634年

アラブ・東ローマ戦争: ダマスクス包囲戦終了。正統カリフ率いるイスラム帝国によりダマスクスが陥落。

634年、正統カリフ時代のイスラム帝国がダマスクス包囲戦を制し、ビザンツ帝国の重要都市ダマスクスを陥落させました。
634年、ムハンマド没後の正統カリフウマル・イブン・アル=ハッターブによる征服活動の一環としてダマスクス包囲戦が開始され、約1年にわたり続いた包囲が終結しました。 この戦いでイスラム帝国は東ローマ帝国支配下のシリア地方で大勝利を収め、ダマスクスを制圧したことで中東における支配基盤を確立しました。 ダマスクスはシルクロード交易の要衝であり、経済的・戦略的にも極めて重要な都市でした。 東ローマ帝国はシリア南部での勢力を失い、以降の征服活動に大きな影響を与えました。 この出来事はイスラム帝国の勢力拡大のターニングポイントとされ、後のイスラム黄金時代の礎を築きました。
634年 アラブ・東ローマ戦争 ダマスクス包囲戦 英語版 正統カリフ イスラム帝国 ダマスクス
1356年

百年戦争: ポワティエの戦い。

1356年、百年戦争の会戦の一つ、ポワティエの戦いが行われ、イングランド軍が大勝利を収めました。
ポワティエの戦いは1356年9月19日にフランス中部のポワティエ近郊で行われました。 イングランド王エドワード黒太子率いる英軍は不利な地形を巧みに利用し、数的不利を覆してフランス王ジョン2世を捕虜にしました。 この勝利により英軍は大きな戦術的優位を得るとともに、多額の身代金収入がもたらされました。 フランス国内は政治的混乱に陥り、百年戦争は英仏両国に深刻な影響を及ぼしました。 この戦闘は中世ヨーロッパ戦争史における戦術転換点の一つとされています。
1356年 百年戦争 ポワティエの戦い
1410年

ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争: マリーエンブルク包囲戦がドイツ騎士団の勝利に終わる。

1410年、ポーランド・リトアニア連合軍がテュートン騎士団の要塞マリーエンブルクを包囲しましたが、最終的に騎士団の勝利に終わりました。
ポーランド王ヴワディスワフ2世ヤギェウォとリトアニア大公ヴィータウタス率いる連合軍は、1410年7月26日からテュートン騎士団の首都マリーエンブルク城を包囲しました。 9月19日、騎士団は巧妙な奇襲と補給路の確保により包囲を突破し、連合軍を退却に追い込みました。 マリーエンブルクの維持はテュートン騎士団の勢力復活を助け、東欧における影響力を一時回復しました。 この包囲戦はグルンヴァルトの戦い後の攻勢の最終段階であり、両軍の戦術と補給戦の重要性を示す事例とされています。
1410年 ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争 マリーエンブルク包囲戦 ドイツ騎士団
1777年

アメリカ独立戦争: 第一次サラトガの戦い。(フリーマン農場の戦い)

1777年、アメリカ独立戦争中、サラトガで行われた第一次サラトガの戦い(フリーマン農場の戦い)が開戦しました。
第一次サラトガの戦いは1777年9月19日、ニューヨーク州サラトガ近郊のフリーマン農場で行われました。 イギリス軍北部方面軍司令官ジョン・バーゴインはカナダ方面から南下を図り、アメリカ軍の防衛線と衝突しました。 アメリカ軍はホレイショ・ゲイツ将軍率いる部隊が巧妙に陣地を構築し、激しい銃撃戦を展開しました。 戦闘は夜まで続き、両軍に大きな損害を与えましたが、結果的に英軍は撤退を余儀なくされ、戦略的な優勢を失いました。 この戦いはサラトガ包囲戦の序章となり、最終的にはアメリカの勝利とフランスとの同盟締結につながる重要な出来事です。
1777年 アメリカ独立戦争 第一次サラトガの戦い
1793年

フランス革命・ヴァンデー反乱: トルフー=ティフォージュの戦い。

1793年、フランス革命期のヴァンデー反乱でトルフー=ティフォージュの戦いが勃発しました。
1793年9月19日、フランス西部のヴァンデー地方で、共和政府軍と王党派の反乱勢力がトルフー(Thouars)とティフォージュ(Tifauges)周辺で激突しました。 ヴァンデー農民などからなる王党派は地形を活かしたゲリラ戦術で抵抗しましたが、共和国軍は数と火力で上回り、反乱勢力を撃退しました。 この勝利により共和政府は反乱鎮圧に向けた勢いを取り戻し、以降の弾圧が過酷化する契機となりました。 ヴァンデー反乱は革命期の内戦を象徴する事件として、後世に大きな歴史的議論を呼んでいます。 共和政府はこの戦いを契機に『山岳』(Montagne)派の権力が強化され、テルミドールのクーデターまでの一連の恐怖政治時代へとつながります。
1793年 フランス革命 ヴァンデー反乱 トルフー=ティフォージュの戦い 英語版
1799年

フランス革命戦争:ベルゲンの戦い。

1799年、フランス革命戦争の一環としてヘッセン地方でベルゲンの戦いが行われました。
ベルゲンの戦いは1799年9月19日、現在のドイツ・ヘッセン州ベルゲン近郊で行われたフランス革命戦争の一戦です。 フランス共和国軍のサーン=マルヌ軍団(Army of the Sambre and Meuse)と、オーストリア帝国軍およびロシア軍が連合を組んだ同盟軍が衝突しました。 戦闘は激しい塹壕戦や市街戦となり、両軍に多大な損害が出ましたが、決定的な勝敗はつかず互いに引き分けに終わりました。 この戦いは第一回対仏大同盟によるフランス侵攻作戦の一部で、ライン川方面での同盟軍の圧力が高まったことを象徴しています。 戦いの結果、フランス軍は後退を余儀なくされ、同盟軍はさらにライン川越えを進展させる足がかりを得ました。
1799年 フランス革命戦争 ベルゲンの戦い
1862年

南北戦争: イウカの戦い。

南北戦争中のミシシッピ州イウカで北軍と南軍が激突した戦いです。
1862年、ミシシッピ州イウカで北軍と南軍が衝突した戦闘です。 北軍はジェイコブ・ディックスナー将軍、南軍はスタンリー・M・パーク将軍が指揮を執りました。 この戦いは北軍の進撃を一時的に阻止しつつも、戦略的には北軍にとっては痛手となりました。 激しい白兵戦や砲撃が繰り広げられ、両軍とも大きな損害を被りました。 イウカの戦いはミシシッピ作戦における重要な一幕とされています。
1862年 南北戦争 イウカの戦い
1864年

南北戦争: オペクォンの戦い(第三次ウィンチェスターの戦い)

ヴァージニア州で北軍と南軍が戦ったオペクォンの戦いが行われました。
1864年、ヴァージニア州で北軍と南軍が激突したオペクォンの戦いです。 ウィンフィールド・スコット・ハンコック将軍率いる北軍と、ストーンウォール・ジャクソン部隊が南軍を指揮しました。 この戦闘は第三次ウィンチェスターの戦いとも呼ばれ、戦略的に重要なポイントを巡る争奪戦でした。 南軍は一時的に押し返すものの、最終的には北軍が優位を確立しました。 包囲と防御が繰り返された激戦で、多大な損耗を出す結果となりました。
1864年 オペクォンの戦い(第三次ウィンチェスターの戦い)
1870年

普仏戦争: パリ包囲戦が始まる。

普仏戦争において、プロイセン軍がパリを包囲しました。
1870年、普仏戦争中にプロイセン軍がパリ周辺を包囲し始めました。 包囲戦は数か月に及び、パリ市民や駐留軍は補給不足に苦しみました。 この包囲によりフランス帝政は崩壊し、第三共和政が宣言される契機となりました。 砲撃や防衛戦が激しく繰り広げられ、多くの市街地が被害を受けました。 パリ包囲戦はヨーロッパ戦争史上でも象徴的な出来事とされます。
1870年 普仏戦争 パリ包囲戦 英語版
1916年

第一次世界大戦: タボラの戦いがベルギーの勝利に終わる。

第一次世界大戦中の東アフリカ戦線におけるタボラの戦いでベルギー軍が勝利した。
1916年9月19日、第一次世界大戦中の東アフリカ戦線でタボラの戦いが行われました。 英領コンゴの植民地軍とドイツ領東アフリカのフォーストラッセが激突し、ベルギー軍が勝利を収めました。 戦いは現地の鉄道路線争奪を目的としたもので、補給線の確保が勝敗を分けました。 ベルギー軍の勝利により、ドイツ側の兵站網が大きく損なわれました。 東アフリカ戦線の戦況に影響を与えた重要な戦いとされています。
1916年 第一次世界大戦 タボラの戦い 英語版 ベルギー
1940年

ヴィトルト・ピレツキが志願してアウシュヴィッツ強制収容所にレジスタンス運動に関する情報を収集するため潜入。

ヴィトルト・ピレツキがアウシュヴィッツ潜入を志願し情報収集活動を開始。
1940年9月19日、ポーランドの軍人ヴィトルト・ピレツキが自ら志願しアウシュヴィッツ強制収容所に潜入しました。 彼は収容所内の様子やナチスの大量虐殺計画を外部に伝えるため、レジスタンス運動の情報を収集しました。 潜入レポートは後に戦後のナチス犯罪の証言資料として重要な役割を果たしました。 ピレツキの勇気ある行動は、囚人たちの状況を世界に伝える貴重な記録となりました。 彼の潜入報告は人道に対する罪を明らかにする歴史的証拠です。
1940年 ヴィトルト・ピレツキ アウシュヴィッツ強制収容所
1944年

第二次世界大戦・継続戦争: ソ連とフィンランドがモスクワ休戦協定に調印し、継続戦争が終結。

継続戦争がモスクワ休戦協定の調印により終結し、ソ連とフィンランドの戦闘が正式に停止されました。 フィンランドは領土割譲と賠償金支払いを受け入れました。
第二次世界大戦中の1944年9月19日、モスクワでソ連とフィンランドが休戦協定に調印しました。 これにより1939年から続いた継続戦争は終結し、フィンランドはソ連に対して領土の一部を割譲し、賠償金支払いを受け入れました。 合意には捕虜の交換や軍事行動の停止条件が含まれていました。 フィンランドはドイツとの同盟関係を解消し、中立化への道を歩み始めました。 この休戦は北欧における戦線の安定化と、戦後秩序の形成に大きな影響を与えました。
1944年 第二次世界大戦 継続戦争 ソ連 フィンランド モスクワ休戦協定