紀元前480年

サラミスの海戦(9月29日説あり)。アテネ南西の水道でギリシャ軍が約2倍のペルシャ軍を撃滅。

古代ギリシアとペルシャの海上戦闘で、数的に劣るギリシャ艦隊が大勝利を収めた歴史的な海戦。
紀元前480年、ペルシャ王クセルクセス1世が率いる大艦隊に対し、ギリシャ連合艦隊が狭い海峡を舞台に迎え撃った。 アテネ南西のサラミス島付近の水道で行われたこの海戦で、ギリシャ艦隊は巧みな船団の配置と機動力を生かし、数的優位のペルシャ軍を撃破した。 この勝利はペルシャ侵攻を食い止め、ギリシア文化の発展と西洋文明の基礎を守る転機となった。 戦術や地形を利用した戦い方は後の海戦にも影響を与え、現在も戦史の研究対象となっている。 古代海戦史における最重要戦闘の一つとして知られる。
紀元前480年 サラミスの海戦 9月29日 アテネ ギリシャ ペルシャ
1058年

アグネス・フォン・ポワトゥーとハンガリー王アンドラーシュ1世がブルゲンラントの国境についての会合を行う。

中世ヨーロッパの国境問題を巡り、神聖ローマ皇帝摂政とハンガリー王がブルゲンラント領の境界協議を行った。
1058年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の摂政であったアグネス・フォン・ポワトゥーとハンガリー王アンドラーシュ1世がブルゲンラント領の国境線を巡り会合を開いた。 この会合は東フランク王国とハンガリー王国の国境を確定し、両国間の緊張緩和を図る試みだった。 ブルゲンラントは戦略的重要地域であり、領有権を巡る交渉は数世紀続いた。 結果として一時的な境界線が設定されたものの、両国の対立は解消されず、その後も小競り合いが続いた。 中世の国境政治と外交を象徴する出来事として知られている。
1058年 アグネス・フォン・ポワトゥー ハンガリー王 アンドラーシュ1世 ブルゲンラント
1066年

フルフォードの戦い。

北イングランドでノルウェー軍とイングランド軍が激突した戦闘。後の大規模戦につながる序章となった。
1066年、ヨーク近郊のフルフォード・ゲートでノルウェー王ハーラルド3世の息子ハードラダとトスティグ率いるノルウェー支援軍が、ヨーク伯およびノース人の兵士らと衝突した。 イングランド軍は敗北し、ノルウェー軍が一時的に北部を制圧した。 しかし、この勝利は持続せず、戦力を消耗したノルウェー軍はスタンフォード橋の戦いで大敗北を喫した。 イングランド南部への侵攻を目指したノルウェー軍の戦略は、後にノルマン・コンクエストへと歴史をつなげた。 イングランド王国の運命を左右した一連の戦闘の一部として語られる。
1066年 フルフォードの戦い
1187年

サラディンによるエルサレム包囲戦 (1187年)が開始。

サラディンが十字軍支配下のエルサレムを包囲し、街の奪還を目指した包囲戦。
1187年、イスラーム勢力の指導者サラディン(サラーフ・アッディーン)が率いるマムルーク朝軍が十字軍王国の要衝エルサレムに包囲を開始した。 長期間にわたる包囲戦と資源の枯渇により、城壁内の守備隊と市民は苦境に立たされた。 最終的に十字軍側は降伏し、都市はサラディンに奪還された。 この出来事は第三回十字軍の遠征開始の大きな契機となり、イスラーム世界とキリスト教世界の緊張を一段と高めた。 中世の宗教戦争史において重要な転換点とされる。
1187年 サラディン エルサレム包囲戦 (1187年) 英語版
1260年

プロイセン人によるドイツ騎士団に対するプロイセン大反乱が始まる。

プロイセン人がドイツ騎士団に対して蜂起し、騎士団支配に対する大規模反乱が始まった。
1260年、バルト海沿岸地域に居住するプロイセン人(プルーゼン)がドイツ騎士団の支配とキリスト教化政策に反発し、広範な反乱を起こした。 この反乱はプロイセン大反乱(Great Prussian Uprising)と呼ばれ、ドイツ騎士団領に対する攻撃が各地で勃発した。 騎士団は一時的に劣勢に立たされたが、救援に駆けつけた神聖ローマ帝国やリヴォニア騎士団の支援で体制を立て直した。 反乱は数年にわたり続き、プロイセン人の大多数が制圧され、騎士団領の支配が確立された。 東欧中世史における征服と抵抗の一例として知られる。
1260年 ドイツ騎士団 プロイセン大反乱 英語版
延元元年/建武3年8月15日

北朝の光明天皇が即位。再び南北朝分離へ。

北朝の光明天皇が即位し、南北朝時代の対立が深まる重要な節目となった。
1336年、日本の建武政権を支援していた足利尊氏が京都を制圧し、後醍醐天皇に対抗する北朝を立てた。 同年、弟の光明天皇が北朝の初代天皇として即位し、南朝(後醍醐天皇)との皇位継承を巡る対立が本格化した。 これにより南北朝時代が始まり、約60年にわたる二重皇位体制が維持された。 政治的には武家と朝廷の権力関係が複雑化し、内乱が断続的に続いた。 文化・社会にも大きな影響を与えた時代の幕開けと言える。
1336年 延元 建武 8月15日 光明天皇 南北朝分離
1378年

教会大分裂: 4月に選出されたローマ教皇ウルバヌス6世を支持しないフランス人枢機卿が独自に教皇選挙を行い、その結果ロベール・ド・ジュネーヴがクレメンス7世として即位。教会大分裂の始まり。

教皇ウルバヌス6世に反発したフランス枢機卿がクレメンス7世を擁立し、教会大分裂が開始された。
1378年、教皇ウルバヌス6世の教皇就任を巡り、フランス人枢機卿らがローマでの選出を認めず、独自にアヴィニョンで教皇選挙を実施した。 その結果、クレメンス7世が即位し、ローマ教皇とアヴィニョン教皇の双方が並立する教会分裂(大シスマ)が始まった。 両派は政治・国家間の対立と結びつき、ヨーロッパ諸国を二分する事態となった。 この分裂は1398年まで続き、後の教会改革運動や宗教戦争にも影響を及ぼした。 中世カトリック教会の権威と統一性が大きく損なわれた出来事。
1378年 教会大分裂 ウルバヌス6世 クレメンス7世
明応7年8月25日

明応地震、鎌倉大仏の大仏殿が数メートル級の津波により流される。

明応地震の津波で鎌倉大仏の大仏殿が流失し、鎌倉文化に大きな被害が出た。
1498年(明応7年)、東海道沿岸を襲った強大な地震と津波により、鎌倉大仏が安置された大仏殿が崩壊し、数メートル級の波に流された。 地震は東海・南海地震の連動とされ、被害は静岡県から関東南部に及んだ。 鎌倉大仏殿は再建されず、大仏は野外に露座した状態が今日まで続いている。 この災害は中世日本の地震史において特に記録に残る大規模災害として知られる。 津波の高さや破壊力は後世の地震防災研究の重要な資料とされる。
1498年 明応 8月25日 明応地震 鎌倉大仏 津波
1519年

マゼランが5隻の軍艦・265人でスペインを出航、世界一周航海に出発。

ポルトガル出身の航海者マゼランがスペイン王の援助を受け、世界一周航海のために出帆した。
1519年、フェルディナンド・マゼランはスペイン王カルロス1世の支援を得て、5隻の艦隊と265人の乗組員で出航した。 西回りでのアジア航路開拓と香料貿易の確立を目指し、未知の海域への探検が開始された。 大西洋横断後、南アメリカ南端のマゼラン海峡を発見し、太平洋を横断して太平洋諸島を経由した。 マゼラン自身はフィリピンで戦死したが、艦隊の一隻ビクトリア号が1522年にスペインに帰還し、人類初の世界一周を達成した。 この航海は地理的認識を一変させ、世界地図の作成や海洋交易に革命をもたらした。
1519年 マゼラン スペイン 世界一周
天正8年8月12日

織田信長が、佐久間信盛に19ヶ条にわたる折檻状を突きつけ追放。

織田信長が家臣・佐久間信盛に厳しい折檻状を突きつけ、失墜させた事件。
1580年(天正8年)、織田信長は武将佐久間信盛に対し、19ヶ条にわたる不履行や怠慢を列挙した折檻状を突きつけ、領地を没収し追放した。 信盛は長年信頼された重臣であったが、度重なる軍事作戦の不手際や疑念が積み重なった結果、信長の厳しい裁定を受けた。 この措置は織田氏内での規律と統制を強化し、信長の権威を示す象徴的な事件となった。 他の家臣たちにも厳格な統制が敷かれ、織田政権の組織運営に大きな影響を与えた。 戦国時代の武将統制と内政のあり方を考える上で重要な一幕とされる。
1580年 天正 8月12日 織田信長 佐久間信盛
1609年

オランダ東インド会社が平戸に日本支社の商館を開設。

オランダ東インド会社が日本に正式商館を開設し、日蘭間の貿易関係が組織化されました。
オランダ東インド会社は1602年に設立され、アジアでの香辛料貿易を展開していました。 1609年9月20日、日本の平戸に日本支社となる商館を開設しました。 これによりオランダと日本との貿易が組織的に行われ、長崎出島開設の基礎が築かれました。 商館では主に織物や銀などが取引され、日本側からは海産物や日本刀などが輸出されました。 幕府は交易を管理し、諸国の商人を統制する政策を進めました。 この商館開設は鎖国時代の日本で唯一例外的に欧州諸国と交流を維持する重要な出来事でした。
1609年 オランダ東インド会社 平戸
元和6年8月24日

伊達政宗の使節としてスペインに赴いた支倉常長が7年振りに帰国。

伊達政宗派遣の支倉常長が7年にわたるヨーロッパ使節を終え日本へ帰国しました。
支倉常長は仙台藩主伊達政宗の命を受け、慶長遣欧使節の主将として1613年に出発しました。 使節団はマニラ、アカプルコ、メキシコを経てスペインへ到達し、王室と教皇に謁見しました。 帰国途上、病気や航海の困難に直面しながらも、1620年9月20日に長崎に帰着しました。 その功績は日本とヨーロッパの文化・宗教交流の歴史に重要な足跡を残しました。 使節団は西洋の書籍や技術、宗教識字をもたらし、情報交流の先鞭をつけました。 帰国後、支倉常長の活動は幕府の対外政策に影響を与えました。
1620年 元和 8月24日 使節 支倉常長