寛永6年7月25日

紫衣事件。江戸幕府が高位・高徳の僧への紫衣の勅許を停止。

江戸幕府が朝廷の高位僧への紫衣着用許可を停止し、政教関係に緊張が走った事件。
1629年、後水尾天皇が勅許した紫衣(僧侶の装束)を江戸幕府が取り消したことで発生した。紫衣は高位・高徳の僧侶に与えられる栄誉であり、朝廷の権威を象徴するものだった。幕府はこの措置で宗教界を統制し、寺社勢力の独立を抑えようとした。教義や礼式をめぐる朝廷との対立が表面化し、寺社奉行による介入が強化された。結果、幕府の政治的影響力がさらに拡大し、以後の「公儀支配」の一端を示す事件となった。
1629年 寛永 7月25日 紫衣事件
1848年

スイスの歴史: 連邦憲法が公布され、スイス連邦が樹立される。

スイス初の連邦憲法が公布され、近代的な連邦国家としてのスイスが誕生した。
1848年9月、スイス内戦(ソンデルブント戦争)の終結を受けて連邦憲法が制定・公布された。これにより従来のカントン連合から中央集権的かつ民主的な連邦国家へと再編成された。憲法は連邦議会と連邦評議会の二院制を定め、宗教や言語など多様性を尊重する制度を導入した。自治権を維持しつつ効果的な連邦政府を樹立したことで、今日のスイス政治体制の基礎が築かれたとされる。
1848年 スイスの歴史 スイス連邦
1881年

島根県から分離して鳥取県を再設置。

明治時代の県制改革で、一度統合された鳥取県が再び分離・設置された。
1876年の廃藩置県により一時期島根県に統合されていた鳥取県が、1881年9月12日に再設置された。地元の要望や行政効率の観点から分離が決定され、鳥取城下町を中心に再び県庁が置かれた。これにより地域住民の統治機構が再構築され、明治政府の中央集権的行政改革の中で地方分権の動きも見られた事例となった。
1881年 島根県 鳥取県
1919年

アドルフ・ヒトラーがドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス))の集会にはじめて出席する。

アドルフ・ヒトラーがドイツ労働者党の集会に初めて出席した日。
1919年9月12日、第一次世界大戦後の混乱期にアドルフ・ヒトラーはミュンヘンで開催されたドイツ労働者党(DAP)の集会に参加しました。 この党は後に国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)へと発展します。 ヒトラーはその演説能力で党内で頭角を現し、短期間で影響力を強めていきます。 彼の参加はドイツ政治史を大きく変える転機となり、ナチ党の台頭への第一歩となった重要な出来事です。 以後ヒトラーは党の宣伝担当として活躍し、指導者への道を歩み始めました。
1919年 アドルフ・ヒトラー ドイツ労働者党 国家社会主義ドイツ労働者党
1938年

ズデーテン危機: ナチス党大会の席上でアドルフ・ヒトラーがズデーテン地方のドイツ系住民に民族自決権を認めるよう要求する。

ヒトラーがズデーテン地方のドイツ系住民に民族自決権を認めるよう要求した日。
1938年9月12日、ナチ党大会の演説でアドルフ・ヒトラーはズデーテン地方のドイツ系住民に民族自決権を認めるよう提案しました。 この発言はチェコスロヴァキアに対する領土要求の端緒となり、国際的緊張を高めました。 ズデーテン危機は英仏など欧州列強の介入を招き、翌年のミュンヘン会談へとつながります。 最終的に英仏はヒトラーの要求を容認し、チェコスロヴァキアはズデーテン地方を失う結果となりました。 この一連の事件は第二次世界大戦勃発の大きな要因のひとつとして知られています。
1938年 ズデーテン危機 ズデーテン地方 民族自決
1962年

アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが「我々は月に行くことを選択する」の演説を行う。

1962年、ジョン・F・ケネディ大統領が月探査への意志を示す有名な演説を行いました。
1962年9月12日、アメリカ合衆国のジョン・F・ケネディ大統領はテキサス州ヒューストンのライス大学で「我々は月に行くことを選択する」と題した演説を行いました。彼は人類の挑戦精神と科学技術の重要性を説き、アポロ計画による月探査への国家的取り組みを訴えました。演説は「困難だからこそ挑戦する」という言葉で締めくくられ、多くの国民に感銘を与えました。これによりNASAの予算は増額され、アポロ計画は本格的に進展しました。スペースレースにおける米国のリーダーシップを確立する転機となった歴史的瞬間です。
ジョン・F・ケネディ 我々は月に行くことを選択する
1963年

最高裁判所が松川事件の検察側による再上告を棄却。被告人全員の無罪が確定する。

1963年、最高裁が松川事件の再上告を棄却し、被告全員の無罪を確定しました。
松川事件は1949年に発生した列車脱線事故をめぐる事件で、鉄道労働者が国家転覆を企てたとして起訴されました。長期にわたる裁判の末、1963年9月12日に最高裁判所は検察側の再上告を棄却しました。これにより被告人全員の無罪が最終確定し、国家賠償請求訴訟にもつながりました。判決は冤罪や裁判制度の在り方に関する議論を呼び、その後の労働運動や司法改革に影響を与えました。司法の公正さを問う重要な判例として知られています。
1963年 最高裁判所 松川事件 無罪
1974年

エチオピアでクーデター(エチオピア革命)。皇帝ハイレ・セラシエ1世が逮捕・廃位され、臨時軍事行政評議会に権力を移行、社会主義国家となる。

エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世が廃位され、臨時軍事行政評議会が権力を掌握しました。
1974年9月12日、エチオピアで軍事クーデターが発生し、長らく君臨していた皇帝ハイレ・セラシエ1世が逮捕・廃位されました。 クーデターは軍の将校と下士官で構成される臨時軍事行政評議会(Derg)によって主導され、社会主義的改革を掲げて政権を掌握しました。 ハイレ・セラシエ1世の統治下では飢饉や貧富の差拡大など国内問題が深刻化しており、軍部や学生、労働者の不満が高まっていました。 Dergは土地国有化や大規模な教育改革を進める一方、反対派に対する弾圧を強化し、エチオピアは社会主義国家へと変貌しました。 この革命は冷戦期のアフリカ地域における勢力拡大競争の一環ともなり、ソ連や東欧諸国との結びつきを深めました。
1974年 エチオピア クーデター ハイレ・セラシエ1世
1980年

トルコで9月12日クーデターが起こる。

トルコ軍が政権を掌握した9月12日クーデターが勃発しました。
1980年9月12日、トルコ軍によるクーデターが発生し、当時の民政政府は打倒されました。 クーデターは国軍参謀総長ケナン・エヴレン率いる司令部が実施し、戒厳令が布告されて政治活動が禁止されました。 1970年代後半から続くイデオロギー対立と経済混乱を背景に、軍部は治安回復と国家統制の名目で介入しました。 その結果、政府機関は解体され、数千人が逮捕・処罰される一方、人権侵害や弾圧が国内外で批判を浴びました。 軍事政権は1983年まで続き、トルコの政治体制と社会に深い影響を残しました。
1980年 トルコ 9月12日クーデター
1982年

中国共産党第12回党大会で中央委員会総書記に胡耀邦、党軍事委主席に鄧小平を選出。

中国共産党大会で胡耀邦が総書記に、鄧小平が党軍事委主席に選出されました。
1982年9月12日、中国共産党第12回党大会が北京で開幕し、中央委員会総書記に胡耀邦が、党軍事委員会主席に鄧小平が選出されました。 この人事は文化大革命後の指導部刷新を象徴するもので、改革開放政策の継続を明確に示しました。 胡耀邦は党内の民主化や腐敗一掃を掲げ、鄧小平は軍の現代化と政治安定を優先課題としました。 大会では「社会主義現代化建設」を加速する方針が採択され、経済改革と外交関係の正常化が推進されました。 こうしたリーダーシップの交代は、後の中国の急速な経済成長と国際的台頭を支える基盤となりました。
1982年 中国共産党 中央委員会総書記 胡耀邦 鄧小平
1990年

ドイツ再統一: 東西ドイツと第二次世界大戦直後のドイツ占領4か国(フランス・イギリス・アメリカ・ソ連)がドイツ最終規定条約に署名。

東西ドイツと占領4か国が再統一条約に署名し、ドイツ統一への最後の法的手続きを完了しました。
1990年9月12日、東西ドイツと第二次世界大戦後にドイツを占領したフランス・イギリス・アメリカ・ソ連の4か国が「ドイツ最終規定条約(2+4条約)」に署名しました。この条約により統一後のドイツ主権が正式に認められ、駐留軍や国境管理など安全保障に関する取り決めが定められました。ベルリンの壁崩壊を経て、冷戦終結の象徴的な出来事とされた本合意は、同年10月3日の正式再統一へとつながりました。条約締結はヨーロッパの地政学構造を大きく変え、EU拡大への道を開く一因となりました。
1990年 ドイツ再統一 ドイツ 第二次世界大戦 フランス イギリス アメリカ ソ連 ドイツ最終規定条約
2007年

安倍晋三首相が国会での代表質問を前に辞任を表明。

安倍晋三首相が健康上の理由を理由に辞任を表明し、政界に衝撃を与えました。
2007年9月12日、安倍晋三首相は国会での代表質問を前に健康上の理由を挙げて首相と自民党総裁の辞任を表明しました。2006年末に首相に就任して以来、靖国神社参拝問題や年金記録問題などで支持率が低下していました。慢性的な持病の悪化も重なり、在任期間は1年に満たない短期間で終わることとなりました。辞任発表は国内外に大きな波紋を呼び、後任選びや政治的混乱を招きました。後に安倍氏は政界に復帰し、再び首相に就任することになります。
安倍晋三 首相 国会