1933年
レオ・シラードが交差点で信号待ちをしているときに中性子による核連鎖反応のアイデアを思いつく。
レオ・シラードが中性子による核連鎖反応の着想を得た日。
1933年9月12日、物理学者レオ・シラードはロンドンの交差点で信号待ちをしている際に、中性子を利用した核連鎖反応のアイデアを思いつきました。
この発想は後に原子核エネルギーの研究へとつながり、核分裂の発見に先立つ重要な理論的出発点となりました。
シラードはこのアイデアを特許出願し、後の核兵器開発および原子力利用の基礎を築きました。
彼の業績は現代物理学における画期的な発見として高く評価されています。
核エネルギーの平和利用と軍事利用の両面で議論を呼ぶきっかけともなりました。
1933年
レオ・シラード
中性子
核連鎖反応
1958年
ジャック・キルビーが集積回路 (IC) のデモンストレーションを行う。
1958年、ジャック・キルビーが世界初の集積回路を実演し、電子工学の新時代を切り開きました。
1958年9月12日、テキサス・インスツルメンツ社の技術者ジャック・キルビーは、原子レベルの半導体素子を一枚の基板上に集積した世界初の集積回路(IC)のデモンストレーションを行いました。彼はゲルマニウムを用いた試作回路により、多数のトランジスタや抵抗、コンデンサが連携して動作する様子を示しました。この発明は後のマイクロプロセッサや電子機器の小型化を可能にし、デジタル革命の基盤となりました。同年末に特許申請が行われ、翌年以降IC技術は急速に発展を始めました。キルビーの功績は後にノーベル物理学賞受賞へとつながりました。
1958年
ジャック・キルビー
集積回路
1959年
ソビエト連邦の無人月探査機「ルナ2号」が打ち上げ。14日、史上初めて月の表面に到達。
1959年、ソ連の無人月探査機ルナ2号が打ち上げられ、史上初の月面到達を果たしました。
1959年9月12日、ソビエト連邦はルナ2号をカザフスタンのバイコヌール宇宙基地から打ち上げました。探査機は約36万キロの距離を飛行し、14日に月の裏側付近に衝突して初の月面到達を記録しました。搭載された小型ペナントは月面に降下後も形を保ち、有人到達前の偉業として世界的に注目されました。この成功は米ソ宇宙開発競争(スペースレース)におけるソ連の優位性を印象づけました。以降、月探査技術の発展に大きな刺激を与えた歴史的ミッションです。
1959年
ソビエト連邦
月
ルナ2号
1962年
日本原子力研究所原子炉「JRR 3」が初の国産原子炉として臨界に達する。
1962年、日本原子力研究所の国産原子炉『JRR-3』が初臨界に達しました。
1962年9月12日、日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)が開発した国産研究用原子炉JRR-3が初めて臨界状態に達しました。場所は茨城県東海村にある同研究所で、同炉は中性子散乱実験など多目的利用を想定して設計されました。臨界達成により日本の原子力研究は独自技術による運用段階へ移行し、核燃料や放射線利用研究が加速しました。その後、JRR-3は数十年間にわたり科学技術の発展と原子力人材育成に貢献しました。国産炉技術の歴史的マイルストーンとなった出来事です。
1962年
日本原子力研究所
原子炉
JRR-3
臨界
1962年
アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが「我々は月に行くことを選択する」の演説を行う。
1962年、ジョン・F・ケネディ大統領が月探査への意志を示す有名な演説を行いました。
1962年9月12日、アメリカ合衆国のジョン・F・ケネディ大統領はテキサス州ヒューストンのライス大学で「我々は月に行くことを選択する」と題した演説を行いました。彼は人類の挑戦精神と科学技術の重要性を説き、アポロ計画による月探査への国家的取り組みを訴えました。演説は「困難だからこそ挑戦する」という言葉で締めくくられ、多くの国民に感銘を与えました。これによりNASAの予算は増額され、アポロ計画は本格的に進展しました。スペースレースにおける米国のリーダーシップを確立する転機となった歴史的瞬間です。
ジョン・F・ケネディ
我々は月に行くことを選択する
1966年
アメリカの有人宇宙船「ジェミニ11号」が打ち上げ。
NASAの有人宇宙船ジェミニ11号が地球周回軌道へと打ち上げられました。
ジェミニ11号はアメリカの有人宇宙計画ジェミニ計画の一つで、1966年9月12日にケープカナベラルから打ち上げられました。
同ミッションはアジェナ標的機とのドッキングおよび最長時間のドッキング維持を試みるもので、高度1,225kmまで到達する地球周回記録を樹立しました。
搭乗した宇宙飛行士リチャード・ゴードンとチャールズ・コンラッドは高度保持技術と精緻な操縦技術を駆使し、目標との結合を成功させました。
高軌道での滞空により宇宙放射線の影響や微小重力環境下での人体への影響を観測し、将来の月着陸計画への貴重なデータを収集しました。
この成果はアポロ計画への橋渡しとして評価され、有人宇宙飛行史における重要なマイルストーンとなりました。
1966年
ジェミニ11号
1979年
岡山県人形峠の動力炉・核燃料開発事業団のウラン濃縮パイロットプラント「OP 1A」操業開始。
日本初のウラン濃縮パイロットプラント「OP 1A」が人形峠で稼働を開始しました。
1979年9月12日、岡山県の人形峠にある動力炉・核燃料開発事業団のウラン濃縮パイロットプラント「OP 1A」が本格操業を開始しました。
この施設は天然ウランから核燃料用ウラン235同位体を分離・濃縮する実証試験を目的とし、ガス拡散法を採用して運転されました。
濃縮ウランは国内の原子力発電所で使用される燃料として重要な役割を果たし、日本のエネルギー自給率向上に貢献しました。
プラントの稼働によって技術蓄積が進み、その後の大型商業濃縮工場建設への基盤となりました。
一方で、核拡散防止の観点から運転管理やセキュリティ体制の厳格化が求められるようになりました。
1979年
岡山県
人形峠
動力炉・核燃料開発事業団
ウラン濃縮
1992年
50回目のスペースシャトルミッションとなるSTS 47でエンデバーが打ち上げ。日本人2人目の宇宙飛行士・毛利衛とアフリカ系アメリカ人女性初の宇宙飛行士メイ・C・ジェミソンが搭乗。
エンデバーのSTS-47ミッションで毛利衛さんとメイ・C・ジェミソンさんが宇宙へ飛び立ちました。
1992年9月12日、スペースシャトル・エンデバーによる50回目のミッションSTS-47が打ち上げられました。本ミッションでは微小重力環境下での生物学実験や材料科学実験が行われました。毛利衛さんは日本人として2人目の宇宙飛行士として搭乗し、多数の実験に参加しました。またメイ・C・ジェミソンさんはアフリカ系アメリカ人女性として初めて宇宙へ飛行し、歴史的偉業を達成しました。ミッションは無事成功し、得られたデータは宇宙科学の発展に貢献しました。
1992年
スペースシャトル
STS-47
エンデバー
毛利衛
アフリカ系アメリカ人
メイ・C・ジェミソン
2014年
世界初となる人工多能性幹細胞(iPS細胞)を使った手術が行われる。
世界初のiPS細胞を用いた臨床手術が実施されました。
2014年9月12日、人工多能性幹細胞(iPS細胞)を用いた世界初の臨床手術が行われました。iPS細胞は患者自身の皮膚細胞などから作成でき、免疫拒絶のリスクを低減する再生医療の革新的技術です。手術は安全性と有効性の検証を目的として実施され、成功裏に終了しました。この成果は再生医療分野における重要なマイルストーンとされ、国内外の医療コミュニティで大きく注目されました。現在もiPS細胞を用いた研究開発が進められ、多くの難病や外傷治療への応用が期待されています。
2014年
人工多能性幹細胞