1176年
ミュリオケファロンの戦い。ルーム・セルジューク朝が東ローマ帝国(コムネノス王朝)に勝利。
1176年、アナトリアでルーム・セルジューク朝が東ローマ帝国軍を破った戦いです。
ミュリオケファロンの戦いは1176年9月17日、アナトリア中央部で行われた重要な戦闘です。ルーム・セルジューク朝の軍勢は東ローマ帝国(コムネノス朝)の遠征軍を奇襲によって打ち破りました。戦場は現代トルコのミュリオケファロン近郊とされ、険しい地形が有利に働きました。帝国軍の補給線は阻まれ、多くの損失を出したことで皇帝マヌエル1世の権威は損なわれました。この勝利によってセルジューク朝はアナトリア地域での支配を強固にし、東ローマ帝国の復興の道は閉ざされました。歴史家からはマンジケルトの敗北に続く「第二のマンジケルト」と呼ばれることもあります。
1176年
ミュリオケファロンの戦い
ルーム・セルジューク朝
東ローマ帝国
コムネノス王朝
永禄10年8月15日
織田信長が斎藤龍興の居城だった稲葉山城に移り岐阜城と改称。
1567年、織田信長が稲葉山城を岐阜城と改称し、天下統一への足掛かりとしました。
永禄10年8月15日(1567年9月17日)、織田信長は斎藤氏が治めていた稲葉山城を攻略しました。信長は城の名称を岐阜城と改め、中国の故事にちなみ天下統一への意志を示しました。岐阜城は美濃の要衝に位置し、以後信長の拠点として機能しました。城下町も発展し、織田勢力の政治・経済の中心地となりました。この改称と拠点移転によって信長は中部地方での支配基盤を確立し、以降の東進と全国統一への道を開いた歴史的転機となりました。
1567年
永禄
8月15日
織田信長
斎藤龍興
岐阜城
1630年
ピューリタンがボストンの街を建設。
1630年、ピューリタンが北アメリカ東海岸に新たな入植地ボストンを築きました。
1630年9月17日、イギリスからのピューリタン移民団がマサチューセッツ湾に到着し、ボストンの街を建設し始めました。ジョン・ウィンスロップらが率いたこれらの入植者は宗教的自由を求め、新しいコミュニティを形成しました。ボストンは港湾都市として発展し、商業や教育の中心地へと成長を遂げます。特にハーバード大学創設などの教育機関が設立され、後のアメリカ独立運動でも重要な役割を担いました。初期の木造フェンスや小屋から始まった街は急速に拡大し、植民地社会の枠組みを形作りました。
1630年
ピューリタン
ボストン
1631年
三十年戦争: ブライテンフェルトの戦い
1631年の三十年戦争におけるプロテスタントとカトリックの大規模会戦です。
ブライテンフェルトの戦いは1631年9月17日(新暦)にドイツ中部で行われました。スウェーデン王グスタフ・アドルフ率いるプロテスタント連合軍が、カトリック帝国軍を率いるティリー伯爵を撃破しました。機動力を活かした戦術で帝国軍の重装歩兵を崩壊させたこの戦闘は、戦争の潮目を変える大勝利となりました。プロテスタント側はこれにより反カトリック勢力の士気を大いに高め、欧州内での影響力を拡大します。カトリック側は補給と指揮系統に問題が露呈し、戦争の長期化を余儀なくされました。歴史的には三十年戦争の重大な転換点とされています。
1631年
三十年戦争
ブライテンフェルトの戦い
1737年
ハノーファー選帝侯ゲオルク・アウグストがゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲンを創設。
1737年、ハノーファー選帝侯ゲオルク・アウグストがゲッティンゲン大学を創設しました。
1737年9月17日、ハノーファー選帝侯ゲオルク・アウグストはゲッティンゲンにゲオルク・アウグスト大学を創立しました。創立当初から学問の自由を掲げ、法学・神学・医学・哲学の4学部を設置しました。ルソーら著名な思想家や数学者、物理学者が教壇を務めるなど、18世紀後半から19世紀にかけてヨーロッパを代表する研究大学となりました。自由主義的な学風は「ゲッティンゲンモデル」と呼ばれ、その後の近代大学教育に大きな影響を与えました。学術図書館や研究施設も充実し、学術書刊行も盛んに行われました。
1737年
ハノーファー
選帝侯
ゲオルク・アウグスト
ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン
1787年
フィラデルフィア憲法制定会議がアメリカ合衆国憲法(案)を策定し、散会。
1787年、フィラデルフィア憲法制定会議がアメリカ合衆国憲法案を策定しました。
1787年5月25日から9月17日にかけてペンシルベニア州フィラデルフィアで開催された憲法制定会議は、既存の連合規約の不備を補うために招集されました。ジェームズ・マディソンやベンジャミン・フランクリンら代表者が議論を重ね、アメリカ合衆国憲法案をまとめました。会議は最後の議題を決定して散会し、その後各州議会での批准手続きに移行しました。この憲法案は三権分立や連邦制度を定め、現在の米国憲法の基礎となっています。締結から批准までには様々な論争がありましたが、新政府の枠組みを確立する歴史的な成果となりました。
1787年
フィラデルフィア憲法制定会議
アメリカ合衆国憲法
1789年
ウィリアム・ハーシェルが土星の衛星「ミマス」を発見。
1789年、天文学者ウィリアム・ハーシェルが土星の衛星ミマスを発見しました。
イギリス王立天文学者ウィリアム・ハーシェルは1789年9月17日、望遠鏡を用いて土星の新しい衛星ミマスを発見しました。ミマスは土星に6番目の衛星で、直径は約396キロメートルです。発見後すぐにギリシャ神話の巨人ミマスに因んで命名されました。この衛星は後に表面に巨大な衝突痕跡であるハーシェル・クレーターがあることでも知られるようになりました。ハーシェルは同時期にタイタンも発見しており、天王星発見も含め多くの功績を残しました。
1789年
ウィリアム・ハーシェル
土星
衛星
ミマス
1809年
ロシア帝国とスウェーデン王国がフィンランド戦争の講和条約「フレデリクスハムンの和約」を結ぶ。
1809年、ロシアとスウェーデンがフレデリクスハムンの和約を締結しました。
フィンランド戦争は1808年に勃発し、スウェーデンとロシアが北欧で激突しました。両国は1809年9月17日、ロシア北部のフレデリクスハムンで講和条約を結びました。和約によりスウェーデンはフィンランドをロシアに割譲し、フィンランド大公国が設置されます。この結果、バルト海地域の勢力図が大きく変化し、ロシア帝国は北欧での影響力を強化します。スウェーデンは大国としての地位を後退させ、以降の外交政策に大きな影響を与えました。
1809年
ロシア帝国
スウェーデン王国
フィンランド戦争
フレデリクスハムンの和約
1859年
ジョシュア・ノートンが自らを「合衆国皇帝にしてメキシコの庇護者ノートン1世」と宣言。
1859年、サンフランシスコのジョシュア・ノートンが自らを皇帝と称しました。
ジョシュア・ノートンは元商人で、失敗した投機の後に財産を失った後、1859年9月17日に「合衆国皇帝にしてメキシコの保護者ノートン1世」を自称しました。市民からは奇人としても愛され、彼の発行する法令やプロクラムは半ばお遊びとして受け入れられました。ノートン1世は公共交通機関や懲罰的な制裁の廃止を宣言するなど独自の政策を打ち出しました。サンフランシスコの新聞社も彼を公式に皇帝と報じ、市民は敬意をもって接しました。彼の死後も伝説は語り継がれ、アメリカのユニークな地方史として知られています。
1859年
ジョシュア・ノートン
合衆国
メキシコ
1862年
南北戦争:アンティータムの戦い。
1862年の南北戦争における激戦、アンティータムの戦いが行われました。
アンティータムの戦いは1862年9月17日、メリーランド州アンティータムクリーク沿いで行われた南北戦争最大級の激戦です。北軍のジョージ・マクレラン将軍と南軍のロバート・E・リー将軍が率いる両軍約10万人が激突しました。戦闘は戦術的には膠着状態に終わったものの、リー軍が先に戦線を放棄し、北軍は戦略的勝利を得ました。約23,000人もの死傷者を出し、アメリカ史上最も犠牲者の多い1日戦闘として知られます。この結果を受けてリンカーン大統領は奴隷解放宣言の発表を決断し、戦争の性格を大きく変えました。
1862年
南北戦争
アンティータムの戦い
1882年
1882年の大彗星が太陽表面から46万kmのところを通過し、太陽のすぐ脇でも明るく見える大彗星となった。
1882年の大彗星が太陽表面から約46万kmの距離を通過し、昼間でも肉眼で確認できるほど明るく輝きました。
1882年9月、地球近傍を通過したこの彗星は、太陽表面からわずか約46万kmの距離まで接近しました。
昼間でも観測できるほど輝き、歴史上最も明るい彗星の一つとされています。
この彗星は「クレツク族」に分類されるグループの一員で、非常に長い尾を引いて飛来しました。
当時の天文学者は日本を含む世界各地で観測を行い、その軌道や組成の研究が進められました。
現在でも「大彗星1882」を参照する際に、これほどの明るさを誇る彗星は稀であると語り継がれています。
1882年
1882年の大彗星
大彗星
1894年
日清戦争:黄海海戦。
日清戦争中、黄海海戦で日本海軍と清国北洋艦隊が激突し、日本海軍が勝利を収めました。
1894年9月17日、日清戦争の最重要海戦の一つとして黄海で行われました。
日本海軍は伊東祐亨率いる艦隊を擁し、清国北洋艦隊を攻撃。
激しい砲撃戦の末、日本側は優勢を保ち、清艦数隻を撃沈または撃破しました。
この勝利により日本は制海権を掌握し、朝鮮半島への進軍を助ける形となりました。
戦後、黄海海戦は日本海軍の近代戦力を世界に示す契機となりました。
1894年
日清戦争
黄海海戦