紀元前490年

マラトンの戦い(日付は諸説あり)。アテナイ・プラタイア連合軍がアケメネス朝遠征軍を撃破。マラトンからアテナイまで走って勝利を伝えた兵士の故事がマラソンの起源となる。

紀元前490年、アテナイ・プラタイア連合軍がペルシア遠征軍を破った古代ギリシャの戦い。伝説の走者がマラトンからアテナイまで勝利を伝え、マラソンの由来となった。
紀元前490年、ペルシア帝国の大軍がギリシャ侵攻を企てマラトン平原に上陸した。アテナイとプラタイアが急遽連合し、数で劣るにも関わらず奇襲をかけてペルシア軍を撃破した。戦闘後、一人の兵士がマラトンから約40キロ離れたアテナイまで走り、勝利を報告したとされる。彼の奔走は『マラソン』の語源として後世に語り継がれた。ギリシャ人の勇気と戦術が結実した歴史的勝利であり、西洋スポーツ文化にも大きな影響を与えた。
紀元前490年 マラトンの戦い アテナイ プラタイア アケメネス朝 マラトン マラソン
1683年

第二次ウィーン包囲。オスマン帝国軍が大軍をもって神聖ローマ皇帝の居城ウィーンを攻撃するが、中央ヨーロッパ諸国連合軍に大敗。

オスマン帝国軍がウィーンを包囲したが、諸国連合軍の反撃で壊滅的敗北を喫した戦い。
1683年、オスマン帝国のカラ・ムスタファ・パシャ率いる大軍がウィーンを包囲し、ヨーロッパ進出を狙った。包囲戦は約2か月に及び、食糧不足と連合軍の救援部隊接近で形勢が逆転した。ポーランド王ヤン3世ソビエスキら率いるハプスブルク帝国、神聖ローマ帝国、ポーランド・リトアニア共和国などの連合軍が攻勢に転じ、オスマン軍を撃退した。この敗北はオスマン帝国の西方拡大の限界を示し、ヨーロッパの勢力均衡に大きな影響を与えた。
1683年 第二次ウィーン包囲 オスマン帝国 神聖ローマ皇帝 ウィーン
1814年

米英戦争: ボルティモアの戦い。

米英戦争中、イギリス軍がボルティモアを攻撃したがアメリカ側が要塞を守り切った戦い。
1814年9月、米英戦争の一環としてイギリス海軍がメリーランド州ボルティモアを砲撃した。アメリカ側はフォート・マクヘンリー要塞で必死に防戦し、夜通しの砲撃にも耐え抜いた。戦いのさなか、弁護士フランシス・スコット・キーが要塞の勇敢な守備を見聞し、『星条旗』の詩を綴った。後にこの詩は合衆国国家『The Star-Spangled Banner』の原詩となった。アメリカの士気を高め、戦況に大きな影響を与えた歴史的出来事である。
1814年 米英戦争 ボルティモアの戦い
1847年

米墨戦争: チャプルテペクの戦い。

米墨戦争でアメリカ軍がチャプルテペクの要塞を攻略し、メキシコ軍に勝利した戦闘。
1847年、米墨戦争中の主要な作戦の一つとしてメキシコシティ防衛線の一翼を担うチャプルテペク城砦が標的となった。アメリカ陸軍と海兵隊は難攻不落とされる高地に突入し、激戦ののち要塞を制圧した。メキシコ側の若い士官たちは壮絶な最期を迎え、『少年ヒーロー(Niños Héroes)』として後世に語り継がれる。勝利により国境線への道が開かれ、最終的に米墨戦争終結条約へとつながった。
1847年 米墨戦争 チャプルテペクの戦い
1938年

ズデーテン危機: ナチス党大会の席上でアドルフ・ヒトラーがズデーテン地方のドイツ系住民に民族自決権を認めるよう要求する。

ヒトラーがズデーテン地方のドイツ系住民に民族自決権を認めるよう要求した日。
1938年9月12日、ナチ党大会の演説でアドルフ・ヒトラーはズデーテン地方のドイツ系住民に民族自決権を認めるよう提案しました。 この発言はチェコスロヴァキアに対する領土要求の端緒となり、国際的緊張を高めました。 ズデーテン危機は英仏など欧州列強の介入を招き、翌年のミュンヘン会談へとつながります。 最終的に英仏はヒトラーの要求を容認し、チェコスロヴァキアはズデーテン地方を失う結果となりました。 この一連の事件は第二次世界大戦勃発の大きな要因のひとつとして知られています。
1938年 ズデーテン危機 ズデーテン地方 民族自決
1942年

第二次世界大戦: イタリア人捕虜を乗せた客船ラコニアがドイツの潜水艦U 156の攻撃により沈没。

1942年9月12日、ドイツ潜水艦U-156が捕虜輸送船ラコニアを攻撃して沈没させた事件です。
第二次世界大戦中の1942年9月12日、ドイツ潜水艦U-156はイタリア人捕虜を乗せた保護対象の客船ラコニアを攻撃しました。船には約1800人の捕虜や乗組員が乗船しており、多数が犠牲になりました。攻撃後、U-156は生存者の救助も試みましたが、アメリカ軍機による誤爆の疑いもあり、混乱が生じました。この事件は国際的な批判を呼び、後に潜水艦作戦規定「ラコニア・オーダー」制定のきっかけとなりました。戦争下での非戦闘員保護の難しさを浮き彫りにした歴史的事件です。
1942年 第二次世界大戦 ラコニア U-156
1943年

第二次世界大戦: バドリオ政権によって幽閉されていたベニート・ムッソリーニがナチス・ドイツに救出される。(グラン・サッソ襲撃)

1943年9月12日、ナチス特殊部隊が幽閉中のムッソリーニを劇的に救出したグラン・サッソ襲撃が行われました。
1943年9月12日、イタリアのバドリオ政権下で幽閉されていたベニート・ムッソリーニがドイツの命を受けた特殊部隊により救出されました。襲撃は標高約2,000メートルのグラン・サッソ山岳施設で行われたため『グラン・サッソ襲撃』と呼ばれます。救出を指揮したオットー・スコルツェニー率いる部隊は武力行使を最小限に抑え、空挺作戦で比較的無傷でムッソリーニを確保しました。救出後、ムッソリーニはドイツ保護下でイタリア・チロルに移送され、後のファシスト政権再建へとつながりました。戦況が不利となる中で行われたこの作戦は、第二次世界大戦における特殊作戦の象徴的事例です。
1943年 バドリオ ベニート・ムッソリーニ ナチス・ドイツ グラン・サッソ襲撃
1945年

第二次世界大戦: 日本軍第7方面軍司令官板垣征四郎陸軍大将がシンガポールの現・シティホールでイギリス軍に対する降伏文書に調印。

1945年、日本軍第7方面軍司令官板垣征四郎がシンガポールでイギリス軍に降伏文書に調印しました。
1945年9月12日、太平洋戦争末期に日本軍第7方面軍司令官であった板垣征四郎陸軍大将がシンガポール市内の現シティホールでイギリス軍代表と降伏文書に署名しました。この調印により、東南アジア地域の日本軍部隊は正式に降伏し、戦後処理の幕開けとなりました。板垣は調印式後、捕虜収容や引き揚げ手続きなど戦後復興に向けた業務を指揮しました。長年にわたる統治の終焉を象徴する重要な歴史的瞬間でした。この出来事は、戦後東南アジアの再編成と国際秩序の変革に大きな影響を与えました。
1945年 第7方面軍 板垣征四郎 シンガポール シティホール 英語版
2020年

アフガニスタン政府と反政府勢力タリバンの代表者による和平協議が、カタールのドーハで始まる。およそ20年にわたって戦闘を続けてきた両者が、公の場で和平協議を行うのは初めて。

カタール・ドーハでアフガニスタン政府とタリバンが初めて公の和平協議を開始。
アフガニスタン政府とタリバンは約20年にわたって紛争を続けてきました。 両者が公の場で和平協議を行うのは初めての試みとなります。 2020年9月12日、カタールのドーハで代表団が顔を合わせ、和平プロセスの枠組みについて協議を開始しました。 この会合にはアフガン政府側とタリバン側の主要メンバーが参加し、政治的解決と武力の終結を目指す議論が交わされました。 会談は米国の仲介のもとで実施され、地域の安全保障や移行期の統治構造、拘束者の交換などが議題に上りました。 この和平協議は、アフガニスタン社会の安定と復興への重要な第一歩と位置付けられています。
2020年 アフガニスタン タリバン カタール ドーハ