668年

東ローマ皇帝コンスタンス2世が暗殺される。

東ローマ帝国の皇帝コンスタンス2世が暗殺され、ビザンツ帝国に動揺が広がった。\nこの事件は後継争いと政情不安を象徴します。
コンスタンス2世は641年に即位し、内政と防衛改革を推進した。\n668年9月15日、シチリア島シラクサ訪問中に暗殺される。\n暗殺の背景には宮廷内の権力闘争があったとされる。\n彼の死後、息子コンスタンティノス4世が帝位を継承した。\nこの暗殺事件はビザンツ帝国の政治的不安定さを浮き彫りにしました。
668年 東ローマ皇帝 コンスタンス2世
1440年

ジル・ド・レが逮捕されナント宗教裁判所へ出頭。

百年戦争期のフランス貴族ジル・ド・レが異端審問にかけられるため逮捕された。\n壮絶な裁判とその後の運命が歴史に影を落とします。
ジル・ド・レは聖女ジャンヌ・ダルクの戦友として知られた。\nしかし1440年9月15日、ナントの宗教裁判所によって逮捕される。\n彼には児童殺害や魔術行為の疑惑がかけられていた。\n裁判はナントおよびブルターニュの両審査機関で行われた。\n最終的に彼は有罪とされ、1440年10月に処刑される。\nこの事件は中世フランス社会の暗部を示すものとなりました。
1440年 ジル・ド・レ
1590年

ウルバヌス7世がローマ教皇に選出される(在位13日で死去。在位期間が史上最短の教皇)。

ウルバヌス7世が史上最短の13日間で終わる教皇に選出された。\n教皇就任後間もなく死去した波乱の運命。
1590年9月15日、教皇選挙会議が行われ、ウルバヌス7世が選出される。\n本名はジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・ポルタで、改革派として知られた。\n教皇は慈善事業の推進や高額課税の緩和を目指していた。\nしかし就任からわずか13日後にマラリアにより急逝する。\n在位期間の短さは史上最短記録として知られる。\nその死は教皇庁に大きな衝撃を与えた。
1590年 ウルバヌス7世 ローマ教皇
1789年

アメリカ合衆国外務省が国務省に改称され、内政の任務が割り当てられる。

アメリカ合衆国の外務省が国務省に改称され、内政業務も担当するようになった。\n政府機構の再編を象徴する出来事です。
1789年9月15日、合衆国議会は外務省(Department of Foreign Affairs)の名称変更法を可決。\n「国務省(Department of State)」に改称され、国内問題も管轄に加わる。\n初代国務長官にはトーマス・ジェファーソンが就任。\n憲法施行に伴う行政機構の整備が進められた。\nこの改編は連邦政府の役割拡大と制度確立を示す重要な一歩でした。\n国務省は現在に至るまで政府の基幹部局として機能しています。
1789年 国務省
1820年

リスボンで立憲革命開始。(ポルトガルの歴史を参照)

ポルトガルで立憲君主制を求めるリスボンの革命が開始された。\n王権に対する市民・軍の挑戦が始まります。
1820年9月15日、首都リスボンにおいて自由憲法制定を求める革命が勃発。\n軍部を中心とした指導者たちは憲法制定議会の招集を目指した。\n革命は迅速に全国に拡大し、王政への制限を要求。\n翌年1月には憲法制定議会(コークンホス・ジュニョーレス)が設立。\nポルトガルで初の憲法制定運動として歴史的意義を持つ。\nこの出来事はヨーロッパにおける立憲運動の先駆けとなりました。
1820年 リスボン ポルトガルの歴史
1821年

コスタリカ、グアテマラ、ホンジュラス、ニカラグア、エルサルバドルがそれぞれスペインからの独立を宣言。

1821年9月15日に、中央アメリカの5つの地域がスペインから独立を宣言しました。
1821年、メキシコ独立運動の影響を受けたコスタリカ、グアテマラ、ホンジュラス、ニカラグア、エルサルバドルの5地域が同日それぞれスペインからの完全な独立を宣言しました。その背景には中央アメリカ自治州の政治的不満があり、独立後は連邦国家としての試みもなされました。現在、これら5カ国では毎年9月15日を独立記念日として祝日とし、パレードや国旗掲揚など盛大な式典が行われています。
1821年 コスタリカ グアテマラ ホンジュラス ニカラグア エルサルバドル スペイン
1843年

ギリシャ王国で憲法制定を求めるクーデター。

1843年9月15日、ギリシャ王国で憲法制定を求める軍人と市民によるクーデターが発生しました。
当時のギリシャ王オットーは絶対王政を敷いており、政治的自由が制限されていました。軍人と市民が一致して首都アテネの要所を占拠し、憲法の制定と議会開設を要求しました。このクーデターに圧されたオットーは翌日、憲法制定と立憲政治の約束を余儀なくされ、絶対君主制から立憲君主制への転換点となりました。この出来事はギリシャの近代国家形成における重要な一歩とされています。
1843年 ギリシャ王国
1900年

伊藤博文らが立憲政友会を結成。

明治時代に日本初の本格政党の一つ、立憲政友会が伊藤博文らにより結成された日。
1900年のこの日、内閣総理大臣経験者の伊藤博文らが中心となり、立憲政友会を創設しました。 当時の日本は議会政治が始まったばかりで、政党の結成は近代的な民主制度の発展に大きく寄与しました。 立憲政友会は以後、与党として多くの政権を担い、20世紀前半の日本政治をリードしました。 「政友」は「政治の友たち」を意味し、政策協調や議会活動の中核を担う存在として重視されました。 この出来事は日本の政党政治の礎を築いた歴史的な転換点となりました。
1900年 伊藤博文 立憲政友会
1931年

イギリス海軍大西洋艦隊の水兵が、給与削減に抗議してストライキを起こす。(インヴァーゴードン反乱)。

イギリス海軍大西洋艦隊の水兵が給与削減に抗議し、インヴァーゴードンで反乱を起こした日。
1931年9月15日、世界恐慌の影響で賃金が削減されたことに抗議してイギリス海軍大西洋艦隊の水兵たちがストライキを実施しました。 場所はスコットランドのインヴァーゴードン港で兵士たちは艦船への乗組を拒否し軍への忠誠を一時放棄しました。 この出来事は海軍史上まれな反乱とされ政府は賃金削減を部分的に撤回して事態の沈静化を図りました。 反乱の影響でポンドが急落し英国経済に大きな衝撃を与え金融危機の一因ともされました。 インヴァーゴードン反乱は軍内労働運動の象徴的事件として記憶されています。
1931年 イギリス海軍 ストライキ インヴァーゴードン反乱
1932年

日満議定書調印。日本国が満州国を承認。

日本が満州国の独立を承認する日満議定書に調印した日。
1932年9月15日、日本政府は満州国を正式国家として承認する日満議定書に調印しました。 満州国は1931年の満州事変を経て日本の支援で樹立された傀儡国家であり国際連盟はこれを認めませんでした。 議定書調印により日本は満州における権益と影響力を確固たるものとし中国東北部への実効支配を強化しました。 この動きは国際的に批判を浴び日本の国際連盟脱退や二国間武力衝突の遠因とされています。 満州国承認は日本の昭和史における重要なターニングポイントであり太平洋戦争への道を開く一因となりました。
1932年 日満議定書 満州国 承認
1935年

ナチス・ドイツが、ユダヤ人の定義を規定しその市民権を否定するニュルンベルク法を制定。

1935年、この日ナチス・ドイツはニュルンベルク法を制定し、ユダヤ人の市民権を法的に剥奪しました。
1935年9月15日、ナチス政権下のドイツで制定されたニュルンベルク法は、アーリア人とユダヤ人の区別を明確にし、後者の公民権を否定する画期的法律でした。本法はユダヤ人の定義を親や祖父母の系譜にまで遡って規定し、ドイツ国籍を奪う根拠とされました。国会の承認を経ずに制定され、行政と司法の権限を動員して差別政策を合法化しました。この法律によりユダヤ人は公職追放や職業制限を受け、社会から排除されていきました。法的差別は次のホロコーストへの道を開き、第二次世界大戦中の大量虐殺に繋がる前段階とされます。今日では国際人権法や反差別法の必要性を痛感させる歴史的教訓として語り継がれています。
1935年 ナチス・ドイツ ユダヤ人 市民権 ニュルンベルク法
1935年

ハーケンクロイツ旗が正式にドイツの国旗とされる。

1935年、ハーケンクロイツ旗が正式にドイツの国旗として採用されました。
1935年9月15日、ナチス・ドイツは従来の黒・白・赤の旗にハーケンクロイツを配した国家旗を法的に定めました。この旗はナチ党の象徴であり、国威発揚と党の一体化を図る目的で導入されました。従来の戦勝旗は残されたものの、党旗が正式国旗となることでナチス体制の象徴性が強化されました。この国旗は第二次世界大戦終結まで使用され、戦後ドイツでは公共の掲揚が禁止されました。現在でも歴史的背景から公共の場での掲揚が制限されています。
ハーケンクロイツ ドイツの国旗