1176年

ミュリオケファロンの戦い。ルーム・セルジューク朝が東ローマ帝国(コムネノス王朝)に勝利。

1176年、アナトリアでルーム・セルジューク朝が東ローマ帝国軍を破った戦いです。
ミュリオケファロンの戦いは1176年9月17日、アナトリア中央部で行われた重要な戦闘です。ルーム・セルジューク朝の軍勢は東ローマ帝国(コムネノス朝)の遠征軍を奇襲によって打ち破りました。戦場は現代トルコのミュリオケファロン近郊とされ、険しい地形が有利に働きました。帝国軍の補給線は阻まれ、多くの損失を出したことで皇帝マヌエル1世の権威は損なわれました。この勝利によってセルジューク朝はアナトリア地域での支配を強固にし、東ローマ帝国の復興の道は閉ざされました。歴史家からはマンジケルトの敗北に続く「第二のマンジケルト」と呼ばれることもあります。
1176年 ミュリオケファロンの戦い ルーム・セルジューク朝 東ローマ帝国 コムネノス王朝
1631年

三十年戦争: ブライテンフェルトの戦い

1631年の三十年戦争におけるプロテスタントとカトリックの大規模会戦です。
ブライテンフェルトの戦いは1631年9月17日(新暦)にドイツ中部で行われました。スウェーデン王グスタフ・アドルフ率いるプロテスタント連合軍が、カトリック帝国軍を率いるティリー伯爵を撃破しました。機動力を活かした戦術で帝国軍の重装歩兵を崩壊させたこの戦闘は、戦争の潮目を変える大勝利となりました。プロテスタント側はこれにより反カトリック勢力の士気を大いに高め、欧州内での影響力を拡大します。カトリック側は補給と指揮系統に問題が露呈し、戦争の長期化を余儀なくされました。歴史的には三十年戦争の重大な転換点とされています。
1631年 三十年戦争 ブライテンフェルトの戦い
1862年

南北戦争:アンティータムの戦い。

1862年の南北戦争における激戦、アンティータムの戦いが行われました。
アンティータムの戦いは1862年9月17日、メリーランド州アンティータムクリーク沿いで行われた南北戦争最大級の激戦です。北軍のジョージ・マクレラン将軍と南軍のロバート・E・リー将軍が率いる両軍約10万人が激突しました。戦闘は戦術的には膠着状態に終わったものの、リー軍が先に戦線を放棄し、北軍は戦略的勝利を得ました。約23,000人もの死傷者を出し、アメリカ史上最も犠牲者の多い1日戦闘として知られます。この結果を受けてリンカーン大統領は奴隷解放宣言の発表を決断し、戦争の性格を大きく変えました。
1862年 南北戦争 アンティータムの戦い
1894年

日清戦争:黄海海戦。

日清戦争中、黄海海戦で日本海軍と清国北洋艦隊が激突し、日本海軍が勝利を収めました。
1894年9月17日、日清戦争の最重要海戦の一つとして黄海で行われました。 日本海軍は伊東祐亨率いる艦隊を擁し、清国北洋艦隊を攻撃。 激しい砲撃戦の末、日本側は優勢を保ち、清艦数隻を撃沈または撃破しました。 この勝利により日本は制海権を掌握し、朝鮮半島への進軍を助ける形となりました。 戦後、黄海海戦は日本海軍の近代戦力を世界に示す契機となりました。
1894年 日清戦争 黄海海戦
1900年

米比戦争:マビタクの戦い。

米比戦争の一環として行われたマビタクの戦いで、フィリピン独立勢力とアメリカ軍が衝突しました。
1900年9月17日、フィリピン・アメリカ戦争(米比戦争)において、マビタク地域で開戦されました。 フィリピン独立軍はゲリラ戦術を用いてアメリカ軍の進軍を阻止しようと試みました。 一部の戦闘ではフィリピン側が優勢を保ち、アメリカ軍は補給線の脆弱性に苦しみました。 この戦いは現地住民にも影響を及ぼし、住民の避難や食糧不足が深刻化しました。 マビタクの戦いはフィリピン独立運動史における象徴的な衝突の一つとされています。
1900年 米比戦争
1939年

第二次世界大戦・ポーランド侵攻: ナチス・ドイツのポーランド侵攻に呼応する形でソ連赤軍がポーランド東部に侵攻。

ソ連赤軍がナチス・ドイツの侵攻に呼応してポーランド東部へ侵攻しました。
1939年9月17日、独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)の秘密議定書に基づき、ソ連赤軍がポーランド東部に侵攻。 ドイツ軍による西部侵攻から呼応して行われ、ポーランドは東西両面から圧迫されました。 現地住民は多くが難民となり、ソ連による行政・社会体制への組み込みが進められました。 侵攻後、ソ連はこれら地域をベラルーシ共和国およびウクライナ共和国の一部としました。 この行動はポーランド国家の崩壊を決定づけ、第二次世界大戦の東部戦線開戦を象徴する出来事となりました。
1939年 第二次世界大戦 ポーランド侵攻 ナチス・ドイツ 赤軍 ポーランド東部に侵攻
1939年

第二次世界大戦: イギリス海軍の空母カレイジャスがドイツ軍のUボートから攻撃され沈没。

イギリス海軍の空母カレイジャスがドイツ軍Uボートの攻撃で沈没しました。
1939年9月17日、第二次世界大戦下でイギリス海軍の空母カレイジャス(HMS Courageous)がドイツのUボートに雷撃され沈没。 攻撃を仕掛けたのはU-29号潜水艦で、雷撃後わずか18分ほどで艦は海中に没しました。 乗組員519名のうち、その多くが戦死または行方不明となり、艦載機を含めた戦力が大打撃を受けました。 本艦の喪失はイギリス海軍にとって初期の大きな戦訓となり、対潜戦術の見直しが急務となりました。
イギリス海軍 カレイジャス ドイツ軍 Uボート
1944年

第二次世界大戦:マーケット・ガーデン作戦開始。

連合軍がオランダ上陸を目指し、マーケット・ガーデン作戦を開始しました。
1944年9月17日、第二次世界大戦における連合軍の大規模空挺作戦「マーケット・ガーデン作戦」が開始。 イギリス第1空挺師団や米第82、101空挺師団などが戦略要衝の橋を占領するためオランダに降下しました。 地上部隊はブリッジヘッドを確保しつつライン運河やマース川を渡る計画でした。 しかし補給線の伸び悩みやドイツ軍の激しい抵抗により、最終目標のアーネム制圧は果たせませんでした。 作戦は一部成功を収めたものの、全体としては撤退を余儀なくされ、多大な損害を出しました。
1944年 マーケット・ガーデン作戦
1950年

第一次インドシナ戦争: サイゴンでアメリカから派遣されたブリンク准将らがインドシナ軍事援助顧問団を結成する。

1950年9月17日、第一次インドシナ戦争下で米軍のインドシナ軍事援助顧問団(MAAG)がサイゴンで結成された。
フランスとベトミンとの戦闘が激化する中、アメリカはフランスを支援するために少数の軍事顧問団を派遣。9月17日、サイゴンでブリンク准将らが正式にMAAGを結成した。 顧問団は現地のフランス陸軍やベトナム国家軍に対して戦術指導や装備供与を行い、戦線維持の支援を担当した。 これがアメリカのインドシナ地域への本格的関与の端緒となり、後のベトナム戦争への深刻な介入に繋がる重要な一歩とされている。
1950年 第一次インドシナ戦争 サイゴン ブリンク
1978年

エジプト大統領アンワル・アッ=サーダートとイスラエル首相メナヘム・ベギンがキャンプ・デービッド合意に調印。

1978年、エジプト大統領サーダートとイスラエル首相ベギンがキャンプ・デービッド合意に調印しました。中東和平への大きな一歩となりました。
1978年9月17日、アメリカのキャンプ・デービッドでエジプト大統領アンワル・アッ=サーダートとイスラエル首相メナヘム・ベギンが合意文書に調印しました。合意はシナイ半島の返還やパレスチナ自治問題などを含む枠組みを定め、1979年のエジプト・イスラエル平和条約締結への道を開きました。アメリカ大統領ジミー・カーターが仲介し、12日間の極秘協議を経て実現したこの合意は、敵対関係にあった両国が直接対話を行った画期的な出来事です。その後の中東和平プロセスに大きな影響を与え、国際政治における協調と妥協の重要性を示しました。
1978年 エジプト アンワル・アッ=サーダート イスラエル メナヘム・ベギン キャンプ・デービッド合意