533年
アド・デキムムの戦い(ヴァンダル戦争において東ローマ帝国とヴァンダル王国との間で戦われた)。
533年9月13日、東ローマ帝国の将軍ベリサリウスが北アフリカでヴァンダル王国軍を打ち破った戦いです。
533年9月13日、東ローマ帝国の将軍ベリサリウスが北アフリカでヴァンダル王国軍と激突しました。
この戦いでビザンツ軍は戦術的勝利を収め、カルタゴ奪還への足がかりをつかみます。
ヴァンダル戦争の転機となった一戦で、ユスティニアヌス1世の地中海再征服への道を開きました。
戦場はチュニジア近郊のアド・デキムムで、地理的利点を活かしたベリサリウスの指揮が光りました。
この勝利は後のカルタゴ占領とヴァンダル王国滅亡につながりました。
533年
アド・デキムムの戦い
ヴァンダル戦争
東ローマ帝国
ヴァンダル王国
寛治6年8月3日
越後国一帯に水害被害。原因は、地震による津波か、台風による高潮と考えられる。
越後国一帯で大規模な水害が発生し、多数の田畑や集落が被災しました。
1092年(寛治6年8月3日)に越後国一帯で記録された大規模な水害です。
津波によるものか台風の高潮か、発生原因は諸説あります。
田畑が冠水し、集落や農業用水路が甚大な被害を受けました。
当時の朝廷や地方豪族は復旧作業に奔走し、水害対策の必要性が浮き彫りになりました。
史料上は被害状況の詳細が限られますが、地域社会に大きな打撃を与えたことがうかがえます。
1092年
寛治
8月3日
越後国
1165年
(永万元年8月7日) 二条天皇の葬儀で延暦寺と興福寺の僧たちが争い、以降闘争が続く。
二条天皇の葬儀で延暦寺と興福寺の僧兵が衝突し、寺社勢力間の対立が激化しました。
1165年(永万元年8月7日)、二条天皇の葬儀に際し延暦寺と興福寺の僧兵が衝突しました。
葬儀の警護を巡る対立がきっかけとなり、両寺の勢力争いが激化します。
これを契機に寺社勢力間の抗争は以後も断続的に続きました。
平安時代末期の寺社権力の複雑な背景が表面化した出来事として知られます。
武装した僧兵の存在が政治や社会に与える影響を象徴するエピソードです。
1165年
永万
二条天皇
貞治2年/正平21年8月8日
貞治の変勃発。
室町幕府内で起きた政変で、各勢力の対立が表面化した事件です。
1366年(貞治2年/正平21年8月8日)に発生した政治的変動です。
室町幕府内で勢力争いが表面化し、権力構造の不安定さが浮き彫りとなりました。
詳細な経緯は史料が限られるものの、当時の有力守護大名や廷臣間の対立が背景にあります。
この政変は国内の統治体制に動揺をもたらし、後の軍事・政治動向に影響を与えました。
中世日本の権力抗争を理解する上で注目される出来事です。
1366年
貞治
正平
8月8日
貞治の変
1503年
ミケランジェロが『ダビデ像』の制作を開始。
ミケランジェロがフィレンツェで『ダビデ像』の制作を開始したルネサンスの名場面です。
1503年、ローマ教皇ユリウス2世の依頼を受けたミケランジェロ・ブオナローティがフィレンツェで『ダビデ像』の制作を開始しました。
カッラーラ産の大理石を用い、青年ダビデの理想像を追求した傑作です。
完成した像は翌1504年に公開され、ルネサンス美術の頂点と評されました。
この制作開始はミケランジェロの名声を決定づける契機となり、その後の芸術活動に大きく影響しました。
人間の肉体美を讃える表現は後世の彫刻芸術にも多大な影響を与えました。
1503年
ミケランジェロ
ダビデ像
永正4年8月7日
越後守護代・長尾為景が守護・上杉房能を急襲。房能は国外に逃れ、為景が越後の実権を握る。
越後守護代・長尾為景が守護上杉房能を襲撃し、越後国の実権を掌握しました。
1507年(永正4年8月7日)、越後守護代の長尾為景が守護上杉房能を急襲しました。
房能は脱出して越国外に逃れ、為景は事実上越後の支配権を一手に握ります。
この政変は室町幕府の地方権力構造に大きな変化をもたらしました。
為景は後に越後国の実力者として台頭し、甥の上杉謙信(長尾景虎)へと受け継がれます。
越後国の内乱は地域統治の経験を積んだ為景の統治基盤を形成する契機となりました。
1507年
永正
8月7日
長尾為景
上杉房能
1564年
マドリードのエル・エスコリアル修道院が竣工。
フェリペ2世の命で建設されたエル・エスコリアル修道院が完成し、その壮麗な姿を現しました。
1564年9月13日、マドリード郊外のエル・エスコリアル修道院が竣工しました。
建築にはフアン・バウティスタ・デ・トーレスらが携わり、威厳あるヒエラルキーを表現しています。
壮大な王室霊廟、図書館、宮殿を備えた複合施設として設計されました。
その均整のとれたルネサンス様式と厳格な幾何学的配置は後世の建築に影響を与えました。
現在は世界遺産に登録され、スペイン文化の象徴として多くの観光客を魅了しています。
1564年
マドリード
エル・エスコリアル修道院
1759年
フレンチ・インディアン戦争: フランスのヴィル・ド・ケベックがイギリス軍により陥落。
フレンチ・インディアン戦争中、イギリス軍がケベック市を攻略し、フランス北米植民地の運命を大きく左右しました。
1759年9月13日、フレンチ・インディアン戦争の一環としてイギリス軍がヴィル・ド・ケベックを陥落させました。
ジェームズ・ウルフ将軍率いる英軍は夜襲を敢行して防御を突破しました。
この勝利によりフランスのカナダ支配は致命的な打撃を受け、翌年パリ条約で割譲される要因となります。
モンカルム将軍率いる仏軍は全滅し、北米における勢力図が一変しました。
ヨーロッパ外での植民地戦争が世界史に与えた影響を象徴する出来事です。
1759年
フレンチ・インディアン戦争
1791年
フランス革命: フランス王ルイ16世が1791年憲法を承認。
フランス王ルイ16世が1791年憲法を承認し、立憲君主制への移行が正式に開始されました。
1791年9月13日、ルイ16世が1791年憲法を承認しました。
この憲法は三権分立や国民主権を明記し、絶対王政の制限を目指したものです。
国民議会の設立や行政機関の再編など、政治体制の大規模な変革を伴いました。
承認後も内外の反発は続き、後の恐怖政治への道程となります。
フランス革命の理念が法制化された歴史的な節目として評価されています。
1791年
フランス革命
ルイ16世
1791年憲法
1814年
米英戦争: 米軍がボルチモアのフォートマクヘンリー砦の防衛に成功。これを題材にフランシス・スコット・キーが後にアメリカ国歌「星条旗」の詩となる「マクヘンリー砦の防衛」を執筆。
米英戦争中、フォートマクヘンリー砦がボルチモア防衛に成功し、『星条旗』の誕生に繋がる詩が生まれました。
1814年9月13日、米英戦争でイギリス海軍の砲撃にも耐え、フォートマクヘンリー砦が米軍の防衛に成功しました。
この様子を目撃した弁護士フランシス・スコット・キーが詩『マクヘンリー砦の防衛』を執筆します。
後にこの詩は『星条旗』として歌詞がつけられ、アメリカ国歌となりました。
砦の防衛は独立維持への意志を象徴し、国家的誇りの源泉となります。
歴史的に重要な軍事的勝利と文化的遺産の誕生を合わせ持つ出来事です。
1814年
米英戦争
ボルチモア
フォートマクヘンリー
フランシス・スコット・キー
星条旗
天保14年8月20日
蘭学者・佐藤泰然が佐倉に病院兼蘭医学塾「順天堂」を創立。
蘭学者・佐藤泰然が佐倉で病院兼蘭医学塾「順天堂」を創立。医療教育の礎を築いた出来事です。
1843年(天保14年8月20日)、蘭学者の佐藤泰然は江戸幕府領佐倉(現在の千葉県佐倉市)にて「順天堂」と名付けた病院兼蘭医学塾を開設しました。
当時の日本では西洋医学の知識が限られており、順天堂は蘭方医術の普及と実践教育の場となりました。
佐藤泰然は蘭学研究の第一人者であり、多くの門人を育成しました。
順天堂はのちに東京に移転し、現在の順天堂大学の前身となります。
日本の近代医療と教育の発展に大きく寄与した歴史的な出来事です。
1843年
天保
8月20日
佐藤泰然
明治4年7月29日
天津で日清修好条規に調印。日清間最初の条約。
日本と清国が天津で最初の正式な条約「日清修好条規」に調印し、外交関係を樹立しました。
1871年(明治4年7月29日)、日本政府は清朝との間で天津において日清修好条規に調印し、日清間で最初の近代的対等条約を締結しました。
この条約では両国の領事裁判権や通商条件などが定められ、互いの国交関係を明確にしました。
江戸時代の租借条約や不平等条約とは一線を画し、日本の近代国家としての第一歩を示すものです。
条約締結により近代日本の外交水準が国際社会で認められる契機となりました。
また国内外での評価は高く、その後の日清関係やアジア外交に大きな影響を与えました。
1871年
明治
7月29日
日清修好条規