1380年

フランス王にシャルル6世が即位。

1380年、21歳のシャルル6世がフランス王に即位しました。ヴァロア朝の新たな時代が始まります。
1380年に父ジャン2世の死去を受けて即位したシャルル6世は、若き王としてフランスの統治を開始しました。 ヴァロア朝第9代の王となった彼は、最初は「良き王」と称えられましたが、後に精神を病み「狂王」と呼ばれるようになります。 彼の長期にわたる統治期間は、百年戦争の影響を受けるなど国内外で大きな混乱が続きました。 その統治は王権の在り方を問い直す契機となり、フランス国内の貴族と王権の関係に大きな影響を与えました。 シャルル6世の即位は中世後期フランスの政治構造に転機をもたらした歴史的出来事です。
1380年 フランス王 シャルル6世
1400年

グリンドゥールの反乱が始まる。

1400年、ウェールズ貴族オウエン・グリンドゥールがイングランド支配への反乱を開始しました。
ウェールズ貴族オウエン・グリンドゥール(英語名オウィン・グリンドゥール)がイングランド支配に抵抗して蜂起した歴史的運動です。 この反乱はウェールズ初の国家的独立運動として知られ、数年間にわたりイングランド軍と激しい戦闘が続きました。 グリンドゥールはプリンス(太守)として認められ、一時的に領域を拡大しましたが、最終的に英軍の反撃で鎮圧されました。 反乱の鎮圧後もウェールズにおける民族自立運動の精神は受け継がれ、後世の運動に影響を与えました。
1400年 グリンドゥールの反乱
天正元年8月20日

一乗谷城の戦い: 朝倉義景が自決し、朝倉氏が滅亡。

1573年、一乗谷城の戦いで朝倉義景が自決し、越前の朝倉氏は滅亡しました。
越前国の一乗谷城を本拠とする朝倉氏は、織田信長の大軍を迎え撃ちました。 激戦の末、朝倉義景は自刃し、城は落城します。 この戦いにより朝倉氏は滅亡し、越前は織田家の支配下に入りました。 戦国時代後期の勢力図を一変させ、織田信長の中央集権的勢力拡大を象徴する出来事です。 一乗谷城跡は現在も多くの遺構が残り、歴史ファンを魅了しています。
1573年 天正 8月20日 一乗谷城の戦い 朝倉義景 朝倉氏
ユリウス暦9月6日

メイフラワー号が北アメリカを目指しイギリスのプリマスを出港。

1620年、ピューリタン移民を乗せたメイフラワー号がプリマスを出港し、新天地への航海を開始しました。
ピューリタン宗派の移民たち、いわゆるピルグリム・ファーザーズを乗せたメイフラワー号は、イギリス南部のプリマス港を出発しました。 彼らは新世界での宗教的自由と新生活を求め、過酷な大西洋航海に挑みます。 航海中は嵐や食料不足に苦しむものの、乗組員と移民は団結して困難を乗り越えました。 この航海は後のニューイングランド植民地建設の礎となり、アメリカ合衆国誕生の一端を担いました。 現在でもプリマスには再現船や博物館があり、歴史的記念として多くの人々を引きつけています。
1620年 ユリウス暦 9月6日 メイフラワー号 北アメリカ プリマス
1658年

ハーデャチ条約。

1658年、ポーランド・リトアニア共和国とコサック軍の間でハーデャチ条約が締結されました。
ウクライナ・コサック軍を擁するポーランド・リトアニア共和国は、コサックへの自治権と貴族待遇を約束しました。 条約ではウクライナを「コサック・ロシア」として三番目の共和国と位置づける構想が含まれています。 しかし、両国内外の反発やロシア帝国の圧力により、条約は十分に履行されませんでした。 この契約は東ヨーロッパにおけるウクライナの政治的地位やコサックの役割を巡る重要な転換点となりました。 後のコサック国家建設運動に影響を与え、地域の歴史に長く影響を残しました。
1658年 ハーデャチ条約 英語版
1701年

イングランド王ジェームズ2世が死去。ジャコバイトではジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートが指導者になる。

1701年、亡命中の元イングランド王ジェームズ2世が死去し、ジャコバイトはジェームズ3世を擁立しました。
ジェームズ2世は1688年の名誉革命で廃位され、フランスへ亡命していました。 彼の死去により、長子ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートがジャコバイト派から「ジェームズ3世」として支持を集めます。 これが後のジャコバイト蜂起の大義となり、18世紀前半のイギリスでの王位継承問題を複雑化させました。 ジェームズ3世はカトリック信仰を背景に復位運動を展開し、多くの支持者を引きつけました。 彼の主導はスチュアート家の正統性を巡る国際的対立を一層深めました。
1701年 イングランド王 ジェームズ2世 ジャコバイト ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート
1776年

アメリカ独立戦争: ハーレムハイツの戦い。

1776年、ハーレムハイツの戦いで大陸軍がイギリス軍を撃退し、士気を高めました。
ニューヨーク郊外のハーレムハイツで、ジョージ・ワシントン率いる大陸軍とイギリス軍が交戦しました。 大陸軍はこれまでの一連の敗北から初めて敵を退け、兵士たちの士気を大いに回復させました。 ワシントンは機動的な戦術を駆使し、少数での包囲戦に勝利しました。 この勝利は独立戦争初期の転機と位置づけられ、後の戦局にも心理的な好影響を与えました。 現在、ハーレムハイツは記念地として保存され、多くの歴史愛好家が訪れています。
1776年 アメリカ独立戦争 ハーレムハイツの戦い
1779年

アメリカ独立戦争: サバンナ包囲戦。

1779年、アメリカ独立戦争の南部戦線でサバンナ包囲戦が行われました。
ジョージア州サバンナを奪回しようとする大陸軍とフランス援軍が、イギリス軍守備隊を包囲しました。 激しい砲撃と突撃が試みられましたが、堅固な防衛陣地を誇るイギリス軍は持ちこたえました。 包囲軍は補給難や指揮系統の混乱に悩まされ、最終的に攻勢を断念しました。 この敗北は大陸軍にとって南部戦線の戦略見直しを迫る痛手となりました。 現在もサバンナには包囲戦の記念碑や遺構が残り、歴史を物語っています。
1779年 サバンナ包囲戦
1810年

メキシコ独立革命: ドロレスの叫び。ミゲル・イダルゴ神父による演説の後、農民・原住民らが決起。

1810年、ミゲル・イダルゴ神父の『ドロレスの叫び』によってメキシコ独立革命が始動しました。
ドロレス村の教会でイダルゴ神父はスペイン植民地政府の打倒と社会改革を訴える演説を行いました。 これに呼応して農民や先住民が武装蜂起し、独立運動は全国に波及します。 初期の蜂起は旧政府に大きな打撃を与え、約10年にわたる独立戦争の火ぶたが切られました。 イダルゴは後に捕らえられて処刑されますが、『メキシコ独立の父』として称えられます。 現在、9月16日は『メキシコ独立記念日』として全国で盛大に祝われています。
1810年 メキシコ独立革命 ドロレスの叫び ミゲル・イダルゴ
1824年

シャルル10世がフランス王に即位。

1824年、ルイ18世の死去に伴いシャルル10世がフランス王に即位しました。
シャルル10世はブルボン王朝の復古王政を象徴する保守的な国王でした。 彼は自由主義的な改革を抑制し、王権強化を目指す政策を推進しました。 この姿勢に反発した市民や自由主義者は1830年の七月革命を起こし、シャルル10世は退位を余儀なくされます。 わずか6年間の治世の後、フランスは七月王政へと移行しました。 シャルル10世の即位と退位は、フランス近代史における王政復古時代の終わりを象徴する出来事です。
1824年 シャルル10世 フランス王
1859年

デイヴィッド・リヴィングストンがマラウイ湖に到達する。

アフリカ大陸を探検したリヴィングストンがマラウイ湖に到達。 この成果は当時の地理学界に大きな影響を与えました。
デイヴィッド・リヴィングストンはスコットランド出身の探検家であり宣教師です。 1859年9月16日、現在のマラウイ湖に到達し、当時ヨーロッパに知られていなかった湖の存在を世界に紹介しました。 この発見により、ヨーロッパの地図にマラウイ湖が初めて正確に記載されるようになりました。 リヴィングストンの報告はアフリカ探検への関心を高め、多くの遠征隊を刺激しました。 彼の探検は後のアフリカ研究や地理学に多大な貢献を果たしました。
1859年 デイヴィッド・リヴィングストン マラウイ湖
1863年

国外で初となるアメリカの教育機関であるロバート・カレッジ(Robert College)がイスタンブールに設立。

アメリカ初の海外教育機関ロバート・カレッジがイスタンブールに設立されました。
1863年9月16日、アメリカ人宣教師チャールズ・スタンフォードが中心となりロバート・カレッジが開校しました。 同校はオスマン帝国下で西洋式教育を提供する最初の機関として設立されました。 設立当初は神学とリベラルアーツを教える大学院レベルの学校でした。 多くのトルコ指導者や知識人がこの学校で学び、現地の近代化に寄与しました。 現在も南東ヨーロッパ最古の高等教育機関として運営が続いています。
1863年 ロバート・カレッジ Robert College イスタンブール