1380年

フランス王にシャルル6世が即位。

1380年、21歳のシャルル6世がフランス王に即位しました。ヴァロア朝の新たな時代が始まります。
1380年に父ジャン2世の死去を受けて即位したシャルル6世は、若き王としてフランスの統治を開始しました。 ヴァロア朝第9代の王となった彼は、最初は「良き王」と称えられましたが、後に精神を病み「狂王」と呼ばれるようになります。 彼の長期にわたる統治期間は、百年戦争の影響を受けるなど国内外で大きな混乱が続きました。 その統治は王権の在り方を問い直す契機となり、フランス国内の貴族と王権の関係に大きな影響を与えました。 シャルル6世の即位は中世後期フランスの政治構造に転機をもたらした歴史的出来事です。
1380年 フランス王 シャルル6世
1658年

ハーデャチ条約。

1658年、ポーランド・リトアニア共和国とコサック軍の間でハーデャチ条約が締結されました。
ウクライナ・コサック軍を擁するポーランド・リトアニア共和国は、コサックへの自治権と貴族待遇を約束しました。 条約ではウクライナを「コサック・ロシア」として三番目の共和国と位置づける構想が含まれています。 しかし、両国内外の反発やロシア帝国の圧力により、条約は十分に履行されませんでした。 この契約は東ヨーロッパにおけるウクライナの政治的地位やコサックの役割を巡る重要な転換点となりました。 後のコサック国家建設運動に影響を与え、地域の歴史に長く影響を残しました。
1658年 ハーデャチ条約 英語版
1701年

イングランド王ジェームズ2世が死去。ジャコバイトではジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートが指導者になる。

1701年、亡命中の元イングランド王ジェームズ2世が死去し、ジャコバイトはジェームズ3世を擁立しました。
ジェームズ2世は1688年の名誉革命で廃位され、フランスへ亡命していました。 彼の死去により、長子ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートがジャコバイト派から「ジェームズ3世」として支持を集めます。 これが後のジャコバイト蜂起の大義となり、18世紀前半のイギリスでの王位継承問題を複雑化させました。 ジェームズ3世はカトリック信仰を背景に復位運動を展開し、多くの支持者を引きつけました。 彼の主導はスチュアート家の正統性を巡る国際的対立を一層深めました。
1701年 イングランド王 ジェームズ2世 ジャコバイト ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート
1824年

シャルル10世がフランス王に即位。

1824年、ルイ18世の死去に伴いシャルル10世がフランス王に即位しました。
シャルル10世はブルボン王朝の復古王政を象徴する保守的な国王でした。 彼は自由主義的な改革を抑制し、王権強化を目指す政策を推進しました。 この姿勢に反発した市民や自由主義者は1830年の七月革命を起こし、シャルル10世は退位を余儀なくされます。 わずか6年間の治世の後、フランスは七月王政へと移行しました。 シャルル10世の即位と退位は、フランス近代史における王政復古時代の終わりを象徴する出来事です。
1824年 シャルル10世 フランス王
1923年

甘粕事件: 憲兵大尉甘粕正彦らがアナキストの大杉栄・伊藤野枝らを連行し、東京憲兵隊本部で絞殺。

1923年9月16日、憲兵大尉甘粕正彦らがアナキストの大杉栄・伊藤野枝を連行し、東京憲兵隊本部で絞殺した政治的弾圧事件。
大杉栄は日本の著名なアナキストであり、伊藤野枝は著作家・活動家だった。 甘粕正彦は当時の憲兵隊大尉で、権威主義的な国家体制の維持を目指していた。 事件は二人を東京憲兵隊本部に連行し、秘密裏に絞殺した形で行われた。 遺体は隠蔽され、一時は行方不明扱いとなった。 後に遺族や仲間によってその残虐性が明るみに出て、大きな社会的衝撃を呼んだ。 この事件は戦前日本の政治弾圧の象徴とされ、人権侵害の深刻さを示す出来事となった。
1923年 甘粕事件 甘粕正彦 アナキスト 大杉栄 伊藤野枝
1941年

第二次世界大戦・イラン進駐: イラン皇帝レザー・パフラヴィーが、子のモハンマド・レザー・パフラヴィーに譲位。

1941年9月16日、連合国のイラン進駐に伴い、レザー・パフラヴィー国王が息子のモハンマド・レザーに譲位した。
第二次世界大戦中、連合国はイランの油田と物資輸送路確保を目的に進駐を開始した。 1941年8月下旬、イギリス・ソ連両軍がほぼ無抵抗でイランに侵攻した。 翌月16日、親独的政策をとっていたレザー・パフラヴィーは退位を余儀なくされ、モハンマド・レザーが即位した。 新国王の治世は連合国側と協調的な関係構築を重視し、戦後イランの現代化へとつながった。 この譲位はイランの政変として国内外に大きな波紋を呼んだ。
1941年 第二次世界大戦 イラン進駐 イラン レザー・パフラヴィー モハンマド・レザー・パフラヴィー
1945年

第二次世界大戦: 香港の日本軍の岡田梅吉陸軍少将と藤田類太郎海軍中将が香港総督府でイギリス軍への降伏文書に署名し香港占領が終了。

1945年9月16日、日本軍が香港でイギリス軍に降伏文書に署名し、占領が終了した。
香港は1941年12月の戦闘で日本軍に占領され、約3年8か月にわたり日本統治下に置かれた。 連合軍は1945年8月に日本の降伏を受け香港奪還を開始した。 9月16日、岡田梅吉陸軍少将と藤田類太郎海軍中将が香港総督府で降伏文書に調印した。 これにより香港での日本の統治は正式に終わり、イギリスの植民地行政が再開された。 当時の市民生活は混乱から復旧に向かい、戦後復興の第一歩となった。
1945年 第二次世界大戦 香港 陸軍少将 海軍中将 香港占領
1955年

アルゼンチンで反ペロン派によるクーデターが勃発。フアン・ペロン大統領が失脚。

1955年9月16日、アルゼンチンで反ペロン派がクーデターを起こし、フアン・ペロン大統領が失脚しました。
アルゼンチン大統領フアン・ペロンは、労働者層を支持基盤に社会福祉政策や国家介入的経済政策を推進していた。 1955年9月16日、軍事・政治両勢力を中心とする反ペロン派がクーデターを実行し、ペロン政権を崩壊させた。 ペロンは亡命を余儀なくされ、政権は暫定政府の手に移った。 この政変はアルゼンチン政治史に大きな転換点をもたらし、国内の社会対立を深刻化させた。 ペロン政権の支持者と反対派の対立はその後数十年にわたり続き、政治的不安定要因となった。
1955年 アルゼンチン クーデター フアン・ペロン
1963年

マラヤ連邦とシンガポール・北ボルネオ・サラワクが統合し、マレーシアが建国される。

1963年9月16日、マラヤ連邦、シンガポール、北ボルネオ、サラワクが統合し、マレーシアが建国されました。
イギリスから1948年にマラヤ連邦として自治が始まった地域と、シンガポール、北ボルネオ、サラワクが連合し、1963年9月16日にマレーシアが正式に成立した。 新国家は連邦制を採用し、多民族国家としての統合と発展を目指した。 初代首相にはトゥンク・アブドゥル・ラーマンが就任し、経済成長と民族調和を促進した。 しかしシンガポールとの政治・経済対立が顕在化し、1年後の1965年にシンガポールは連邦から分離した。 マレーシア建国は東南アジアの地政学的再編と国家アイデンティティ形成の節目となった。
1963年 マラヤ連邦 シンガポール 北ボルネオ サラワク マレーシア
1971年

成田空港問題:第二次代執行が始まり 東峰十字路事件が発生する。

1971年9月16日、成田空港問題の第二次代執行が開始され、反対派と警察との衝突「東峰十字路事件」が発生しました。
成田空港建設に反対する地権者や市民団体は、土地の強制収用に反発し1966年から抗議活動を続けていました。 1971年9月16日、政府は抵抗を排除するため第二次代執行を実施し、警察部隊が現地に投入されました。 特に東峰十字路付近では抗議者と警察が激しく衝突し、多数の負傷者を出す「東峰十字路事件」が発生しました。 警察の機動隊による強制力行使は映像や写真で全国に報道され、世論を二分しました。 この事件は成田空港問題の象徴的な出来事となり、建設計画はさらなる遅延を余儀なくされました。 その後も対立は続き、地元住民と国家権力の軋轢を浮き彫りにした歴史的事件として知られています。
1971年 成田空港問題 第二次代執行 東峰十字路事件
1975年

パプアニューギニアがオーストラリアから独立。

1975年9月16日、パプアニューギニアがオーストラリアから独立し、太平洋地域の新たな国家として誕生しました。
パプアニューギニアは第二次世界大戦後、オーストラリアの委任統治領として管理されてきました。 独立に向けた準備は1960年代から進められ、憲法制定や暫定政府の組織化が行われました。 1975年9月16日、オーストラリア議会の承認を経て正式に独立を達成しました。 マイケル・ソマレが初代首相に就任し、多民族国家の統治が始まりました。 独立後は農業や資源開発を中心に国家建設が進められ、国連にも加盟しています。
1975年 パプアニューギニア オーストラリア
1975年

カーボベルデ、モザンビーク、サントメ・プリンシペが国連に加盟。

1975年9月16日、アフリカのカーボベルデ、モザンビーク、サントメ・プリンシペの3か国が国連に加盟しました。
1975年9月16日、アフリカのカーボベルデ、モザンビーク、サントメ・プリンシペの3か国が連続して国連加盟を果たしました。 これらの国々は植民地支配からの独立を経て国際社会での地位を確立しようとしていました。 カーボベルデはポルトガルからの独立直後、モザンビークは長年にわたる独立戦争の後、サントメ・プリンシペは無血独立を実現していました。 加盟により国連総会での発言権を得たこれらの新興国家は、国際援助や外交関係の拡大を図りました。 この動きはアフリカ諸国の国際的地位向上の一端として注目されました。
カーボベルデ モザンビーク サントメ・プリンシペ