14年

ティベリウスがローマ皇帝に即位。

ローマ帝国の第二代皇帝ティベリウスが帝位を継承した日。
紀元14年、初代皇帝アウグストゥスの養子で後継者と定められていたティベリウスが前皇帝の死去により即位しました。 即位後は元老院と協力して行政改革や軍事遠征を推進し、帝国の北方辺境防衛を強化しました。 内政面では財政再建を図る一方、反対派の排除や密告を奨励するなど専制的な側面も見られました。 晩年はカプリ島に隠棲し、政務を側近に委ねたことで評価が分かれます。 彼の治世はローマ帝国の体制を確立させた重要な時期とされています。
14年 ティベリウス ローマ皇帝
96年

元老院の指名によりネルウァがローマ皇帝に即位。

元老院の推薦でローマ皇帝となったネルウァの治世が始まった日。
紀元96年、前皇帝ドミティアヌス暗殺後に元老院の選出で即位したネルウァ。 五賢帝の最初として知られ、寛容な政治姿勢で政敵を赦免し、財政再建を進めました。 皇帝権力を抑制し、元老院の権限回復を図ることで共和制的要素を強化しました。 また、養子制度により後継者としてトラヤヌスを指名し、帝国繁栄の基礎を築いたと評価されます。 その治世は短命でしたが、後世の皇帝選出に模範とされ、ローマ帝国の黄金時代の夜明けとなりました。
96年 元老院 ネルウァ ローマ皇帝
324年

クリュソポリスの戦い。ローマ帝国の西の正帝コンスタンティヌス1世が東の正帝リキニウスを破り、帝国全土の単独皇帝となる。

コンスタンティヌス1世がリキニウスを破り、ローマ帝国を統一した戦い。
紀元324年、ビテュニア地方のクリュソポリス(現イスタンブール近郊)で行われた戦闘。 西帝位を持つコンスタンティヌス1世が東帝リキニウス軍を撃破しました。 この勝利によりコンスタンティヌス1世は単独統治者として帝国全土を掌握。 彼はキリスト教を重視する政策を推進し、帝都をビザンティウムに移す構想を加速させました。 ローマ帝国の統一と宗教改革の礎となった歴史的な転換点です。
324年 クリュソポリスの戦い 英語版 ローマ帝国 コンスタンティヌス1世 リキニウス
1180年

フィリップ2世がフランス国王に即位。

カペー朝第3代国王フィリップ2世の治世が始まった日。
1180年、ルイ7世の死去を受けて8歳でフランス王位を継承したフィリップ2世。 幼少期からアンジュー家との紛争が続くなか、成長後は領土拡大政策を推進しました。 イングランド王リチャード1世との対立や第三回十字軍参加で名声を高めました。 中央集権化を進め、封建貴族の権力抑制や財政改革を行って王権を強化。 彼の統治はフランス王権の基礎を築いた重要な時期とされています。
1180年 フィリップ2世 フランス
1636年

ハーバード大学の設置予算を可決したマサチューセッツ湾植民地大会議が召集。

北米最古の高等教育機関、ハーバード大学の設立が承認された日。
1636年、マサチューセッツ湾植民地の立法議会が学術研究のための予算を可決。 これにより、ピューリタン指導者ジョン・ハーヴァードの寄付を受けてコロニー内に学校が設立されました。 当初はニュータウンに開校し、後にケンブリッジへ移転。 校舎や図書館の充実を図り、神学教育を中心にカリキュラムが組まれました。 後にハーバード大学と名を変え、アメリカの高等教育の先駆けとして発展を遂げました。
1636年 ハーバード大学 マサチューセッツ湾植民地
1809年

ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスの再建後初公演。

再建後のロイヤル・オペラ・ハウスが初めて公演を行った日。
1808年の火災で焼失したロンドン、コヴェントガーデンのロイヤル・オペラ・ハウスが再建を終えました。 1809年9月18日に新装開幕を迎え、オペラやバレエ作品が上演されました。 新しい舞台装置や音響設備が導入され、観客に最新鋭の劇場体験を提供。 以降、この劇場はヨーロッパ随一の文化拠点として多くの名作を初演しました。 ロンドンの芸術シーンに大きな影響を与えた象徴的な出来事です。
1809年 ロイヤル・オペラ・ハウス
1810年

スペイン王ジョゼフ・ボナパルト(ホセ1世)への忠誠を拒否したスペイン植民地チリで、植民地統治を行う政治委員会を設立することを決議。(チリの独立記念日)

チリ植民地がスペイン王への忠誠を拒否し、初の政治委員会を設立した日。
1810年、スペイン統治下のチリ植民地がジョゼフ・ボナパルトへの忠誠表明を拒否。 サンティアゴで開かれた自治会議で政治委員会を設置し、自治的な統治体制を樹立しました。 この動きは後のチリ独立戦争の契機となり、9月18日は独立記念日として祝われます。 植民地のエリート層が主導し、自由と自治を求める意識が高まる重要な転換点。 南米独立運動の先駆けとして歴史に刻まれています。
1810年 ジョゼフ・ボナパルト チリ
文政11年8月10日

シーボルト事件:シーボルトが、幕府禁制品の日本地図などを持ち出そうとしたことが、船の座礁により発覚。出国停止、および1年の取調べの後追放処分。

シーボルトが幕府禁制の地図持ち出し未遂で発覚した事件。
1828年、ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが日本地図などを密出国しようと試みました。 小舟で千葉沖を航行中に座礁したため幕府役人に発覚し、密輸未遂が露呈。 取り調べを受けた後、1年間の拘禁を経て国外追放の処分を受けました。 この事件は海外科学者の日本への影響を抑制する鎖国政策強化の契機となりました。 地図収集の目的は日本研究のためでしたが、幕府との対立を深めました。
1828年 文政 8月10日 シーボルト事件 シーボルト
1851年

『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』(現在の『ニューヨーク・タイムズ』)創刊。

現在の『ニューヨーク・タイムズ』の前身紙が創刊された日。
1851年、ヘンリー・J・レイモンドとジョージ・ジョーンズにより『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』が創刊。 中立的かつ正確な報道を目指し、政治・経済のニュースを重視した編集方針を採用しました。 当初は4ページのタブロイド版で発行部数は限られましたが、読者の支持を集めて成長。 1896年に現在の名称『ニューヨーク・タイムズ』に改称し、今日まで世界有数の新聞として評価されています。 新聞業界に大きな影響を与えた創刊からの歴史を持ちます。
1851年 ニューヨーク・タイムズ
1863年

南北戦争:チカマウガの戦い開始。

南北戦争におけるチカマウガの戦いが始まった日。
1863年9月18日、ジョージア州チカマウガで南北戦争の第二次チカマウガの前哨戦が開始。 翌19-20日には両軍が本格的に激突し、南軍が貴重な勝利を収めました。 南軍のブラガ将軍は巧妙な戦術で北軍の攻勢を退け、チャタヌーガへの進軍を阻止。 両軍合わせて約7万人が戦闘に参加し、戦死傷者は約3万人に達しました。 この勝利は南軍に戦意の上昇を与える一方、北軍に大きな痛手を残しました。
1863年 南北戦争 チカマウガの戦い
1896年

日本で松方正義が第6代内閣総理大臣に就任し、第2次松方内閣が発足。

松方正義が第6代内閣総理大臣に就任し、第2次松方内閣を発足させました。
松方正義は維新の元勲として知られ、明治期の日本政治を支えた重要人物です。第2次内閣では財政再建を最優先課題とし、紙幣整理条例の制定などで金融制度の安定を図りました。軍縮政策も推進し、軍事費削減による歳出圧縮を試みました。同時に租税改正を進める一方で、社会資本整備にも着手し近代国家の基盤を強化しました。外交面では欧米列強と協調しつつ、日本の国際的地位向上を目指しました。これらの政策は後の大日本帝国の発展に大きな影響を与えました。
1896年 松方正義 内閣総理大臣 第2次松方内閣
1898年

ファショダ事件:スーダンのファショダにて、大陸横断政策をとったフランスに対し、縦断政策をとったイギリスが到達。アフリカで初の帝国主義の衝突が起こるも、フランスが譲歩し撤退。

スーダンのファショダでフランスとイギリスが互いの縦横断政策を巡り対立しました。最終的に外交協議でフランスが撤退し、衝突は回避されました。
19世紀末のアフリカ分割競争において、フランスは東西横断政策、イギリスは南北縦断政策を掲げていました。両国の探検隊は1898年9月18日にスーダンのファショダで遭遇し、軍事的緊張が高まりました。英仏両政府は武力衝突を避け、最終的にフランスが自軍撤退を決定しました。事件はヨーロッパ列強の帝国主義政策の限界を露呈し、外交交渉の重要性を浮き彫りにしました。後に英仏協商の契機となり、両国関係の改善に貢献しました。ファショダ事件はアフリカ分割の象徴的出来事として歴史に刻まれています。
1898年 ファショダ事件 スーダン ファショダ アフリカ