1165年

(永万元年8月7日) 二条天皇の葬儀で延暦寺と興福寺の僧たちが争い、以降闘争が続く。

二条天皇の葬儀で延暦寺と興福寺の僧兵が衝突し、寺社勢力間の対立が激化しました。
1165年(永万元年8月7日)、二条天皇の葬儀に際し延暦寺と興福寺の僧兵が衝突しました。 葬儀の警護を巡る対立がきっかけとなり、両寺の勢力争いが激化します。 これを契機に寺社勢力間の抗争は以後も断続的に続きました。 平安時代末期の寺社権力の複雑な背景が表面化した出来事として知られます。 武装した僧兵の存在が政治や社会に与える影響を象徴するエピソードです。
1165年 永万 二条天皇
貞治2年/正平21年8月8日

貞治の変勃発。

室町幕府内で起きた政変で、各勢力の対立が表面化した事件です。
1366年(貞治2年/正平21年8月8日)に発生した政治的変動です。 室町幕府内で勢力争いが表面化し、権力構造の不安定さが浮き彫りとなりました。 詳細な経緯は史料が限られるものの、当時の有力守護大名や廷臣間の対立が背景にあります。 この政変は国内の統治体制に動揺をもたらし、後の軍事・政治動向に影響を与えました。 中世日本の権力抗争を理解する上で注目される出来事です。
1366年 貞治 正平 8月8日 貞治の変
永正4年8月7日

越後守護代・長尾為景が守護・上杉房能を急襲。房能は国外に逃れ、為景が越後の実権を握る。

越後守護代・長尾為景が守護上杉房能を襲撃し、越後国の実権を掌握しました。
1507年(永正4年8月7日)、越後守護代の長尾為景が守護上杉房能を急襲しました。 房能は脱出して越国外に逃れ、為景は事実上越後の支配権を一手に握ります。 この政変は室町幕府の地方権力構造に大きな変化をもたらしました。 為景は後に越後国の実力者として台頭し、甥の上杉謙信(長尾景虎)へと受け継がれます。 越後国の内乱は地域統治の経験を積んだ為景の統治基盤を形成する契機となりました。
1507年 永正 8月7日 長尾為景 上杉房能
1791年

フランス革命: フランス王ルイ16世が1791年憲法を承認。

フランス王ルイ16世が1791年憲法を承認し、立憲君主制への移行が正式に開始されました。
1791年9月13日、ルイ16世が1791年憲法を承認しました。 この憲法は三権分立や国民主権を明記し、絶対王政の制限を目指したものです。 国民議会の設立や行政機関の再編など、政治体制の大規模な変革を伴いました。 承認後も内外の反発は続き、後の恐怖政治への道程となります。 フランス革命の理念が法制化された歴史的な節目として評価されています。
1791年 フランス革命 ルイ16世 1791年憲法
明治4年7月29日

天津で日清修好条規に調印。日清間最初の条約。

日本と清国が天津で最初の正式な条約「日清修好条規」に調印し、外交関係を樹立しました。
1871年(明治4年7月29日)、日本政府は清朝との間で天津において日清修好条規に調印し、日清間で最初の近代的対等条約を締結しました。 この条約では両国の領事裁判権や通商条件などが定められ、互いの国交関係を明確にしました。 江戸時代の租借条約や不平等条約とは一線を画し、日本の近代国家としての第一歩を示すものです。 条約締結により近代日本の外交水準が国際社会で認められる契機となりました。 また国内外での評価は高く、その後の日清関係やアジア外交に大きな影響を与えました。
1871年 明治 7月29日 日清修好条規
1912年

明治天皇の大葬が行われる。同日乃木希典大将が夫人とともに自宅で殉死。

明治天皇の大葬が執り行われ、乃木希典大将が妻とともに殉死した悲劇的な一日。
1912年9月13日、東京で明治天皇の大葬(大喪の礼)が厳粛に執り行われました。 多くの国内外の賓客が参列し、明治維新以来の功績をたたえました。 同日、乃木希典大将は妻とともに自宅で殉死(大臣殉葬)し、日本中に大きな衝撃を与えました。 乃木将軍の殉死は武士道の精神を象徴するとして美化され、当時の新聞や小説でも大きく取り上げられました。 この出来事は近代日本の皇室儀礼と武士道の関係を改めて考えさせる契機となりました。
1912年 明治天皇 乃木希典 殉死
1923年

スペインでバルセロナ総督ミゲル・プリモ・デ・リベラが軍事クーデター。軍事独裁政権を樹立。

スペインでプリモ・デ・リベラがクーデターを起こし、軍事独裁政権を樹立。
1923年9月13日、スペイン・バルセロナ総督ミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍が軍事クーデターを敢行しました。 議会政治に不満を抱いていた彼は緊急措置法を発し、国王アルフォンソ13世の支持を得て独裁体制を確立しました。 プリモ・デ・リベラ政権は労働運動の抑圧や言論統制を強化し、治安回復を掲げて国内を統制しました。 この独裁政権は1930年まで続き、スペインの政治体制に大きな影響を与えました。 クーデターはその後のスペイン内戦へとつながる要因の一つとも位置付けられています。
1923年 スペイン ミゲル・プリモ・デ・リベラ
1940年

群馬県伊勢崎市が市制施行。

群馬県伊勢崎市が市制を施行し、新たに自治体として発足しました。
1940年9月13日、群馬県伊勢崎市が市制施行し、新たに自治体として発足しました。 行政サービスの提供や都市計画が本格化し、市民生活の基盤が整備されました。 市章や市歌の制定が行われ、市民の一体感が醸成されました。 農業や織物業を基盤とした地域産業の振興が期待されました。 現在の伊勢崎市の基礎が築かれた歴史的な節目となりました。
1940年 伊勢崎市
1959年

ハインリヒ・リュプケが西ドイツ大統領に就任。

1959年9月13日、ハインリヒ・リュプケが西ドイツ連邦共和国第2代大統領に就任。
1959年9月13日、ドイツ連邦議会はハインリヒ・リュプケを第2代連邦大統領に選出しました。 リュプケはビスマルク時代の保守勢力に近いキリスト教民主同盟の政治家で、前職はバーデン=ヴィルトブルク州首相。 彼の大統領就任は、西ドイツ初期の安定期を支える象徴的役割を果たしました。 任期中、対外的には東西ドイツの分断状態を背景に冷戦下の調停役も務め、国内では連邦制度強化に取り組みました。 1964年まで務めたリュプケの在任は、戦後ドイツ政治の転換期を彩る出来事として記憶されています。
1959年 ハインリヒ・リュプケ 西ドイツ大統領
1968年

アルバニアがワルシャワ条約機構を脱退。

1968年9月13日、アルバニアがワルシャワ条約機構から脱退を宣言し、東側陣営から距離を置く。
1968年9月13日、アルバニアはワルシャワ条約機構から正式に脱退しました。 ソ連のチェコスロバキア侵攻(プラハの春弾圧)に強く反発したアルバニアは、モスクワの政策から決定的に離反。 これによりアルバニアは極度の孤立化へと向かい、独自の社会主義路線を追求する道を選択。 条約機構の脱退は東西冷戦下の陣営内対立を象徴する事件となり、アルバニアは中国や他の非ソ連派国家との関係を強化しました。 国内外に与えた政治的影響は大きく、冷戦構造の複雑化を示す出来事の一つとされています。
1968年 アルバニア ワルシャワ条約機構
1971年

林彪事件: クーデターに失敗した林彪と家族・側近らが飛行機でソ連へ逃亡中に、モンゴル人民共和国内の砂漠で墜落死。

1971年9月13日、クーデター未遂の林彪一派が逃亡中にモンゴル砂漠で飛行機墜落死した林彪事件。
1971年9月13日、中国共産党内で毛沢東の後継を狙った林彪一派はクーデター計画が露見し、軍事専用機で逃亡を図りました。 飛行機はモンゴル人民共和国内のゴビ砂漠上空で墜落し、林彪本人や家族、側近らが全員死亡するとみられています。 この事件は中国国内で長らく詳細が公開されず、『九・一三事件』とも呼称されました。 発表された情報は断片的で、真相を巡る多くの憶測と陰謀論を生む結果に。 外部からも冷戦下の中国共産党内部抗争の象徴的事件として大きな注目を集めました。
1971年 林彪事件 林彪 モンゴル人民共和国
1975年

警視庁がセキュリティポリスを創設。

1975年9月13日、警視庁が要人警護を担うセキュリティポリス(SP)部隊を正式に発足。
1975年9月13日、東京都警察(現・警視庁)は要人の警護を専門に行うセキュリティポリス(SP)部隊を創設しました。 発足当初は首相官邸や大使館など狙われやすい施設・人物の警備を強化する目的がありました。 高度な警護技術と迅速な対応力を身につけるため、警察内外の専門者による訓練が実施されました。 その後、国内外の要人訪日時の警護やテロ対策にも中核的な役割を果たすようになりました。 SP制度の確立は日本における警備・護身の在り方に大きな影響を与えました。
1975年 警視庁 セキュリティポリス