応地震の津波で鎌倉大仏の大仏殿が流失し、鎌倉文化に大きな被害が出た。
1498年(明応7年)、東海道沿岸を襲った強大な地震と津波により、鎌倉大仏が安置された大仏殿が崩壊し、数メートル級の波に流された。 地震は東海・南海地震の連動とされ、被害は静岡県から関東南部に及んだ。 鎌倉大仏殿は再建されず、大仏は野外に露座した状態が今日まで続いている。 この災害は中世日本の地震史において特に記録に残る大規模災害として知られる。 津波の高さや破壊力は後世の地震防災研究の重要な資料とされる。
1498年 明応 8月25日 明応地震 鎌倉大仏 津波
文化4年8月19日

永代橋崩落事故。深川富岡八幡宮の祭礼に詰め掛けた群衆が大勢巻き込まれ、1,400名もの死者・行方不明者が出た。

深川の祭礼で永代橋が崩落し、多数の死傷者が出る大惨事が発生しました。
1807年9月20日、江戸・深川地区で行われた富岡八幡宮の祭礼に多数の人々が詰めかけました。 混雑により永代橋の基礎が崩れ、橋が崩落して多くの群衆が隅田川へ転落しました。 事故により約1,400名もの死者・行方不明者が出る大惨事となりました。 この事件を受け、江戸幕府は橋梁の構造改善や安全基準の強化を検討しました。 後世、この事故は江戸時代における都市防災の重要性を示す出来事として知られています。
1807年 文化 8月19日 永代橋崩落事故 富岡八幡宮
1911年

オリンピック号がイギリス海軍のエドガー級防護巡洋艦「ホーク」と衝突。タイタニック号の事故と並び当時最大だった同客船の不沈伝説を崩す一件となった。

豪華客船オリンピック号が英国巡洋艦ホークと海上衝突しました。 「不沈船」の神話が揺らいだ事故です。
1911年9月20日、ホワイト・スター・ラインの豪華客船オリンピック号が英海軍エドガー級防護巡洋艦「ホーク」と衝突しました。 オリンピック号は当時最大級の客船であり、「不沈船」とも称されていたため、この事故は大きな注目を集めました。 衝突後、船体には大きな損傷が生じたものの、乗客の死傷者はほとんどなく、同船は自力で港へ戻りました。 この事故は後の安全規制強化や船舶衝突試験の重要性を浮き彫りにし、海上交通の安全対策に影響を与えました。 タイタニック号の悲劇と共に語られることも多く、海洋史における象徴的な出来事となりました。
オリンピック号 イギリス海軍 エドガー級防護巡洋艦 ホーク タイタニック号
1949年

武生事件。福井地裁・福井地検武生支部の建物が放火により全焼。

福井県武生で地裁支部などが放火により全焼した武生事件。
1949年9月20日、福井地裁・福井地検武生支部の建物が何者かによって放火され、全焼する事件が発生した。武生事件と呼ばれ、地元社会に大きな衝撃を与えた。当時の捜査では犯人像の特定に至らず、不透明なまま広く議論を呼んだ。建物の再建や支部機能の復旧には時間を要し、司法手続きにも影響が出た。事件は戦後混乱期の治安問題を象徴する一事例として記憶されている。
1949年 武生事件 福井地裁 福井地検
1960年

福岡県田川郡川崎町の中元寺川の堤防が集中豪雨により決壊。上尊鉱業豊州炭鉱の坑内が水没して、67人が死亡。

1960年9月20日、福岡県で集中豪雨に伴う河川決壊が発生し、67人が犠牲となった。上尊炭鉱の坑内が水没した大災害。
1960年9月20日、福岡県田川郡川崎町を流れる中元寺川の堤防が集中豪雨により決壊した。 決壊した水は上尊鉱業豊州炭鉱の坑内に流れ込み、坑夫たちを押し流した。 坑内は瞬く間に水没し、救出作業は困難を極めた。 最終的に67人の死亡が確認され、日本の炭鉱災害史上でも被害の大きい事故となった。 この災害は集中豪雨対策や河川堤防の強化など防災対策の見直しを促す契機となった。
1960年 福岡県 田川郡 川崎町 集中豪雨